第5話

 死確者は自宅のあるマンションへ入った。ポストに入った郵便物には目もくれず、一階で止まっていたエレベーターに乗り込むと、7を押した。


「自宅に帰られるんですか」


 誰もいない空間なので、私は遠慮なく声をかけた。


「そうよ」顔を上げた死確者は、登っていく数字を眺めている。「その前に迎えに行くけどね」


 相手の心当たりは一人しかいない。「お子さんを?」


「そう」


 だが、住所は確かここで、階数は七階であったはずだ。


 チン、という軽い音を鳴らしながら、おもむろに扉が開く。狭い空間から出ると、脇目振らずに右手方向へ歩く。日差しが差し込んでくる外廊下ならではの感覚は、私にとってはちょっとした幸せだった。

 このままだと部屋に着く、そう思って追っていくと、死確者は不意に足を止めた。自宅ではなく、3つ手前。表札に“八坂やさか”と書いてある部屋の前だ。予想外の行動に思わずよろけそうになる。


 死確者はインターフォンを鳴らす。白くゴツゴツとした壁によく目立つ、黒色だった。扉の奥からピンポーンと鳴ったのが、外まではっきりと聞こえてきた。プツリという小さなノイズの後、『はい?』と女性の妙に高い声が聞こえる。だが、お年は召していると思われる。


 顔をインターフォンに近づけた。「お世話になってます、橋下です」


『あら、早かったわね』


 急に声が低めになった。わざと変えていたのだろうか。


『今日はもう終わりなの?』


「ええ、まあ」


 言葉を濁す死確者。それもそうだ、終わりというのは嘘なのだから。


 死確者はマンション入口に来るまでに電話をかけ続けていた。相手は様々。だが共通して皆、分厚く付箋ばかり貼ってある手帳に記載されている依頼人であり、尚且つ仕事を断る謝罪をしていた。


「お仕事の電話ですか?」何件目かの電話を切った後、私は話しかけると、「いくつか弁護を依頼されてたんだけど、全部断ったわ。明日死ぬのに引き受けるなんて、無責任でしょ?」と死確者は応えた。


「であれば、今日は仕事場には行かないということですか」と続けると、「子供が産まれる前から年中無休で働いてたんだから、今日くらいはね。それにさ、一度してみたかったのよね、無断欠勤ってやつ」と、まるでいいイタズラを思いついた子供のように、死確者は微笑んだのが印象的だった。


『なら、今日はゆっくりできるわね。待ってて、今行くわ』


 インターフォンが切れる。続けて木の板を踏む足音が聞こえる。そして、扉の鍵が開き、玄関が開いた。

 扉の向こうから女性が出てくる。おそらく先ほど出た人間だろう。頭の白髪まじりと顔のシワ具合から見るに、60代前半か半ばぐらいか。


「お疲れさま」


 相手の女性は目元にシワが寄せ、優しそうな笑みを浮かべた。


「久々にご飯一緒に食べれるわね。やっぱりお母さんと一緒にいれるなら、それに越したことはないものね」


「全くです」


「あっ、そういえばどう? 話し合いは進んでる?」


「いや、なかなか……」


 離婚協議のことだろうか。


「あぁー私ったら。ゴメンなさい。せっかく早帰りできたのに無粋な真似して。すぐ呼んでくるわね。けど、今寝ててね、すぐ用意させるから少し待ってて」


 矢継ぎ早に話すだけ話すと、女性は奥のすりガラスで仕切られた部屋に踵を返した。


恵美子えみこさんっ」


 死確者は突然、声を張って呼び止めた。歩みを止めて、振り返る。どうしたのか、と言わんばかりに眉が上がっている。


「本当にいつも、ありがとうございます」


 死確者は深々とお辞儀をした。それを見た恵美子さんは慌てて引き返してきた。「どうしたの急に?」と、何故か心配そうな顔をしている。


「いやその」なんといっていいのか分からず、死確者は目を泳がせる。「預かって頂いてることにちゃんとお礼できてなかったなって……」


「お礼なんていいのよ。私が預からせてくれって頼んだのだから。それに、同じマンションの住人同士、持ちつ持たれつ、遠慮せずに頼ってちょうだいな」


 恵美子さんの顔には笑みが溢れていた。


「おばちゃーん、どうしたのー?」


 奥から声が聞こえてきた。二人とも視線を向ける。いつのまにか仕切りを開けた子供が眠たそうに目をこすっていた。2人の問答が聞こえ、目を覚ましたのだろうか。


「あっ! ママー!」


 廊下を踏み鳴らしながら、屈託ない笑顔で走ってくる子供。


弓弦ゆづるぅー」


 死確者は膝を曲げ目の高さを揃えると、嬉しそうに腕を広げた。今まで見たことのない、満面の笑顔だ。

 そのままダイブされた死確者は強く抱きしめた。その腕から離れないように、離さないように。その姿は、死神から聞いていた男勝りな怖い女弁護士ではなく、子供を心から大切にしている1人の母親であった。


「ママ、いたいよ……」


 想像以上に強く抱きしめていたらしい。弓弦君は少しして苦しそうに死確者に伝えた。


「あっ、ごめんね」慌てて離す死確者。


 明日死んでしまうのだ。強く抱きしめたくもなるのも、自然の摂理というものだろう。


「きょうははやいね」顎を少し引くと、真っ直ぐな目で話し始めた。


「弓弦のために早く帰ってきたんだよ」


「ぼくのため?」首を傾げて、人差し指を自身に向ける弓弦君。


「うん」死確者は縦に頷いた。「これから、遊園地行こっか?」


「えっ!? いいの!」


「ずっと行きたがっていたもんね」


「やったぁー!」両手を高々と上げた。


「やったねぇ〜弓弦君」恵美子さんは、まるで自分のことのように笑みを浮かべている。


「はやくいこうよっ!」


「だってよ、お母さん」恵美子さんは死確者に顔を向けた。


 死確者は弓弦君と手を繋ぐと、「色々ありがとうございました」と頭を下げた。


「だから、そんなかしこまらなくていいのよ。それよりも早く行って、少しでも長く楽しんでいらっしゃい」


 死確者は口の端を少し上げると、軽く頷いた。続けて、「弓弦、おばちゃんにバイバイは?」と声をかけた。


「おばちゃんっ! バイバイ!」


 弓弦君は引き千切れんばかりの勢いで手を振る。遊びに行けるのがよっぽど楽しみなのが伝わってくる。


「バイバ〜イ、また明日ね」振り返すと、視線を上げた。「佳苗さんも、また明日」


「……はい」


 ぎこちない笑顔。まあ、返答はしづらいだろう。


「それじゃあ」そう言うと、死確者は弓弦君とエレベーターへ向かう。私は邪魔しないように後ろをついて行く。


「最初、着いたら何乗ろうか?」


「ええっとねぇ、どうしよっかなぁ〜」


 腕を大きく振りながら、親子は会話を進めていく。その様子を後ろからついていきながら、眺める。当然話したい事や伝えたい事は沢山あるが、今はやめておく。経験の浅い私でも、流石に配慮しなければいけない雰囲気であることぐらいはよく分かる。

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