15cmの命
青空奏佑
第1話
「15cmと聞いて、あなたは何を思い浮かべるかしら?」
金曜日の放課後。夕暮れ時。橙色に染まった部室で、彼女は僕にそう尋ねる。
読んでいた文庫本を閉じ、右斜め前に広げたパイプイスに座っている彼女の方に目を向けると、彼女は長い髪を耳にかけながら僕と同じように文庫本を閉じて机の上に置くのだった。
「どうしたの、急に?」
「特に意味はないわ。いつものことでしょう」
いつものこと。確かにいつものことだ。
文芸部に所属しているのは現在高校二年生の僕と彼女だけ。後輩は結局一人も入部してくれなくて、先輩は一人だけいたが夏を間近に控えた頃に引退した。
毎週火曜日と金曜日はこうして部室に来て何をするでもなく読書に耽るのが日々の活動なのだが、部員が少ない所為で毎回彼女と二人きりになる。
大方、今彼女が読んでいた小説の中でそういった話があったのだろう。部室の時計は午後十八時を指し示す頃合いで、こんな風に部活動が終わる数分前になると、彼女はこうして僕に対しその日読んだ小説に関する質問を投げかけてくる。
「それで、あなたは15cmと聞いて何を思い浮かべる?」
15cm。真っ先に思い浮かんだのは、今机の上に置かれている文庫本だ。確か、文庫本の縦幅は15cmくらいだったように思う。
だから、真っ先に僕は「これかな」と机の上に置いた文庫本を持ち、彼女に見せた。
「他には?」
「あとは、15cmの物差しだとか、刃渡り15cmのナイフだとか」
思い浮かぶのはそれくらいだった。僕はそれほど頭の回転が良いわけではないから、これくらいで許してほしい。
少し錆びたパイプイスに座っていた彼女は「そう」と呟きながら立ち上がる。彼女の長い黒髪はストンと真っすぐ落ち、夕日の光を浴びながら揺れる。それから、彼女はコツコツと僕の目の前までやって来て、鼻が当たるほどの距離まで迫って来た。
綺麗な顔立ちが、ぼくの視界を覆い尽くす。白い頬に薄紅色の唇。長い睫毛にガラスのような瞳。彼女の瞳には、少しばかり驚いたような顔をする僕の顔が映っている。
「なに?」
「例えば、私たちにだけ許される距離の境界線が15cm。所謂パーソナルスペースというもので、恋人なら近づくことを許すことが出来る距離が、15cmから0cmらしいわ」
彼女はそう言って、僕から少し離れる。
「それが、今日君が小説を読んで思い浮かべたもの?」
彼女はクスリと意地悪そうな笑みを浮かべた後、僕の顔を見て、「いいえ、違うわ。これはあなたをドキドキさせようと思ってやった事。それなのに、あなたは相変わらず眉一つ動かさないのね」と、少しばかり拗ねたように唇を尖らせ「つまらないわ」と溢すのだった。
「握り拳を作ってもらえるかしら」
「握り拳?」
今度は何がしたいのか分からない。が、ひとまず彼女の言う通りにする。
「これでいい?」
「ええ。ちなみに、私の握り拳はこれくらいよ」
彼女は僕に右拳を見せつける。それから、その白い右拳を自身の胸に当てた。
「拳の大きさが、ちょうど心臓と同じ位の大きさだという話は知っているかしら?」
「心臓」
自然と、視線が彼女の拳に向かう。そこにはその拳と同じ位の大きさの心臓がある。
「やっぱり、あなたの握り拳と私の握り拳の大きさは違うわね。あなたの方がとても大きい」
「そうかな、これでも僕、男子の中ではそれほど体格は大きくない方だよ」
「それでも、やっぱり男の子と女の子では違うのだと思う」
彼女は握り拳を解き、だらりと右手を落とす。
「心臓ってね、大人の平均的な大きさで15cm程度らしいわ。つまり、たった15cmほどの臓器が私たちを生かしているの」
「それが、今日君が考えていたこと?」
「ええ」
15cmの臓器。15cmの命。その程度の大きさしかないものに、僕達は生かされている。
そう考えると、なんだか僕達は酷く脆い存在のように感じられてくる。筆箱に入る程度の大きさでしかない心臓が僕の胸の中に収まっていて、それが動きを止めたのなら、僕は生きていられなくなる。
それは彼女の胸の中にも収まっていて、今なお絶えず脈打っているのだろうかと、そんな事を思ってしまう。
意識し始めた途端、耳元で自身の鼓動が聞こえて来るようで、妙にドキドキして来る。
「なんだか、変にドキドキしてきたよ」
「そう? それはきっと私と一緒にいるからかしら」
彼女は悪戯な笑みを浮かべる。それから、彼女は机の上に置かれた文庫本を鞄に仕舞い、「帰りましょう」とそう言った。
「そうだね」
今日はもう終わりだ。金曜日だから、今週はもう終わり。
彼女に倣うように、僕も机の上に置かれた文庫本を鞄に仕舞い立ち上がる。帰る支度が整ったのと、校内中にチャイムが響いたのは同時だった。
「そういえば、明日は何か用事があるかしら?」
「明日? 別に用事は無いけれど」
「そう。ならよかった。じゃあ、明日ちょっと私に付き合ってくれないかしら」
「別にいいよ。暇だから」
「ありがとう」
夕日に染まった廊下を、彼女は長い黒髪を揺らしてコツコツと歩む。しっかりとした足取りで進む彼女の背中を、僕は追いかけた。
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