事件編 【傲慢】の被害者
現場は田島医師の自宅であった。自宅と言っても診療所を兼ねているのでとても大きい。田島医師の説明によると診療所とつながっている建物が彼とその両親の暮らす家でそれとは別に山側にある離れが幸三郎氏とその奥さんが暮らしていた建物だという。しかしその奥さんに数年前に先立たれ、今は幸三郎氏も息子一家と同じほうで寝食をしていたそうだ。そして離れは書斎として使っていた。その書斎が現場である。
書斎の中に入るとひどい臭気が立ち込めているのを感じた。すぐに血液のにおいと分かる。それも尋常な具合ではない。思った通り床には赤黒く変色した血液が広がり、その血を辿って行くと壁に書かれた同じく赤黒い文字へとつながる。
傲慢は大罪なり
【怠惰】の次は【傲慢】である。七つの大罪の2つを遂行されてしまった。こうなった以上、犯人はあと5人もの人を殺すかもしれないのだ。
床に転がった動かなくなった老人から目をそらし、窓の外を見る。
まだ、雨は止まない。寧ろさっきより強さを増したように感じる。
西木刑事が携帯をかけようとするがどうやらこの嵐で通じないらしい。田島医院の電話を借りて本部へ連絡するようだ。田島医院には今、田島医師とその父親の田島洋祐医師の2人がいた。田島医師の母親は仕事で県外に出張中なのだそうだ。検死には洋祐医師が立ち会うらしい。
「どうやらお前さんの推理した通りになってしまったようだな」
郷原警部がぼそりとつぶやく。
「ええ。それより大丈夫なんですか。つまりはこの地区の中にあと5人を殺そうとしている人間が潜んでいるんですよ」
「ああ、分かってる。だが、今、我々にできるのはすでに起きた事件の捜査をすることだけなんだ」
すると西木刑事が電話を終えたようで戻ってきた。
「警部、大変です。本部に問い合わせたところ。この暗さと雨では外灯のない山道を来るのは危険だから明日の朝まで耐えろと言われました」
「なんだとお。それはまずいぞ」
警部はうーんと唸ってから僕へ言った。
「後藤君。今が非常事態というのは分かるな。そしてこの事態の中、警察官二人では対応しきれないかもしれん。何より君は第一の事件では完全のアリバイを持っている。私は君を信用する。だから今夜一晩だけ協力してはくれないか」
「ええ、ぜひ。お願いします」
「ありがとう。ひとまずこの現場は私たちで何とかする。君は集会所で待機していてくれ。後で戻ったら推理の続きを聞かせてくれ」
「はい、わかりました」
僕は一人集会所へ戻った。途中、民宿へ寄って事情を説明して荷物を少し持っていくことにした。殺人鬼が近くにいると考えるとさすがに怖いがどうしようもない。見つけたらひたすら逃げよう。
集会所へは何事もなく到着し、刑事さん達が帰って来るまでに推理をまとめておこうとメモ帳を使って考えておく。結局刑事たちが返ってきたのは11時を過ぎた頃だった。二人ともぐったりとしていたので温かいコーヒーを入れると喜んでくれた。
「はあ、疲れた。だが今日は寝てられないな。いつ第三の事件が起きるかわからん」
「そうですね。少なくとも応援が来るまでは…」
僕は改めて幸三郎氏の事件の状況を聞いた。
幸三郎氏の死因は心臓を包丁で刺されたことによる失血死、凶器の包丁は書斎に転がっていたという。また、検死の結果死亡推定時刻は午後の5時前後。そのとき洋祐医師は昨日亡くなった石原美海さんを町の中心部にある総合病院に運ぶのについて行ったためまだ戻ってきておらず、田島医師は事件とは別件で地区の中の体の弱い老人の家を回診して回っていたそうで家には幸三郎氏のほか誰もいなかった。田島医師が6時ごろに帰って来ると人の気配はなく、夕食を軽く済ますと洋祐医師が帰ってきて、幸三郎氏がいないという異変に気が付いた。すぐに離れの書斎を確認したところ遺体を見つけたそうだ。二人とも今日の幸三郎氏の予定は把握していなかったとのこと。
また、現場の状況から判断して犯人は幸三郎氏に充分に近づいてから包丁を出して刺したようで抵抗した後は見られなかったという。さらに現場に書かれたあの『傲慢は大罪なり』という字だが、なんと幸三郎氏の血を墨汁の代わりにして書道用の筆で書かれたものだったのだ。その血だらけの筆も現場に落ちていた。
幸三郎氏は携帯電話を持っていなかったため大した手がかりは残っておらず、他の場所からも有力な手掛かりは見つからなかった。幸三郎氏のカバンから見つかった手帳にも今日の欄にスケジュールは記載されておらず、誰かと会う予定があったのかは分からずじまいであった。
「ひとまず今の話を聞いて思いついたのはまずはどうして幸三郎氏は犯人が近づくのを許したのかということです。それとどうしてリスクを冒して被害者の自宅で殺したかですね」
「うむ、なるほどな。私の見立てでは犯人は田島さんに電話か何かでアポを取って書斎へ招き入れてもらい家に他の家族がいないことを確認した上で殺したんじゃないかと思うんだよ。この雨のせいであの家に行くところとか出ていくところを目撃される可能性は低いだろ。だからそうじゃないかと思うんだけどねえ」
「僕もそれが一番すんなりいく推論だと思います。犯人は幸三郎氏と書斎で何かしらの話をするよう持ちかけたんでしょう。つまりこの二つの疑問の答えは、おそらく犯人は幸三郎氏と親しく話ができる関係であり家に人がいない可能性が高いと知っていて敢えて被害者宅で凶行をしたのだと思われます」
「ああ、それはいいんだが、ただ今回の事件ではあまり犯人の絞り込みに使えないんだよなあ」
「そうですね。こんな小さい地区ですから、全員知り合いみたいなものでしょうね」
「それに幸三郎氏は町議会議員だったんだ。知り合い以外でも親しげに応対するだろう」
郷原警部は3杯目のコーヒーをグビリと一気飲みした。
「犯人かあ…いったい何者なんだ。だいたいなぜ犯人は美海さんと田島さんという全く関係のなさそうな二人を殺したんだよ。愉快犯なのか?」
「それについては僕も考えてみたんですが、推理小説ならば一番高い可能性は一番殺したいのが誰なのかをわからなくすることによって動機から足をつくのを回避するためというのが考えられるのですが…これだと犯人は全く関係のない人間を殺すことになるので現実的ではないと思うんです」
「そりゃそうだ。精神的にも肉体的にもリスクが高すぎる」
「ええ、とするとやはり愉快犯か、殺された二人に何かしらの関係があったのか」
しかし僕も含めその考えには懐疑的だ。二人に関係があるとは思えないし、愉快犯と決めつけるのはどうも乱暴だ。かわりに第一の事件について話すことにした。
「そういえば先ほどから考えていた事なんですが、どうして第一の事件で犯人は靴を送ってきたんでしょう。というかどうやって靴を盗ったのでしょうか。海に突き落としたのなら靴を取る暇なんてないでしょう」
「そりゃ、見立て殺人を考えるくらいの犯人なら落とす前なり後なり靴を取ることぐらい計画していてもおかしくはないだろう。それに手紙だけだったら本当に殺したのか、いたずらなのか判断できないからじゃないのか」
「まあそうですね。でも、見立て殺人を計画していた犯人からすれば第二の事件でも手紙と同様のメッセージを残すことを予定していたんですから、わざわざ靴まで使っていたずらでないことを強調する必要はないんじゃないかと思うんです」
「じゃあ、何だというんだ?」
「うーんと、そうですね…念のために聞きますが美海さんは暴行などは受けてなかったんですよね」
「ああ、なかった」
「例えば靴には殺人であることを示す以上の意味があったとか」
「具体的には?」
「もしかしたら初めは自殺に見せかけようとしたのかもしれません。しかし途中で計画を変更したため、あらかじめ回収していた靴が邪魔になった。手元においていたら警察に見つかるかもしれない。だからいっそのこと手紙と一緒に被害者のお宅に送り付けた」
「いや待て。それだと犯人は始めは見立て殺人をする気がなかったことになるのか?」
「えっと……だめですね。確かにこれだと辻褄が合いません」
すると今まで隣で半分ぐらい寝ていた西木刑事が口を開いた。
「じゃあ、こういうのはどうです」
「おっ! 西木、起きてたのか、お前」
「はい。まだ寝てはいません」
「そうか。で、何を思いついたんだ」
「はい。私はやはり現実で見立て殺人などというものをはじめから計画する人間がいるとはあまり考えられません。もしかして犯人は当初幸三郎氏だけを殺そうとしていたのではないでしょうか」
「ほう、面白いことを言うなあ。それで、どうして女の子まで余計に殺すんだ」
「例えば幸三郎氏を殺すことを計画しているのを知られてしまったとか。私の想像ですが、犯人は元々、昨日幸三郎氏を殺そうとしていたのではないでしょうか。しかしそれを美海さんに見つかってしまい、仕方なく口封じをした。その時点では何より疑われないことが重要ですから自殺に見せかけて殺したんです。しかし夜になって打開策を練っているうちに見立て殺人を思いつき、夜が明けぬうちに羽場さんの家に靴と手紙を届けに行ったんです。これでどうでしょう」
郷原警部はじっくりと考えてから西木刑事の推理へ返答した。
「西木、お前…お前も推理小説好きなんじゃねえのか。いや、お前の推理は大したものだ。確かに理にかなっているというか筋が通っている。だがなあ、筋が通ってるからと言って実際にそんなことをするとは限らん。まずどうして犯人はわざわざ見立て殺人に路線変更をする必要がある」
「それは後藤さんが言ったように誰が本当の標的だったのかを絞らせないためでは」
「問題はそこだ。お前が犯人ならわざわざ見立て殺人にして二つの他殺体を作るのと片方を自殺に偽装して被害者は一人だけにするのではどちらを選ぶ」
「…そうですね。普通自分からリスク覚悟で前者を選ぶ人は少ないですね」
「ああ、いい線だとは思うがリスクが高い。そこがどうも推理小説的なんだよ」
結局靴の謎についても結論は出なかった。そのままいくつか話し合ったが有力な推理が生まれないまま朝を迎えた。
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