第4話

「おばあちゃんの脳にはね、とても大きな怪物が巣食っているのよ」



 帰りのバス。車内は夕日の光で燃えるように赤く染まり、そんな中で彼女はポツリと言葉を溢した。



「人間っていうのは本当にどうしようもないわね。脳に少しの障害が生じたら、これまでの事を忘れてしまうのだから」



 彼女は昔のことを話し始める。彼女の両親は、彼女が幼い頃から仕事で忙しくしていて、家にもあまりいなかったそうだ。



「だから、おばあちゃんが小さかった私の面倒を見てくれていた。正直、私は両親よりもおばあちゃんの方が好きよ」



 絵本を読み聞かせてもらった。おすすめの本を教えてもらった。生きて行く上で大切な考え方を教えてもらった。

 どうして誰かに酷いことをしてはいけないのか。どうして命を粗末にしてはいけないのか。誰かを愛することの尊さと誰かから愛されることの幸福。そういったことを、彼女はおばあさんから教わった。



「おばあちゃんが初めて倒れたのは、まだ私が中学生だった時。学校を終えて家に帰ると、リビングの真ん中でおばあちゃんが倒れていたわ」



 それから病院へ行き、診断を受け、入院することになり、少しずつおばあさんは記憶を失っていった。



「それから、入退院を繰り返している。お医者さんがいうことにはね、もうどうしようもないらしいわ」



 彼女の顔は窓ガラスの外へ。窓ガラスに映り込む彼女の瞳は、遠い所に向けられている。



「話がかみ合わなくなった。共有した時間は失われた。相手が何を考えているのか、どういう気持ちでいるのか分からなくなった」



 それでも、時々怖いくらいに昔の表情を浮かべる時がある。

 今日がそうだった。

 話を終えて病室を去ろうとした時だ。その時、おばあさんはしっかりとした表情で僕の顔を見て、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 空気が変わったのをひしひしと感じた。きっと、この人の本来の姿はこうなのだと思った。



「人って、本当に不思議で面倒ね」



 彼女は改めて呟く。

 僕達は欠陥品だ。記憶なんてものはいつだって曖昧で、誰とも真に分かり合うことなんて出来なくて、脆い臓器一つに支えられている。

 そんな欠陥品が、何十億という数この地球に犇めいていると考えると、戦争やテロが起こってしまうのも頷きたくはないけれど頷けてしまう。



「悲しい?」



 僕は彼女に尋ねる。

 彼女は「分からない」とそう呟く。



「確かに悲しいのだと思う。それこそ泣いてしまいたいくらいに。でも、そうなってしまうのも仕方のないことなのだと受け入れている自分もいる。私って、とても冷たいのかしら」



 彼女はとても思慮深い。どこまでも深く考えを行き渡らせることが出来る人だと思う。だから、僕は時々不安になる。



「もっと、感情に素直になればいいと思うよ」



 泣きたい時に堪えるのが彼女だ。幸福を疑ってしまうのが彼女だ。

 僕だって、物事を楽観的に捉えることは出来ない。不幸になる道を探す方が得意だという自覚もある。でも、彼女は僕以上に、無意識のうちに不幸へと続く道を探し当ててしまうような気がする。

 悲観的なものの捉え方をしているからこそ、自分の足で立っていられるために強くあろうとする。だから、彼女はとても強くて、とても弱い。



「我慢も、しなくていいよ」

「大丈夫。我慢なんてしてないわ」



 そういう彼女の声は、どこか震えている様にも思えた。

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