四条﨑ストーカー殺人事件15
「すみません。悠吏が色々とご迷惑をおかけして」
二人が病室を去り、訪れた気まずい静寂を破ったのは僚だった。食器類の片付けを終え、湊に食後の薬を出しながら彼は申し訳なさそうに眉を寄せていた。
「あいつ、何の説明もなしにあれこれ指示だけ出すでしょう。悪い癖なんですよね」
「随分と詳しいんですね。ええと……緋那城、先生?」
どこか聞き覚えのある姓に久我坂は首を傾げる。それがどこで聞いたのか、悩みに悩んでようやく頭の端に浮かんだのは、今の部署に配属された日に遠坂から渡されたマニュアルの中だった。
怪異が引き起こした数ある事件の中でも極めて残忍で、極めて特異なケースが集められたそれはどう対処するかではなく、どう自分の身を守るかが記されていた記憶がある。そしてその中に、緋那城僚という少年の名が載っていた。名字はさることながら、この字でつかさ、と読むことと当時の彼の年齢がひどく印象に残った覚えがあるからだ。
それにハッと気付いた時には向こうもこちらの考えを読んだのか居心地が悪そうにしていた。
「ご、ごめんなさい」
「いえ。心配しなくても私も彼女も人を殺したりはしませんよ。そういう誓約ですから。人を怪我させるような事があれば、私もただじゃ済まないのでね」
「……緋那城先生は人を殺したりなんてしませんよ。篠田だか小野木さんだか朝田だか、誰に憑いてるか分からないけど、そんな奴のと一緒にしないでくださいよ」
久我坂としてはそんな目で僚を見ていたわけではないのだが、傍から眺めていた湊がどこかムッとしたように冷ややかな目をしていた。どうやら彼はよほどこの医師のことを信頼しているらしい。現に殺気はおろか、怪異の気配すらも感じずに、彼が怪異を操り実母を手にかけた殺人鬼とは思えないのだ。
「まあ、私の話はどうでもいいでしょう。それより不躾な事を聞きますが、久我坂さんはどのくらい怪異と対峙出来ますか?」
「正直、怪異なんて数える程も相手にした事ないですよ。むしろどうしてあの山峰という男があんなに手慣れているのか、気になるくらいです」
「九ノ宮は昔から怪異を引き寄せやすい土地ですからね。怪異に憑かれた人間が事件を起こすというのはほぼないのですが、霊力――人にとっては怪異と戦う為の力であり、怪異にとってはより力を付ける為の餌を狙った怪異が度々現れるので皆、慣れてしまってるんですよね。怪異退治」
怪異が多いが故に退魔師を生業とする者も昔は多かった。今やその血も薄れつつあるが、伝統のある家柄は今でも色濃い血を残し優秀な退魔師を排出している。
彼ら、九ノ宮よりこの四条﨑に集まった者たちがそれだ。
「その中でも時たま俺みたいなのが生まれるんですよ。退魔師として優秀な一族でありながらその力を持たない出来損ない。それはただ食われるのを待つか、土地神の庇護の下生きるしか出来ない」
「またきみはそうやって……」
出来損ないと吐き捨てる湊の表情はどこまでも昏く、肩を竦める僚の言葉も聞い入れる様子はない。
自分で出来損ないと言い切ってしまうくらいだ。おそらく今までも、幼い頃からそう言われ続けてでもいたのだろう。察してしまった久我坂はかける言葉も、話題を変えることも出来ずにただ押し黙るしかなかった。
「九ノ宮を出て少しは変わったかと思ったが、まあ……無理か。それよりもだね、湊。何か臭わないか?」
「は? 言われてみれば……ああ、これは」
鼻をツンとつくようなキツい臭いだ。久我坂もそれは薄々感じてはいたが、ここが病院という場である以上何かの薬品の類だと思いそこまで気にかけてはいなかった。だが次第に濃さを増しつつあるそれはふんわりとしていたものではなく明確に嫌な臭いと一蹴するに相応しい。
例えるなら香水のようなものだ。僅かであれば気にならないそれは量を間違えれば人を不快にさせる。それだけなら良いが、頭痛や吐き気といった症状を引き起こし、人によっては精神を蝕まれあるいは狂気に陥る。
「とびきり強い殺意……だな」
しきりに首筋をさすりながら呟く僚の眉間にシワが寄り始め、異変に気付いた久我坂の眉間にもまたシワが寄せられた。そうして肌を刺すようにピリピリとした痛みに襲われる。それは明らかな殺意を孕んだ証拠だ。
「……湊、いざとなったら走れる?」
「はい。でもその必要がないと嬉しいです」
答える湊の顔色は悪い。怪異の気配に疎い久我坂でも肌を刺すような痛みに不快感を覚えているくらいだ。そういったものに敏感な彼はもっと強い影響を受けているのだろう。
部屋自体にも簡易的な結界が張られているが、それでも気が狂いそうで、叫びたくなるような恐怖を噛み締め、湊は僚の白衣の裾を握る。
「全力を尽くそう。しかし殺意となると、やはりここに来るのは朝田という男かな」
夕方病院のエントランスで騒ぎ立てていたように、湊が啓二と七枝を殺したと思い込んでいるくらいだ。あの場で顔にこそ出さなかったものの、僚は和良から漂う殺意と怪異の気配に気付いていた。だからこそ最初から彼を警戒していたし、逆に誘い込んですぐにでも取り押さえられるように根回しをしていた。彼が実際に病院に戻ってくる確証はなかったが、浩樹がお詫びも兼ねてまた来ると言っていたことから、浩樹に唆されでもして、和良は現れるだろうと踏んでいた。
まさかこんな早くに。と思いはしたが、人の多い日中よりも関係者以外に人がいない夜間の方が行動は起こしやすい。加えて悠吏と出雲という力を持った退魔師が二人も現れたことにより相手は焦ったことだろう。
この数年、湊の力を手に入れるための下準備を重ねてきたにも関わらず、最後の最後で邪魔者が現れたのだ。二人の経験上、いくら知能のある怪異と言えど事を急いた者の行動など読むのは容易い。だから悠吏と軽く打ち合わせをして二手に別れたのだ。
「先生、私は何をすれば……」
「何も難しい事はありませんよ。あなたはあなたの職務を全うしてくれれば良い。あなたは退魔の力を持つ人間という以前に、刑事なんですから」
刑事として何が出来るのか。自問して、答えを出して、上手く出来るのか自信はないがそれでもやれることをやるしかない。
大きく深呼吸をして、近付いてくる気配に気を張っていると、ついに病室の戸が数度ノックされた。
「どうぞ」
僚が声をかけると静かに戸が開かれ、現れた彼は小さく会釈をする。
「こんばんは」
その男、朝田和良の表情に先程の剣幕はなかった。代わりにその表情が伺えない程の殺意に満ちた黒いモヤが湊には見えていた。背筋に走った悪寒に咄嗟に目を逸らし殺意の塊の直視を避ける。
和良が何故そこまで湊に対して殺意を抱くのか分からない。確かに彼は二人の友人を湊に殺されたと思っているが、あまりにも憎悪に満ち溢れ過ぎているのだ。
それはつまり、彼が怪異に憑かれていることを示すのだ。彼が抱いた小さな憎悪が殺意を呼び、この連日の事件で四条﨑に集まり始めていた殺意が和良に引き寄せられていったというところだろうか。
「お前、ただ単に湊の見舞いというわけではないな」
直接目の当たりにした圧倒的な殺意に気圧されていた久我坂よりも先に僚が湊を遮るようにして立ち、口を開く。
「イヤだな、本当に。本当は、お見舞いだけのつもりで来たんですけどね。先程はつい感情的になってしまって申し訳ない。ほら、さすがに友人二人も殺されちゃね。オレだって、冷静じゃいられないんですよ。腹の虫が収まらない。どうしてだろう。湊を殺したくて殺したくて、たまらない。だから先生、オレに湊を。九ノ宮の御子の血を、よこせ。そいつの血さえあれば、二人の死はなかった事になるんだ」
「最早人間である事すら捨てて怪異に魂を売ったか……。これ以上の対話は望めそうにもないな」
「対話? 対話なんて最初からする気はないさ。オレの目的は御子の血だけだから」
和良の高笑いと共に背後の窓ガラスに亀裂が走る。ミシミシと音を立てるそれはやがて外から強い力で叩き割られたかのように粉々に砕け散り破片が室内に降り注ぐ。
「マニュアル通りの行動をありがとう。ミズハ、出番だ」
慌てて窓の外を警戒し破片から守るように湊を抱き寄せる久我坂を尻目に僚はポツリと呟く。それを待っていたと言わんばかりにベッドの下から二人を守るように巨大な黒い手のようなものが現れた。
「そう驚くな、何の対策もせずに退魔師二人を外に出すわけがないだろう。なんだ、俺の事知ってると思ったのに。がっかりだよ」
破片を呑み込んだ黒い塊が静かに蠢き、中から出てきた真紅の瞳が和良をじっと見つめる。蛇の目の如きそれに睨まれた和良は身じろぎ、息を呑む。
破片を咀嚼し、飲み込んだそれは僚の足元へと吸い込まれるように消えていき、やがて大蛇のような形を取り僚の足元から現れた。
ミズハ――それは巨大な影の怪異に付けられた名。一匹の大蛇を核として一つの個体でありながら無数の自我を持つ怪異。
緋那城僚という人間に取り憑いたことにより、かつて人食いの魔物として人々から恐れられていた面影はないが、それでもミズハからすれば和良も、和良が操る怪異も赤子のようなものと言えよう。
「お前自身に直接手は出せないが、お前の使役する怪異くらいなら簡単に食い殺せるぞ。それでも俺とやり合うか?」
「ハハハ。怪異なぞこの身が、この男が生きている限りいくらでも産み出せるのだよ。そうして得た苦痛が、怒りが、憎しみが、より大きな怪異を産み出す。貴様らがいくら足掻いたところで止まりはしない。止まらせはしない。ここで御子の血を、心臓を、あの御方に捧げるまでは」
高笑いする和良の声にノイズが混ざり、やがて別の何かの声が重なる。最早そこにいるのは純粋な人間とは言い難い。
「先生、あいつ……」
「最早更生の余地無し、か。厄介だがそれだけここで湊を逃したくないという事だろうな。おい悠吏、どうしたらいい」
声を張り上げると、ベッドの下からもぞもぞと悠吏の式神である猫が現れた。猫は少し考え込むように首を傾げた後、ぴょんと湊の肩に飛び乗る。
『どうもこうもこっちも手が離せる状況じゃない。怪異を引っ剥がせないなら気絶でもさせて縛り上げとけ。聞くにそれはもう人間とは言い難いのだろう。ならばお前とミズハが動けるはずだ。後は久我坂ちゃんに任せると良い』
「了解した」
「くそ……クソ!! 化物が増えたところでなんだ! 俺にはあの方がくれた力がある! この力があれば俺は……っ!」
「化物とは言ってくれるな。お前も似たようなものだろうに」
「言ってろクソ野郎……やれ、そこの医者も女も殺っちまえよ! 御子の血さえ手に入ればオレは……っ!」
「バカの一つ覚えだな。ミズハ、そっちの怪異は好きにして良いぞ」
竦んだ体を叱咤して、和良は隠し持っていたナイフを僚に向ける。刃先は震えていたが、瞳に宿る殺意は消えない。その姿に違和感を覚え、首を傾げる僚に和良は叫びながらナイフを握り締め突撃しくる。
叫びに呼応するかのように、窓の外からあの獣の怪異に似たものが飛び込んできたが、それが湊に届くことはない。先程まで手をかたどっていた塊が姿を変え、今度は無数の蛇となり獣に噛み付く。
「先生!」
「これでも護身術は一通り叩き込まれてるのでご心配なく」
殺意は本物であるが動きには躊躇いがあった。刃先が体に到達するわずかに手前。生じた一瞬の隙に僚はその手首を掴む。違和感の正体。それはおおよそ啓二を殺したものとは異なる動きだった。
あっという間に手首を捻り上げ、後ろ手に拘束された和良はがむしゃらにもがく。
「悪いな。こういうのは慣れてるんだ」
「ちくしょう、なんでだよ、なんで皆邪魔するんだよ……」
「理由はどうであれ死者は生き返らないしその為に誰かを犠牲にしようだなんて、そんな事許されるわけがないだろう」
「クソ、クソ! あいつは殺したのに、二人を殺したのになんで、なんでオレだけ……っ!」
掴まれた手の拘束が解けないと気付いた和良は乱暴に身を捩って僚の脇腹を蹴り上げ、湊へとナイフを振り下ろす。
「お前だけは、お前だけは絶対に許さない」
絶えず紡がれる呪詛に頭がクラクラとしてくるのが分かる。久我坂に手を引かれベッドから転げ落ちるようにして凶刃から逃れるも、久我坂すらも蹴り飛ばし和良はまっすぐに湊を睨んでいた。
「……俺が憎いのは分かった。殺したいのも分かった。だから一つだけ教えて欲しい。誰がお前に、俺が二人を殺したと教えたんだ」
「ああ? 篠田だよ。あいつは俺に言ったんだ。七枝を殺したのは湊だってな」
「お前はそれを信じたのか?」
「だってお前は、七枝のストーカーをしていたじゃないか。真壁の作品だって引き裂いて、駄目にしたクセに何を」
真っ直ぐに何の疑いも持たない眼差しを向けられ湊は困惑するしかなかった。ストーカーの噂は聞いていたが、啓二の作品を引き裂いたに関しては初耳なのだ。
「そうか。やっぱり篠田が黒幕か」
「誰が黒幕でも関係ない。朝田和良、暴行と銃刀法違反の容疑で逮捕します」
興奮状態の和良のこめかみに手刀を叩き込み、久我坂は静かに手錠をかける。その表情は蹴られたことで若干痛みに歪んでいるものの、どちらかと言えば怒りが滲んでいるように見えた。
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