終幕03
「悪い、遅くなった」
辺りが闇に包まれ、居酒屋も賑わい始めた頃。個室の戸が開かれ訪れた従兄弟を前に、僚は静かにお猪口を置いた。
「あ、ずるいぞ飲んでんの」
「俺は運転しないからなあ」
「羨ましい限りだなあ」
向かいに腰を下ろしたところで丁度頼んでいた料理が運ばれてきた。ついでにと烏龍茶を頼み悠吏も箸を取る。
「で、僚くんはいつ帰ってくるの?」
「予定が少し早まったから来週くらいかな。これ以上何事もなければね」
「そうかそうか。なら安心だな。で、聞きたい事って何さ」
「……彼女、あの怪異に成り代わられていた女性について。昨夜の彼女は既に殺されていて、怪異がその皮をかぶって化けていたって事で良いんだよな?」
「ああ。今朝、彼女の部屋から遺体の一部が見つかったよ。浴室で、手首を切っていたみたいだった。部屋に履歴書があったけど、写真はあの化けていた怪異と同じだったよ」
「そうか……」
「ついでに湊から拝借してきたけど、この子だね。どう?」
差し出された写真を受け取った僚の顔に見て取れる動揺が走る。
「やっぱり、俺が見た彼女と、違う……」
「違う? 久我坂さんも遠坂さんも彼女だったって言ってたけど」
「俺だけ別人に見えていたのか。なるほど、道理で……」
「誰に見えてたの?」
「……あの女」
苦虫を噛み潰したように、溢れ出る嫌悪感と何かに怯えるような微かに震えが混じる声で低く呟く。
僚が「あの女」と呼ぶ女性はただ一人。実の母親だ。彼女は十九年前に、確かに亡くなっている。僚が自ら殺したと言うし、現場に駆け付けた嵯峨原恭樹がその遺体を見たと言うのだから確かなのだ。それなのにどうして僚にだけ、祐子の姿が亡くなった母親に見えていたのか。
僚に憑く蛇神のミズハは怪異を食らう怪異だ。その対策として、ミズハよりも使役者である僚の行動を制限するために彼のトラウマを刺激したのは賢いと言える。現に僚はそれに動揺し、祐子に襲われ湊は祐子の手に渡っているのだから。
「まあ……きみを封じる為の奥の手みたいなもんだったんじゃないかな」
「まんまとしてやられたわけだな。すまない、あれだけ言っておいて俺は何も、出来なかった」
「こう言っちゃきみに失礼だろうけど、仕方がないよ。きみの女性恐怖症は今に始まった事じゃないし、相手が母親の姿をしていたというのなら尚更だ。ほら、この話はもうやめにしよう。それより僕からも質問、良いかな」
「ああ、俺で答えられる事なら」
「篠田を見た時、きみは何かを感じた? 見覚えはあった?」
「ミズハがひどく警戒していた。俺も顔を見た時、嫌な気配を感じた。あれは並大抵の怪異じゃない。けど、殺意も何も感じなかったから、警戒するだけに留めていたよ」
和良と共に病院を訪れた浩樹と目が合った時、全身に鳥肌が立った。最初こそ気付きはしなかったが、ミズハがしきりにあれは危険だと訴えていたようだ。
「でもあいつ……俺の顔を見て笑ったような気がしたんだよな」
自分だけがそれを感じていただけなら、気のせいで済んだのだろう。今にも影から飛び出しそうだったミズハを抑える為に影を踏み制したくらいなのだから、気のせいでは済まなかった。
だが、敵意は感じなかったのだ。九ノ宮にはそれ以上に得体の知れない力を持つ怪異が数人存在している。彼らも浩樹と同じように人に化け、人の世に溶け込み、ある者は人を怪異から守るために、またある者は人には興味を持たないが怪異を狩るために生活している。
「それだけの力があれば隠すのも容易いだろうな。……僚くん、あの男は
「それを言うならお前も同じだろう」
「違いない。ああ、そうだ。きみが九ノ宮に無事に帰ってきた辺りに、征久さんが温泉連れてってくれるらしい」
「また唐突だな」
「湊の件の礼だそうだよ」
「そうか」
小さく微笑み、新たに注文したグラスを悠吏に向ける。
「そういうのは最初にやるべきでは?」
「知らん。お前が勝手に人の頼んだものを食べ始めたんだろう」
「一人じゃ食べ切れない量注文しといてよく言うよ」
「はい、乾杯」
「情緒もクソもないなあきみは。まあいいや、捜査協力ありがとう。きみが湊の側にいてくれるだけで全然違ったよ。おかげで朝田も無事に確保出来た」
静かに合わせたグラスを傾け、肯定の代わりに僚は笑った。
それからの会話はほとんどが他愛もない話であった。年末が近付く時期だ。また親戚が集まる席をどう理由をつけて逃げるか、どう仕事を言い訳にするか、そうしてどこに遊びに行くのか。二人揃って多忙な身だ。休みが重なることはあまりなくだからこそ、予定を立てるのが楽しいのだ。
「ま、とりあえず温泉旅行を楽しむとしようか」
「刑事と探偵と一緒の温泉旅行とか、嫌な予感しかしないのだが?」
「はは、それは言うな」
そうして頼んだ食事が片付く頃。会計を済ませ僚を送り、悠吏もまた九ノ宮への帰路についた。この分なら日付が変わるまでには余裕を持って帰れそうだ。
下道でゆっくりと走り、それでも九ノ宮の鳥居をくぐったのは日を跨ぐ前で。九ノ宮中央署に寄り、自身の所属する怪異対策室の戸を開ける。
「ただいま戻りました」
「ああ、おかえり。随分と早かったな」
出迎えてくれたのは室長の嵯峨原恭樹だった。自然と伸びる背筋に姿勢を正し、大まかな報告をする。やはり篠田浩樹と言う怪異については眉を寄せていた。
「それと室長、この怪異についてなのですが……私に任せていただけないでしょうか」
「ほう。一人では荷が重いと言った直後にそれか」
「すみません……しかし、奴は旭の失踪に関与しています。きっと旭について――」
「だったら尚の事、お前一人では無理だろう。仮に旭が絡んでいるとして、あいつで勝てなかったであろう怪異にお前が勝てるわけがない」
耳が痛い言葉だった。
悠吏の幼馴染であり、親友であり、ライバルであり、相棒でもあった男。時原旭。彼は類稀なる才を持ち、複数の式神を連れる退魔師として優秀な功績を上げていた。怪異対策室の若きエースと呼ばれ、恭樹の後を継ぐのに相応しい、とも。
複数の刀を用いた近接戦において、悠吏は旭には勝てない。だから霊力を弾丸とした銃火器へと武器を変え、経験から得た怪異の性質や組む者の癖を研究し、サポート役に徹することでようやくその背に並んだのだ。
だがそれも束の間の出来事。約一年前、旭は義父を殺した犯人を見つけたと書き置きを残し、失踪した。向かった先の彼の自宅で見た
恭樹も悠吏の努力を一番良く知っている。けれども、旭の背を追い続けるそれを、怪異対策室の長として認めるわけにはいかない理由があった。
「お前まで失っては困ると言うのが本音ではあるが、あいつのせいで
「もう二度とあのような事件は起こさせませんよ」
「まあ……署長もここの存続をご希望のようだからなんとかならんでもないだろうが。旭の復帰はない事だけは覚えておけよ。あいつが生きていたとしてな」
「それは……」
「うちは征久の所とは違う。組織の一員である以上勝手な行動は許さん。悠吏、疲れただろう、帰って休め。明日も休みにしておく」
「……お疲れ様です」
「ああ、征久が話があるとか行っていたから明日にでも行ってやれ。お前の不満の半分くらいは解決するかもしれんぞ」
恭樹の言うことはもっともで、当たり前だ。怪異対策室はある程度の自由は許されているとは言え、警察組織の一部であることに変わりはないのだから。
それでも諦めろと言われて諦められる問題ではないのだ。同僚であると同時に、彼もまた被害者である。
「本当に旭が被害者なら篠田浩樹は野放しにしておけない……が……」
浩樹から直接の被害を受けた者がいれば、人に危害を加える悪意を持った怪異として怪異対策室で彼を追う理由が出来るのだが。あの男はそれを避けるためなのか、自分が直接関与したという証拠を一切残していなかった。
和良の証言の中に彼の名は上がっていたし、湊も真壁啓二への殺意を問われている。断片的な証言をかき集める結果、和良も上島七枝の死を受け浩樹から「彼女をストーカーし、殺した犯人が憎くないか、殺したくはならないか」と問われていたようだ。彼はそれに殺したいと答え、それからふわふわとした熱のようなものに浮かされ、ただひたすら七枝を殺したと思わしき湊を殺したかった。七枝の言葉を真に受けず、彼女を守ろうとすらしなかった啓二にも苛立ち殺したと証言している。
浩樹がした事と言えば殺したいかと問いかけただけで、殺せと命じたわけでもなく、殺させるよう仕向けたわけでもない。
「考えても仕方ない、かな……」
重い足を引きずるように自宅へ帰り、玄関を開けたところでに引き伸ばして飼い猫が足元にすり寄ってきた。
「ただいま、良い子にしてたか?」
声をかければ二匹は声を揃えてにゃあん、と返事をする。
「ま、生きてりゃいつかまたあの男に会えるだろうし。そしたら今度こそ、問い詰めてやろうか……」
床に置いた買い物袋を漁り始めた二匹を優しく制しながら、彼らのお目当てである猫用パウチの封を切るのだった。
――閑静な住宅街を騒がせた獣の騒動は数日の間に終わりを告げた。あの場に居合わせたそれぞれがそれぞれのあるべき場所に戻り、静かな街はまた元の静けさを取り戻すことだろう。
その代わりに、あるべき者が不在であった九ノ宮は賑やかになることだろう。それが善き方向の喧騒なのか、悪しき方向への喧騒なのか。それはまだ、誰も知り得ないこと。だが、一つの悪意が動き出したことだけはきっと、確かなのだ。
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