四条﨑ストーカー殺人事件16
すっかりと夜も更けた病院の敷地内。その広い中庭にはその場に似つかわしくない獣の怪異が、低い唸りを上げながら忌々しげに地面を蹴り上げている。
先日自ら切り落としたはずの下肢は既に再生していたが、やはりどこか不完全であるのか動きがぎこちない。
「再生能力は大したもんだが、やはり完全ではないな。再生し切る前に叩けばやれる。いけるか?」
「問題ありません。悠吏さんがいてくれる事ほど心強いものはありませんからね」
「買いかぶりすぎだよ後輩くん。僕は支援しか出来やしない」
魔弾を込めながら悠吏は笑う。が、それが嘘であることを出雲はよく知っている。どの口が、と反論しようとしたが目の前の怪異はそんな悠長なやり取りを待ってくれるはずもなく。
激しい咆哮と共に突撃してくる怪異を避け、出雲は退魔の刀の封印を解いた。
普段はキーホルダーとしてベルトに下げているが霊力を注ぐことで真価を発揮する。
それは所有者の霊力を無尽蔵に喰らい尽くすだけでなく、斬った怪異からも血や霊力を吸い上げ刀の性質さえも変化させることが出来る。しかし、過剰に与えれば刀は所有者の意識を乗っ取り暴走する諸刃の剣ともなる妖刀だ。
すかさず振り下ろされた腕を斬り落とすべく刀を振り抜く。くぐもった唸りと共に獣の腕は宙を舞うが、しかしすぐさま切断面から新たな爪が現れ、元の腕の長さへと戻ってしまう。
「間近で見るときついっすね、アレ」
気味の悪さに思わず顔をしかめる。腕が再生すると言えば聞こえはいいが、血液を撒き散らしながら切断面から凄まじい勢いで生えてくるそれは不快感しか生み出さない。
「ならなおのこと、さっさと仕留めようか。出雲、核は視えるな?」
「はい。首のアレ、ですよね」
二人の目には怪異の首元に怪しく光る結晶が視えている。それこそが怪異を滅するための唯一の弱点だ。これを破壊しない限り、怪異は目には見えない人々の感情から生まれた、自身と同じ性質を持つエネルギーを吸収し無限に再生を繰り返す。
たとえ再生するだけの大きなエネルギーが存在しなくとも、塵も積もれば山となるものだ。長い長い時間をかけて再生を果たした怪異は蘇ってしまう。
「そう。どれだけの再生能力を持とうが、心臓部である核を潰してしまえば奴も死ぬ。僕が撃ち抜いてもいいけれども、それじゃあ後輩くんの経験値にはならないからね。頑張ってみようか」
「こんな状況で授業とは……」
出雲は退魔師としてまだまだ未熟だ。それ故にどんな状況においても対処出来るだけの知識も経験もない。人一倍努力家な彼は知識だけは無駄に蓄えてはいるのだろうが、知識はあれど実力が伴わなければ意味はない。そう言った意味でも悠吏は相棒役に彼を選んだのだ。もっとも、一番の理由は湊と引き合わせるためであったがその目的は達成された。
「さて出雲。こいつを無事に祓う事が出来れば湊を九ノ宮に連れ戻せる。黒幕があの子に手を出す前にさっさと終わらせような」
特にこの男は幼馴染でもあり本来仕えるべき相手でもある湊のこととなると妙にムキになる。焚き付けるように声をかければ彼の表情は一変した。
最初の無造作でもあった動きは最小限に。最低限の力で刀を振るい、襲撃を躱す。
口数も少なくなった彼を横目に悠吏は笑う。まだまだ粗は目立つが筋は良い。なにせ、鬼神と恐れられた怪異対策室の長である
嵯峨家は代々独自の剣術を用いて退魔師という職一本で栄えてきた家系だ。時代の移ろいと共に表の顔と退魔師としての裏の顔を使い分けてきたが、その力が衰えを見せることはない。ただ、例外が稀に存在するのだ。退魔師として十分な素質と能力を持ちながらも、その力の全てが封印された状態で産まれるイレギュラー。幼い頃から怪異を視ることすらかなわなかった彼であるが、それでも彼の父親はいつかその才が花開く時を信じて指導を続けてきた。その結果がこれだ。
以前目にした時よりも格段の成長を遂げている彼をもう半人前とは思わない。ならば弾丸に込める呪も最小限のサポートをするものでいい。
簡潔に霊力を込めた魔弾を装填し、狙うのは怪異の首元ではなく頭部。出雲の姿を目で追い、耳で追い、鼻で追う怪異のそれらを一時でも封じることが出来れば、彼はその隙に核を破壊してくれるだろう。
「出雲、かがめ!」
合図に合わせて腰を落とすのが早いか悠吏が引き金を引いたのが早いか。銃口から吐き出された魔弾は怪異の鼻先で爆ぜたかと思うと、目元を押さえた怪異の動きが止まる。もちろんその隙を見逃すはずもなかった。
刀を握り直し、息を吐く。一際くぐもった唸り声を上げた怪異の目は悠吏の放った魔弾により見えていない。嗅覚も同時に奪われている。いくら獣と言えど、自慢の嗅覚を封じられては頼るものは聴覚のみ。だが鼻先で爆ぜた弾の余韻と、悠吏がすかさず撃った空砲により地を蹴って跳んだ出雲の行方を追うことは出来なかったようだ。まだ目の前に出雲がいると思い込んでいるのだろう。デタラメに振り下ろした腕は地を抉るばかりで、肩を蹴られる感触に頭上を気にする頃には目と鼻の先に迫っていた刀の
身を翻し地面に降り立つ間際に斬り落とした怪異の腕は再生する様子はない。どうやら本当にとどめは刺せたようだ。
「終わりましたかね」
「ああ、お疲れさん。また腕を上げたようだね」
刀を納め安堵の息を吐く出雲の肩を叩き微笑みかけると、ようやく彼の顔にも笑みが浮かぶ。
「向こうも病室に来た朝田を確保したようだよ。こいつが憑いていたのが奴なら、問いただせば吐いてくれるだろうね」
憑いていた怪異が消滅することで、増幅されていた殺意が消え去り、大抵の人間は自分の行った取り返しのつかない過ちに対する自責の念に駆られ、自供を始める。これは耐性のない人間が怪異の持つ霊力――人に害をなす「瘴気」と呼ばれる者に侵され続けた反動であるらしい。ただ一部の耐性がある、あるいは増幅されるまでもない明確な悪意を持って犯罪を犯していた場合は別の話なのだが。
「さて……」
淡い光に包まれ天に昇っていった怪異の残滓を見送り届けたところで、足元に待機していた式神が突然悠吏の背を駆け上り、頬を叩き始めた。
「うん?」
『おい、そっちが片付いたのなら早く戻って来い。面倒な事になった』
心なし苦痛に歪む僚の声に何があったのかと問う暇はなさそうだ。二人は不穏な事態に顔を見合わせ踵を返す。が、その歩みは一人の男によって阻まれてしまう。
「こんばんは、九ノ宮の退魔さん。悪いけど、ここを通すわけにはいかないんだよね」
闇夜でも目立つ赤い髪と、赤い瞳。ただそこに立っているだけなのに感じる妙な威圧感と背筋がざわつくような感覚に出雲は息を呑む。
「いやあ、あの先生が例の蛇神憑きだったとはねえ。最初に会った時に殺しておけば良かったかな」
「はっ、あいつはそう簡単に殺されやしないよ。特に相手が怪異であるなら尚更だ」
「そっか。それは残念だなぁ」
そう言って笑うが、男――篠田浩樹の目は笑っていない。値踏みするような視線に確かな身の危険を感じ方なに手をかけるが、悠吏はそれを静かに制する。
「やめとけ出雲。あれはお前が敵う相手じゃない」
「ですが……」
「お前は先に行ってろ。僚の事だから何も問題はないだろうが気になる」
「そうそう。そっちの刑事さんの相棒くんみたいに万一が起きるかもしれないしねえ」
一瞬、いつものように微笑んでいた悠吏の顔から笑みが消えたような気がした。
「行け」
ただ一言、命令のように告げられ無言で駆け出す。浩樹はそれを止めるでもなく、楽しそうに見送る。目的の分からない行動にただただ困惑するしかなく、悠吏を一人にする不安もあったがそれでもあの男は刑事としても退魔師としても優秀で、出雲よりも遥かに経験を積んでいる。
何も起きなければいい。何も起きていなければいい。ただそれだけを信じて階段を駆け上がった。
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