始まりは緋玉の瞳02

 雨はやむ気配はない。故に敷地内に残された足跡も痕跡も、何もかもが雨と共に流されてしまっているようにも感じた。

 九ノ宮の怪異対策室のもとに応援要請が来たのは、現場の状況が過去に起きた事件に酷似していたからだった。連絡を受けた九ノ宮中央署は当時をよく知る嵯峨原恭樹と、当直であった久居柊梧ひさいしゅうごの二人を現場に向かわせた。約一時間の後に到着した二人はその現場を前に、遺体と、そして息の詰まるような怪異の放つ臭気と人間の血、長い月日をかけて積もった埃やカビの匂いなどが混ざった不快感に息を詰まらせる。

「被害者は藤野秀太ふじのしゅうた、三十二歳。表向きは保険会社の営業マンですが……」

「協会所属の退魔師か」

「はい。さすがにご存知ですよね……」

 九ノ宮を始めとしたこの久野守という都市には多くの退魔師が存在する。だが彼らは退魔師という職一本で生活をしているわけではない。怪異対策室の面々も「警察官」という表の顔があるのと同じで、誰も彼もがごくごく普通の生活を送る傍らで退魔師業を営んでいる。そんな彼らの肩書は様々だ。故に退魔師同士が情報を共有しやすいように、また、退魔師が一つの地区に偏らないよう均等に振り分ける役割を持った組織が存在する。それが恭樹の言う協会だ。

 彼らも同じ協会に属する全てを把握しているわけではないが、恭樹は殺された藤野秀太とは何度か顔を合わせたことがあるし柊梧は同窓生ということもあり面識はある。

「確か目を奪われていたという事だったか?」

「はい。両の眼球を何かで抉り出した後に、左目にはガラス玉が埋め込まれており、右目にはその……黒百合が咲いていたと……」

 報告をする警官の声がどんどん小さくなっていく。慣れない者からしたら――いや、慣れている者でも目を覆いたくなる光景だ。恭樹は何も言わず警官の肩を叩き、壁から降ろされた秀太の遺体へと近付く。

 一呼吸分遺体の前で手を合わせ、白布を取り去る。左目は閉じられていたが、右目からは血に濡れた大きな黒百合が一輪、咲いていた。

「藤野……」

 左の瞼を開き、現れた真っ赤なガラス玉に恭樹の表情が険しくなっていく。

「なるほど、俺が呼ばれるわけか」

「室長?」

「ああ……柊梧は知らんか。八年前、腕の立つ退魔師ばかりを狙った連続殺人事件があってな」

「ああ……退魔師が殺されたってところだけは知っています。うちは違ったんですけど、叔母がそうだったので気を付けないとって話をしていたのを聞きました」

「そうか。あの時も遺体から眼球が奪われて、こうしてガラス玉を詰め込まれて右目には花が咲いていた。あの時は確か、黄色のカーネーションだったか」

「ということはあの時の怪異が……?」

「可能性はゼロじゃない。友人が刺し違えてでも殺ると言っていたが……そうか、怪異だけは生き残っていたんだな」

 寂しげに伏せられた瞳とは裏腹にその声には怒気が含まれている。彼の言い方からしてその友人は命を落としたのだろう。柊梧の記憶の中にある情報では、一人の刑事が亡くなったのを最後に、遺体が発見されたとは報じられなくなった。だから誰もがその刑事が自らが命を犠牲に怪異を仕留めたのだろうと思っていた。それが八年の時を経て再び蘇ったのだとしたら。

 だがそうだと断定するには証拠が足りなさすぎる。まずは犯人の痕跡をたどらねばならない。

「ところで通報者というのはどこに?」

「ああ、一応遺体発見からの通報は彼らなのですが、それ以前。倉庫の敷地内に不審な車がとの通報は通りがかった近隣住民のようでした。なんでも、仕事の帰り道にここを通ったら不自然な真っ赤な車が停まっていたと」

「もしかしたらこの雨で休憩を取っていた、とは考えなかったんですね。その通報者の方」

「確かにそうですね……。ですがこの倉庫は特に最近肝試しやら廃墟撮影やらで人が頻繁に訪れていたみたいですし、つい一月程前には近隣住民とトラブルも起きたようでしたし、神経質になっていたのかもしれません」

 語り口からしてその手の通報や苦情といったものが多かったようだ。その中に不審な人物の目撃情報がないか合わせて調査が必要になる。

 柊梧が現時点で集めた情報を手帳にまとめ、ふと隣にいたはずの恭樹がいないことに気付き辺りを見渡すと、所轄の刑事に呼ばれ何やら話をしている最中であった。自身も式神を呼び出し共に倉庫内を歩き回ってみたが、唯一怪異がいたと思われる痕跡があったくらいで、これといってめぼしい手掛かりたるものは見当たらなかった。

「まあ、そう簡単に見つかるわけないよな」

 足元でふんふんと床の匂いを嗅いでいた犬の式神に声をかけると、キョトンとした顔で見つめ返された。そうして、何かを見つけたように走り出す。その先には遺体の第一発見者である警官の姿があった。

「あー、ポメ! 久し振りだなあ、相変わらずふかふかだなあお前」

「どこかで見覚えのある顔だと思ったら秋彦じゃないか。今八重にいたんだね」

「あ、久居さんお久しぶりです。はい、八重に来て早々にこれですよ……」

 ポメと呼んだ式神――実際に見た目はポメラニアンなのだ――をわしゃわしゃと撫で回しながら警官、纐纈秋彦こうけつあきひこは笑う。九ノ宮出身である秋彦とはよく顔を合わせているし、怪異に対して耐性のある彼はよく怪異の現れる場所から一番近い交番を転々としていた。先輩警官である男がまだ頭を抱えて呻いているというのに、秋彦はすっかり回復しているのか他の刑事の質問にはっきりと答えているし、遺体を見てすぐだというのに物怖じする素振りも見せずに堂々としていた。彼を知らない者が感心しているように、肝が据わっている。そういった意味では、警察官向きの性格なのかもしれない。

「秋彦はどう思う?」

「はい……。とても嫌な気配を感じました。誘い香ってやつなんですかね。怪異を知る者、怪異に詳しい者であれば一発で気付く匂い。対して怪異を知らない者であれば頭痛やめまい、吐き気を催しその場から離れたくなる。怪異がより強い力を持つ人間を食べる時に用いる手段。僕のような半端者にも効いたくらいですから、退魔師だけを狙って仕掛けられた可能性があります。って、嵯峨原さんや久居さんに改めて説明する事じゃないですよね……」

「いやあ、室長はともかく僕はただの式神使いだからなあ」

 とはいえ、秋彦の言う通り現場に入って顔をしかめた理由の一つがその誘い香であることは確かだ。

「やはり八年前の生き残りに協力を仰ぐべきなのでは……」

 秋彦と柊梧が唸っていると、背後からそんな声が聞こえた。

 八年前の件では五人の退魔師が殺された。目撃者たる彼らが物言わぬ亡骸となって発見されていたために捜査も難航していた。その事件に幕を下ろすきっかけとなったのが、生き残った二人の人間なのだ。当時大学生であった男女二人は何がきっかけであったのかは分からないが、件の怪異に襲われた。命こそ奪われなかったものの、女の方は車椅子生活を余儀なくされ、男の方背中を刺され一時重体であったと聞く。そんな彼らに、事件が解決してあの恐怖とは無縁の生活をしているであろう彼らに、あの日を思い出せというのか。

 誰もがそれに賛成なわけではない。本来ならば一般人を巻き込むなど言語道断だ。だというのにそんな案が上がるには理由がある。それは男の立場にあった。

「……俺は反対だ。理由は二つ。あいつは今、でかいヤマを片付けて休暇中。そしてあいつを捜査に加えると、前回の最後の被害者……時原誠司ときはらせいじとその息子、時原旭の失踪にも関係している為に暴走する恐れがあるからだ。誠司が手こずった相手だ、あのひよっこじゃ返り討ちに遭うのが関の山。俺としても優秀な部下をこれ以上失いたくない。どうしてもというなら俺が囮になって、誠司と同じように怪異を誘き寄せるさ」

 それだけ言い切ると、恭樹は柊梧を呼び付け倉庫を後にする。どこへ行くのかという呼びかけには八年前の資料を取りに帰るとだけ告げ、さっさと車に戻ってしまった。慌てて追いかけた柊梧が助手席に身を滑らせ、エンジンをかけて本当に九ノ宮への帰路を走り出す。

「あの、室長、さっきのなんですが……」

「ああ? 八年前の事か? 間違ってもあいつに電話なんてするなよ。せっかく与えた休暇だってのに絶対戻ってきやがる。聞いてきてもしらばっくれとけ」

「休暇中って言うと……悠吏の事なんですか」

「なんだお前、知らなかったのか。まあ、あいつがあの時の事を喋るわけがないし、報道も一瞬だったからな……無理もないか」

 煙草に火をつけた恭樹を見て柊梧もまた煙草に火をつける。

 二人分の煙が薄く開けた窓から逃げていき、その様子をぼんやりと眺めながら柊梧は記憶をたどる。

 八年前、襲われた大学生の男女。その二つのキーワードから思い出されるのは、大学生カップルが人気のない通りで、通り魔に襲われたという事件。丁度、大物政治家の汚職事件と大物俳優の逮捕が相次ぎ、テレビも新聞もそれらの事件一色になっていた時期があった。被害者たちからすれば必要以上に騒ぎ立てられずに済んで良かったのかもしれない。が、今回は違う。騒ぎ立てられ、悠吏の耳に入るのも時間の問題かもしれない。

「で、帰って何するんですか」

「誠司が事前に遺してくれた資料がある。それを当たれば手がかりは得られるだろうよ」

 だと良いのだが、と口を出かけた言葉は飲み込んで柊梧は窓の外へと視線を向ける。変わらず雨は降り続いており、怪異の痕跡が消える前に見つかることを祈るばかりだ。

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