第3話

 僕も一度くらい行ったことがある場所。確かに、この辺りに住む人ならこの総合病院に一度は立ち入ったことはあるだろう。

 しかし、この総合病院が彼女にとって大切な場所であるという意味が僕には分からなかった。



「大切な場所の定義というのは、その場所自体というわけではなくて、その場所に誰がいて、どんな思い出が染み込んでいるのかだと思うわ」



 彼女は「そして、私の場合は前者になる」と、エレベーターから下りる。

 下りた階は七階。脳に関する病に罹った人が入院している病室がある階層らしい。

 ここには彼女にとって大切な人がいて、彼女はその人に僕を会わせようとしているということなのだろうか。

 果たしてそれは誰なのだろうかと、そんなことを考えながら僕は彼女の後を追う。この病院には確かに何度か来たことがあるけれど、この階に来るのは初めてだ。

 病院に入院するという経験はない。入院するほどの大病をこの体に宿したことが未だにない。だから、入院生活というものがどのようなものなのか良く分からない。でも、この階に辿り着いた途端、消毒液の匂いなのか、空気そのものが殺菌されているように感じられて、ここは身近にある非日常的な空間なのだと思った。



 ここには沢山の死がある。先日彼女に言われたことを思い出す。15cm程度の臓器がその活動を止めて行く場所。

 きっと、死はとても身近な所にある。僕が思っている以上に、それはすぐ傍にある。ただ自覚しているか、していないかの違いで、この場所は死を深く理解する役割を担っているのかもしれない。



「ここよ」



 彼女は立ち止まる。正面には真っ白な扉と壁。ネームプレートが五つ。そのうちの一つに、彼女と同じ苗字の人がいた。

 薄暗い廊下から、日差しの差し込む病室へ。彼女は扉を開けて変わらぬ歩幅で歩いて行く。

 窓際の、左手側。ベッドの上で窓ガラスの外を眺めている老いた女性がそこにはいて、彼女はその女性に「久しぶり、おばあちゃん。約束通り連れてきたわ」と、そう言い放った。

 老いた女性の顔は、彼女の方へと向けられる。それから、老いた女性は眉を顰め低く唸った後、「あ~……」と困ったような表情を浮かべた。



「私よ。あなたの孫。しっかり思い出して」



 おそらく昔話だろう。彼女は自身の名前を言った後、あんなことがあった、こんなことがあったと老いた女性にゆっくりと話しかける。

 すると、老いた女性は次第に表情を綻ばせ、嬉しそうに「いらっしゃい」と目元を下げるのだった。



「前に来た時約束したでしょう。この人がそう。私にとって大切な人」



 老いた女性の顔が僕の方に向けられる。僕は「こんにちは」と名前を名乗り、軽く頭を下げる。老いた、とはいえとても綺麗な女性だと思った。でも、頬だとか唇の色だとかは病人のそれであり、胸の奥底が無意識に締め上げられる。



「私、そんな約束しました?」

「したでしょう。二週間くらい前に来た時、彼の話になって、おばあちゃん一度顔を見てみたいって話していたでしょう」



 老いた女性は苦笑いを浮かべ、「私も困ったものね」とそう呟いた。

 それから、僕と彼女は近くに置いてあったパイプイスを広げ、ベッドの近くに座る。



「私は高校で文芸部に所属していて、彼もそうなのよ」

「そうかい。じゃあ、もう高校生になったんだね。早いものだねぇ」

「私は元気にやっているわ。おばあちゃんはどう? 最近どこか調子が悪いところはある?」

「そうね。私も困ったものよ」



 そんな会話を、僕は彼女の隣で聞き届ける。彼女の横顔は一見していつもと変わらず凛々しいものであるが、一年くらい彼女のことを見て来た僕には分かる。きっと、彼女は今我慢をしている。何かを我慢している。

 僕は、彼女とこの老いた女性の間にどれほどの共有された時間があるかを知らない。でも、彼女にとってこの老いた女性はとても大切な人であることは分かる。



 僕だったらどうだろう。大切な人がいて、その人が病に侵され刻々と死に近づいて行く様子を目の当たりにしたとして。その時に抱くのであろう感情を、僕は的確に表現することが出来ない。虚しくて、悲しくて、でも、そんな風に一般化された言葉で言い表せるほど単純な感情ではない。



 そんな時、僕はどうされたいか。どうされれば少しだけ救われるのか。

 僕は自然と右隣にいる彼女の左手をそっと握っていた。一瞬、彼女は会話を止めて、体を強張らせたが、すぐに力が抜けて行き、そっと手を握り返してくる。



「どうかしました?」

「いいえ。なんでもないわ」



 彼女はそう言って少し笑う。年老いた女性も少し笑う。



 それから、彼女は老いた女性としばらく昔話をした。子供の頃、連れて行ってくれた海についての話だとか、夏祭りの話、お年玉をもらって、一緒に初詣に行ったこと。そういった思い出話を、一つ一つ思い出し、確認し合うように二人は話し込む。

 そんな様子を僕は彼女の手を握りながら見届ける。

 彼女のことをこんなにも弱々しいと感じたのは、初めてだった。

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