第2話

 翌日、待ち合わせ場所である高校前のバス停に行ってみると、そこにはすでに彼女の姿があった。一年ぶりに見る彼女の白いワンピース姿は、それこそ夏の到来を告げるようで、季節の移り変わりを僕に伝えてくる。



「お待たせ」



 今日はどこに行くのかと彼女に尋ねると、彼女は「とても大切な場所に行くの」と言って立ち上がった。



「大切な場所?」

「ええ。あなたも一度くらいは行ったことがあると思う」



 僕も一度は行ったことがある場所。それはどこだろうかと記憶を辿る。

 彼女と初めて出会った場所か、それともまた別の場所か。あれこれと考えているうちにバスが音を立てて僕達の前に停まる。



 初夏、お昼を少し過ぎた土曜日。バスの車内はそれほど混みあっておらず、僕達は隣り合って座席に腰を下ろす。彼女は窓側の席に座ると、頬杖をついて外の景色を眺めるのだった。

 それから、バスは僕を乗せて夏の道路を走り始める。行先など知らず、バスはただただ走り始める。



「どこへ行くかは教えてくれない?」

「ええ、ついてからのお楽しみ」



 彼女は「とはいっても、楽しめるかどうかは分からないけれど」と言葉を付け足す。



 前にもこんなことがあったような気がする。あれは、確か去年の冬のことだ。

 冬休みに入る直前、その日は雪が降っていて、昨日と同じように部室で「明日私に付き合ってくれるかしら?」と僕をある場所へと連れ出した。



 その場所と言うのは、高校から少し離れた所にある公園だった。前日から降る雪は、新しい一日が始まると共に止んでいたが、前日から降り続いたそれは公園に白い絨毯を敷いていたのを覚えている。



 彼女は白い息を吐きながら、「この景色を見せたかったの」とそう言った。



 一面真っ白。汚れなんて何一つなく、誰かの足跡もない。白はあらゆるものを吸収していくようで、世界は静寂に包まれていた。

 彼女はその時、「音もなく降る雪が、人知れずこうして綺麗な景色を作り上げるのって、とても綺麗なことだと思わない?」と、そう白い息にのせて言葉を放った。

 こんな風に、彼女は時々とても美しい言葉を口にすることがある。それから、少しの茶目っ気というか、悪戯心のようなものも彼女は持ち合わせていて、あの時はそのまま「綺麗なものを見ると、汚したくなるわ」と言って背中から雪の絨毯に倒れ込んだのだった。

 彼女は「冷たいわね」なんて笑っていて、そんな彼女の姿を見て僕はなんだか可笑しくなって笑ってしまった。



 多分、彼女はとても力強いのだと思う。一人で立っていられるほど、彼女はとても強い。今日のように、あの冬の日のように、彼女は彼女の足で歩くことが出来ていて、僕はそんな彼女の行く先に何があるのかを、一緒に見届ける。



 隣に座っている彼女と僕の距離は15cm。きっと、彼女との距離がゼロになることはとても難しい。そもそも、どれほど仲の良い間柄であろうが、どれだけ長く連れ添った夫婦だろうが、その距離をゼロになるまで近づけることは難しいのだと思う。



 人には適切な距離がある。ゼロにまで近づけることが出来るのだとしたら、それは片方が死んだ時だけで、誰かにとっての思い出になった時なのかもしれない。何かを無くした時、初めてその大切さに気が付くなんて言うけれど、それはきっと無くしたことでその人との距離ゼロになるからなのかもしれない。人は死者としか距離をゼロにまで詰めることが出来ないのなら、僕達は真に分かり合うことなど出来ない。だからこそ、僕等は言葉を通して出来る限り分かり合えるよう努力する。



 とても不器用だ。人はとても不器用で愚かだ。言葉と言う媒体を通すことなく、この胸の内に抱く思いをそのまま直接相手に届けることが出来たのなら、世界はもう少し穏やかであったのかもしれないし、そうはならなかったかもしれない。確かなのは、仮に僕等は言葉を必要としなければ、もう少し彼女のことを理解することが出来るかもしれないということだろう。



 僕は、未だに彼女のことで知らないことがある。今日、彼女は僕をどこへ連れて行こうとしているのか全く見当がつかないし、彼女が好きな本だとか、好きな食べ物だとかはそれなりに分かるけれど、それ以外はあまり知らない。

 だから、やはり距離はどうしたってゼロにまで近づけることは出来ないのだと、そう思う。どれほど彼女のことを知ろうとも、どこにもそれが正しい彼女であるという保証はどこにもない。



「どうしたの? 何かとても難しい顔をしているわね」

「うん。ちょっと考え事をしていた」

「私があなたをどこへ連れて行こうとしているか分かった?」

「ううん。全く分からないよ」



 すると、彼女は「じゃあヒントを一つ」と人差し指を立てる。



「あなたに会って欲しい人がいるの」



 それは、ヒントというよりは答えではないのだろうか。つまり、目的地はその人が住んでいる家ということにはならないだろうか。

 僕がそう尋ねると、「さあ、どうでしょうね」と彼女は笑うだけだ。



 バスに揺られること二十分。彼女は「ここで下りましょう」と降車ボタンに手を伸ばす。

 バスが行き着いた場所は、僕等が暮らすこの町の中で一番大きな総合病院の前だった。

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