四条﨑ストーカー殺人事件18
終
のどかな田舎町を騒がせた一連の事件は結局、怪異という存在は伏せられ、野生の熊の仕業であったということで翌日の新聞の一面を飾った。どこから用意してきたのか、巨大な熊の写真の横に九ノ宮から派遣されてきた警察犬のお手柄! という見出しが添えられていた。
病院から程近い喫茶店の喫煙席で朝の煙草をふかし悠吏は笑う。九ノ宮から派遣された警察犬というのは、もちろん悠吏の――いや、彼の従える狗の怪異のことだ。
この四条﨑では怪異は町民にとって馴染みの薄い存在だ。下手に真実を語り民衆の不安を煽るよりはと上は判断したのだろう。程なくして運ばれてきたモーニングセットを前に店員に短く礼を言い新聞をたたむ。
「おっとこれはまた豪勢な……」
シンプルなエッグトーストにマカロニサラダ、コーンスープに旬のフルーツの盛り合わせが添えられたチーズケーキ。地域柄充実したモーニングセットは幾度も見てきたがケーキが添えられているのは初めてだ。なんでも、この店おすすめのチーズケーキらしい。まだ待ち合わせの時間までたっぷり時間はあるのでゆっくりといただくことにしようと、悠吏は手を合わせる。
しばらくして、外からつぶらな瞳がじっとこちらを見ている気配がして外を見ると、窓の外でうごめく黒い影が見えた。ギョッとして周りを見るがどうやら影には誰も気付いていないらしい。というよりはおそらく、視えていないのだろう。
「ミズハ……何してんの」
ポツリと漏らすとミズハはぬぅっと窓の隙間から店内へと侵入してくる。そうして封筒を机の上に置き、じっと悠吏を見つめていた。
「僚くんから? ありがとね。えーと、これが欲しいのかな」
皿に乗っていたキウイフルーツを差し出すと、きゅっ! と嬉しそうに鳴いて受け取り、満足げに頬張りまた窓の外へと帰っていった。
「なんだったんだあいつ」
トーストをかじりながら封筒を開く。それはどうやら病室の修理の見積書のようだ。
「僕にもらってもどうしようもないんだよなあ。ドイルおつかい頼まれてくれる?」
見積書を封筒に詰め直し、ぬっと顔を覗かせたドイルに渡す。先のミズハのように窓の隙間から外へと出たドイルを見送り食事を再開する。そうして件のチーズケーキに手をつける頃には待ち合わせ時間が近付いており、カランと音を立ててその人物は現れた。
「ああ、こっちこっち。喫煙席でごめんね、そっち行こうか」
「いえ、大丈夫です。おはようございます悠吏さん」
「おはよう。悪いね、朝早くに呼び出して。湊はどう?」
「昨夜は眠れなかったみたいですね。結局あれは眠ったというよりは体力切れで気を失ったが正しいのかもしれません。今は緋那城先生が見ていてくれるので、大丈夫ですが」
別の病室に移り、最初こそうとうととしていたようたが少しでも物音が聞こえると途端に肩が震え窓の外を気にしているようだった。出雲も何度か声をかけたが、ただでさえ白い顔をしているのが輪をかけて白く見えた。途中から僚が病室に来たので交代して隣室で仮眠をとっていたが、遅くまで話し声が聞こえたのを覚えている。
「まあ……無理もないか。こっちは少しずつ話を始めたよ。後は新聞の通り。ここの人達に任せて問題なさそうだね。僕は今夜か明日の朝くらいには帰ろうかと思うけど、きみはどうする?」
「そうですね……湊が起きるまではなんとも言えませんが、起きたら一緒に荷物をまとめて帰る予定ですね。先に行ってもいいんですけど、本人に聞かないとこればっかりは分からないですし」
二人の目的は事件の解決であると同時に、湊を故郷の九ノ宮に連れ帰ることだ。浩樹が逃げたということで声をかければ素直に応じてくれそうなのが唯一の救いである。ただ、昨夜もあった自己否定の言葉の数々から帰宅を拒む可能性は大いにある。
「その為にきみを呼んだようなものだし、上手くやってくれると助かるな」
「頑張ります……そうだ、篠田って結局、どうなったんですか?」
「ああ……」
チーズケーキを切り分けていたフォークが突如として皿に突き立てられた。ごめんごめんと笑顔で言うがその笑みは無理矢理張り付けられたように見えて、自分と同じ赤の双眸に鋭く睨み付けられ、出雲の表情も引きつる。触れてはいけない話題だった。だが聞かずにはいられない。
「あいつに関しては多分もうこの町にはいないみたいだから、きみは湊を九ノ宮に連れ帰る事に尽力してくれればいい。アレは俺と因縁がありそうだからな。どうせまた俺の邪魔をしに来るさ」
暗に手を出すなと言いたいのだろう。一気に乾いた喉を水で潤していると、出雲の前にも注文したモーニングセットが運ばれてきた。そうして同様にボリュームに驚いていると、悠吏の表情はもう元の笑顔に戻っており満足げにチーズケーキを平らげていた。
「こないだも言ったけどさ。なんて言うかまあ、アレはきみの手に負えるものでもないし、アレは僕の親友の手掛かりだからね。極端な事言うと邪魔されたくないんだよ。あいつが生きているにしろ死んでいるにしろ、僕はアレに訊かなきゃならない事がたくさんあるんだ」
それはきっと浩樹が言っていた「相棒」のことなのだろう。それが誰であるか出雲も分からないわけではない。九ノ宮は密集した住宅地がいくつもある町であるから、近隣住民であれば顔も名もよく知っている。
「そういえば僚くんも怪我したって聞いたけど大丈夫?」
「かなり悪態はついていましたけど、そこまで深い傷ではないらしいですよ。スパナで思いっきり殴られたって言ってたのにすごいもんですね」
「ははは、よく無事だったな。大方診療所でもらってきた薬のおかげだろうけど」
「でしょうね。あ、あと緋那城先生から伝言です。九ノ宮に戻る前に鍵はちゃんと返してくれと」
「ああ、そういや鍵借りてたなあ。分かった、忘れないようにしよう。それじゃ僕はまだ仕事が残ってるからそろそろ行くよ。お代は先輩からの奢りって事で気にしなくていいから後はごゆっくり」
断る間もなく、礼を言う隙もなく彼は喫茶店を後にしてしまう。その後禁煙席へと席を移し、ゆっくりと朝食を味わった後、湊と僚へ、そして実家と雇い主への手土産のチーズケーキを購入し喫茶店を出る。そろそろどの店も開店となる時刻が近付いており、通りも活気付いていた。
ひとまず病院に戻ると湊も目を覚ましていたようで、僚と何か話をしている最中だったようだ。
「すみません、診察中でしたか?」
「いや、今後の事をちょっとね。俺はまだ帰れないから後は診療の誰かに引き継ごうと思ってるんだけど、誰がいいのか聞いてたんだ」
「別に俺は診療所の人なら誰でもいいんですけど……」
「そう? じゃあ空いてる先生に頼んでおこう。じゃあ出雲も帰ってきた事だし、これからの事についてなんだけど」
「これから……」
「そう。まずは出雲と荷物をまとめてきなさい。悠吏から少し聞いたが、引っ越すつもりでいたのだろう? ならばそのまま出雲と一緒に九ノ宮に帰りなさい。きみの居場所は、あそこだ」
僚の言葉に何か思うことがあったのだろう。口を開こうとしたが躊躇いがちに口を閉ざす。僚も出雲も、湊が口を開くのをただ待ち続ける。少し時間はかかるが、根気よく待っていれば彼は自分の考えをちゃんと口にしてくれるのだ。いくら連れ帰りたいと言っても、嫌がる湊を無理矢理連れ帰るのは良くないと誰もが思っている。
「帰ったところで、居場所なんてないですよ」
「少なくとも征久さんはきみを待っていると思うけどね」
保護者である
「……征久さんには、合わせる顔なんてないですよ。無理行って大学に行かせてもらったのに、勝手に、何の相談もなしに辞めて、許してくれるはずなんてないし。でも……でも、もう帰りたい」
静かに首を振り、呟く。疲れ果ててしまった湊の心はただ安らぎを求めた。自分のせいで色々なものが壊れてしまった。そう考えているからこそ、逃げたい。
自ら命を絶てるほどの勇気もなく、かと言って怪異に食われる恐怖も味わいたくはない。そして何より、怪異に食われるということは自らの持つ力が怪異に渡ってしまうということだ。そうなった時、何人の人間が自分のような、啓二や祐子のような目に遭うのか分からない。それだけは何よりも避けたかった。
「結局俺は、九ノ宮でしか生きられないんでしょう。誰かに守られなければ、誰かを傷付けてしまうし。俺に引き寄せられた怪異がまた今回みたいに誰かを殺して、必要のない罪を犯させてしまう。身をもって、それを知りました。ならもういっそ、九ノ宮から出なければ俺は誰にも迷惑はかけないし誰も傷付けない、ですよね」
自嘲気味に笑う瞳に光はなかった。その決断が正しいとは思わない。けれどもそれを指摘することも出来ずに、フラフラと病室を出ようとした湊を慌てて支えながら出雲は口に出そうとしていた言葉を呑み込み、僚もまた、言葉を呑み込む。きっと声に出したところで、今の彼には届かない。
「……まるで昔に戻ったみたいだな」
静かになった病室で呟く。
それは今から九年前に遡る。その事件で湊は家族を喪い、とある怪異に監禁され心を閉ざしていた。
当時大学生であった僚は冬休みで帰省した際に診療所を訪れていた。そこで偶然、湊に会ったのだ。まるで魂を抜かれたかのようにフラフラとし覚束ない足取りで診療所の中庭を歩いていた彼に昔の自分が重なって見えた。
自分のようになって欲しくなくて、救いたい一心で、九ノ宮診療所に勤めるようになってからは先任から仕事を引き継ぎ、率先して湊のケアをしてきた。ようやく笑えるように、冗談も言えるようになってきたというのに。また怪異という存在が彼を苦しめている。
「あれだけ信用してもらっていたのに、また俺は何も出来ていない……」
適切な言葉をかけられなかったこと。怪異を見抜けなかったこと。怪異から守れなかったこと。悠吏から任された諸々が重くのしかかってきて、目眩がする。
やろうと思えばどれも出来たはずなのに、どれも出来なかった。そんな自分にひどく嫌気が差して、力任せに机を殴りつけるしか出来なかった。
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