終幕01

「湊……大丈夫か?」

「うん、平気」

 恐ろしいまでの沈黙に耐えきれずに車中で声をかける。即座に返ってきた淡白な返事に、胸が締め付けられるのを感じた。

「必要なもの、まとめる程もないんだ。すぐ終わるよ」

「え……そうなのか?」

「うん。写真と、パソコンと、通帳だけでいいや。後はもう、いらない」

 抑揚のない声でも嫌悪感は伝わってくる。和良と祐子になりすましていた怪異が知らぬ間に部屋に入り込み湊に罪を着せるために衣服など物色していたのだ。無理もない。それに部屋にある家具の大半は備え付けのもので、購入したものはほとんどないようなもの。

「そうだ、騒動のせいで忘れてたけど、これ」

 出雲が差し出したのは、大学で回収してきたもの。それを受け取った湊は一瞬、目を丸くしたが次の瞬間には固く結んだ唇が綻んでいた。

「……大事なもの?」

「大事……そうだな、大事なのかもしれない。これは最後にもらった、盾なんだ」

「最後、か……」

 それでも大事そうに抱える湊を見て、何も言えなかった。

 マンションに着く頃には空は黒い雲に覆われ、小雨も降り始めていた。予報ではこれから数日は荒れた天気が続くそうで、雨が降る前に事件に片を付けられたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。

 先日と同じようにエレベーターで上がると、部屋の前ではまたも見覚えのある男が二人何か話し込んでいるようだった。

「おはようございます……って、あれ?」

「おや、おはよう坂祝くんにえーと」

「嵯峨原出雲です」

「ああ、きみが恭樹くんの息子さんか。若い頃の恭樹くんにそっくりだねえ」

 朗らかな笑顔を見せるのは遠坂だった。ここで父の名が出るとは思わず面食らっていると、彼は自分が嵯峨原恭樹の同期なのだと明かした。道理でわざわざ九ノ宮の、怪異対策室の、自分を指名してきたわけかと悠吏が唸っている。

「悠吏さん、仕事ってのは……」

「ああ、心配しないで。別に湊の部屋をどうこうじゃないよ。僕達が調べてたのは小野木祐子の部屋。まあそろそろ帰ろうかと思ってたんだけど、君達が来るの分かってたからちょっと待とうかと思ってね」

「昨夜は、ありがとうございました」

 遠坂に見つめられ、湊は居心地が悪そうに口を開く。あまり注目されるのは慣れない。目を逸らすと遠坂はニコニコと近付いて来て湊の頭をワシワシと撫でる。他人に触れられるのは普段ならばあまり良い気はしないのだが、何故だか遠坂に触れられるのは悪い気はしなかった。

「ははは、本当に降ってきた時はヒヤヒヤしたけどね。無事で良かったよ。怪我でもさせようものなら晴人はるひとに祟られそうだしな」

「父を知っているんですか」

「もちろん。恭樹くんと晴人とは同窓生でもあるからね。二人ともそっくりなもんだからビックリしちゃったよ」

「遠坂さん、本題」

 まるで孫を見るかのようにニコニコとする遠坂はこのまま昔話を始めてしまいそうで、慌てて横から釘を刺す。

「おお、そうだった。実は真壁さんとこの息子さんがね、お詫びも兼ねて引越し費用負担するって言ってるんだよ。ああ、啓二くんのお兄さんなんだけどね」

「はあ……」

 引っ越す前提なのか、と内心毒づき湊は相槌を打つ。そうは言われてもどこまでをどう負担するのかも分かったものではなく、眉を寄せていると遠坂もそれを指摘し苦笑する。そうして、「まあ、それでもう関わらなくていいと思ってもらっておきなよ」などと言う。

「まあ……ここの退去費とか手続きをやってくれればそれでいいんですけど、そういうのも出来るんですかね……。正直もう、あまりここを訪れたくないので……」

「そうだよねえ。町民としてはちょっと寂しい発言だけどまあ、こんな事があった後じゃ仕方ない」

「あ、いえ、ごめんなさい。そういうつもりで言ったのでは……」

 口に出してからひどいことを言ってしまった気になった。申し訳なくて頭を下げると、ポンと肩を叩かれてまた頭を撫でられる。その優しさに、胸の奥がチクリと痛んだ。

「警部、そろそろ時間が……」

「ああ、今いくよ。それじゃあまあ、そんな感じで真壁さんとこには伝えておくよ。それと、最後に一つ。昨日のお嬢さんの怪異とやり合った時なんだがね。君に触れている間、ぼんやりではあるけれども君が視ているものが私にも視えた気がしたんだ。もしかしたらだがね、君が霊力を上手く扱えないのは使い方の問題なのかもしれない。力を使う向きを考えてみたら案外、上手くいくかもしれないよ」

「向き、ですか」

 遠坂の言葉の半分はよく分からなかった。けれども、なんとなく何かがストンと落ちたような気もした。

 部下に呼ばれて駆けて行った遠坂と別れ、湊は部屋から必要なものだけを手にする。

「それだけでいいのか?」

「はい。服は実家にありますし。貴重品だけで、大丈夫です」

「そう。じゃあこれも渡しておこうかな。これ、きみのだろう?」

 部屋の外で待っていた悠吏に渡されたのは見覚えのあるペインティングナイフだった。どうせ同じものを買ってきたのだろうと渡されたそれを受け取り、そんなはずは、と目をみはる。

「悠吏さん、これどこで……」

「ああ、さっきそこで拾って。きみの名前が刻印されてたから、なんとなく放っておけなくてさ」

「あの日、捨てたはずなのに……」

 全ての画材を捨てた先日、確かにごみ捨て場に一緒に放ったはずだ。もうこれ以上過去に縋り付くのをやめるために、未練を残さないために。悠吏の話によればナイフは湊の部屋の前に落ちていたらしい。確かに刻印がされているから、誰かがここまで持ってきたとは考えられる。だが、わざわざ部屋の前に置く意味が分からない。

「……持ち主に長く愛され、大切にされた物には魂が宿るって言うよね。つまり、そういうことなんじゃないかな」

「でも俺はもう、絵なんて描けなくて、描く資格もなくて、これを持ってたって、使ってなんて、あげられない」

 何度キャンバスに向かっても何も描けなくなった。その時からもうこのナイフを手に取ることもなくなって、画材を詰めたカバンの奥にしまいこんで。もう手にすることもないだろうと、思い出も一緒に封じ込めるように放り投げたというのに。それなのに魂を宿したというこれは湊の手元に戻ってきたというのか。

 しばしナイフを見つめていた湊だが、唇を噛み締め、意を決したように踊り場からそれを投げ捨てた。

 誰が止める間もなく宙を舞い、視界から消えるのを確認して、震える唇が溜め息をつく。が、ふと違和感を覚えて腰に手をやると今しがた投げ捨てだばかりのナイフがあの時と同じくベルトに引っかかっている。

「なんで……なんでだよ。俺はもうお前を使ってやれないんだ、使えないんだよ! それなのになんで……なんで俺なんだよ。俺なんかに、期待なんてするなよ」

 いつだってそうだった。偉大すぎる父の子供だからと期待されて産まれて、視ることしか取り柄のない自分に周囲が落胆しているのは幼いながらに理解出来た。

 少しばかり式神を操れるようになったのが早かったからと、退魔の力を持たない自分にその周囲が次なる期待をしているのが分かって、これなら応えられると努力をした。その結果は扱い切れない力を持った式神の暴走。庇った母を、傷付けてしまった。また、周囲の落胆が見て取れた。

 大人になって、これだけが唯一誰かの期待に応えられるものなのだと頑張ったのだ。寝る間も惜しんで絵を描き続けて、どうしたらもっと上手く、美しく魅せられるか模索し続けた。やっと腹を割って批評をし合える友人に出会えたと思った。もっと二人で上を目指せると思った。その結果が、やはりこれだ。

 両親の期待に応えられなかった。

 頑張ってきなさいと快く送り出してくれた征久の期待にも応えられなかった。

 色々な道を示してくれてフォローしてくれた大学関係者の期待にも応えられなかった。

 そして今、苦楽を共にしてきた相棒とも呼べるこのペインティングナイフの期待にも、応えられない。

 それは枯れた声をした悲痛な叫び。何故涙が出ないのが不思議なくらい、胸が痛んだ。

「……いいじゃん、使ってやらなくたって。一緒にあるだけじゃ、駄目か?」

「だって、道具は使ってあげなきゃ、意味がない……」

「別にそれも今すぐじゃなくたって、いいんじゃないの? またいつか、気が向いたらでもいい。またお前が絵を描きたいなと思って使ってくれればそれでいい。そう思ってる……んじゃないかな」

「はは……なんだよ、それ」

 まるでナイフに宿るもの――俗に付喪神と呼ばれるものだ――の声を代弁したかのような出雲の言葉に思わず笑ってしまう。本当にそうであったとして、違ったとして、そうだったら良いな、と思ってしまう。

「本当に、いつになるか分からないぞ……」

 それでもいいと、風の音に混ざって確かに聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る