四条﨑ストーカー殺人事件08


 それは夢と呼ぶにはあまりにもリアルだった。


 ふと気付いた瞬間に、これは夢なのだなと直感的に分かった。

 見慣れたマンションの敷地はいつもと変わりなく静寂に包まれている。昨夜のあの惨劇があったごみ捨て場もそれは変わらなかった。だからこそ安堵した。もしかしたら、あの惨劇の方が夢だったのではないかと。

 小さく安堵の息をつきながら湊はマンションの玄関口へと向かう。と、目の前に人影が見えた。立ち止まり目をこらすが、急に周りを照らしていた明かりが全て消えたのだ。思わず肩を震わせ、たじろぐ。

「だ、誰……」

 勇気を出して声をかければ代わりに聞こえたのはひた、という湿った足音。それはゆっくりと、だが着実に湊の方へと向かってきている。

「真壁なのか……?」

 問いかけに答える気配はない。ただひたすらに、ひたひたという嫌な足音が耳に突き刺さる。

 得体のしれない恐怖に逃げ出したい衝動に駆られ、来た道を引き返そうとするが体は指一本すら動かすこともままならない。ならばもう、目を覚ますしかない。自分が夢だと自覚している以上、自らの意思で目を覚ますことだって出来るはずだ。

 その昔、怖い夢を見た時に早く目が覚めろと念じていたのを思い出し、あの時と同じよう必死にもがいて試みる。だが、一向に目が覚める気配もなく足音はどんどんと近付いてくる。

 観念して顔を上げ、湊は息を呑んだ。

 目の前に立っているのは、かろうじてそれが真壁啓二だったと認識出来る程にドロドロに崩れた顔をした男。濁った隻眼は湊を見ているのか、何を見ているのかも分からない。

『お前のせいで』

 頭の中に声が響く。淡々と、抑揚のない声が無数に響く。その大半が湊に対する恨み言だ。お前のせいで、お前がいなければ、お前が代わりに死ねば。何度も何度も、耳を通じて聞こえるのではなく、頭の中に直接打ち込まれるような感覚にめまいがした。

 視界が暗転し、ふわふわとした感覚と共に息苦しさに襲われる。それまでは無意識の内に上手く呼吸が出来ていたはずなのに、急に呼吸の仕方が分からなくなりそのまま意識が朦朧としてくる。その頃にはもう、声は耳鳴りに掻き消されていた。

 遂には自分の声すらも耳鳴りに邪魔をされ聞こえなくなって、このまま死ぬのか、それとも目が覚めるのかどちらなのだろうとぼんやりとした意識の中で考える。

「……もう、どっちだっていいや」

 そうして、湊は諦めたように意識を手放した。



 どこか遠くで話し声が聞こえた。声は二人で、誰かが会話をしているようだ。内容までは聞き取れないが、どこか事務的な淡々とした口調に何故だか少し不安になる。

 うっすらと目を開ければまばゆいばかりの陽射しに思わずうめき声がこぼれた。何せ目を覚ます前の記憶は夜中で、夢の中でさえも暗い闇の中にいたのだから。

 そこまで思い出して、同時に見たもの、経験したものを思い出し腹の底から恐怖が込み上げてきた。

 声にならない掠れた悲鳴が口をついて出て飛び起きると、すぐ傍にいた人物も驚いたのか肩を震わせた。

「あ、あの、ごめんなさい」

 身構えるように固まる女性に謝り、彼女のすぐ傍にいた男にも再度謝り、ぐるりと辺りを見渡す。この一面真っ白な部屋には見覚えがある。

 ――病院だ。分かった瞬間に自分はちゃんと生きているのだと安堵し、また病院に来てしまったのかと恐怖した。

「怪我は……大丈夫?」

 黒のパンツスーツに身を包んだ女性に声をかけられ頷く。おおよそ医者と呼ぶに相応しくない服装の女性に警戒心が募り、彼女が何者なのだと考えるよりも先に見せられた黒の手帳が答えを示す。

「刑事の久我坂だ。随分とうなされていたようだけれども」

「え? あ、はい……ちょっと悪夢を見ていたようで」

「悪夢か……内容について詳しく聞きたいところだが、その前に山峰がこれを渡してくれと」

「あ、えっと、これ……」

 久我坂と名乗った刑事が持つ眼鏡は自身が愛用していたまじないの込もったそれと同じものだった。見れば傍らのサイドテーブルには昨夜まで使用していた壊れた眼鏡がある。レンズに大きなヒビが入ったそれはまじないの効力も切れかけており、もう使用することは出来ないだろう。

 湊にとってこの眼鏡はなくてはならないものだ。特に病院にいるのならばなおさら。病院という場は視えなくてもいいものが多すぎさる。それ故に山峰というあまり聞き馴染みのない人物に感謝しつつそれを受け取る。

 そうしてちらりともう一人の男に目を向けると彼はニコリと微笑み口元に人差し指を添える仕草をした。

「さて、早速だが本題に入りたい。昨夜の事件について、思い出したくはないだろうけれども少しだけ協力してほしい」

「はい……」

「ありがとう。まず君は被害者の真壁啓二とは友人関係にあったと聞いている。そして被害者が殺される直前、被害者と口論をしていたとも。これは本当?」

「ええ、本当です。真壁が、俺に嫌がらせをしていた黒幕で、俺が上島を殺した事にしたがってたからカッとなって」

「殺した事にしたがってた、と言うと?」

「詳しくは俺も全部を聞いていたわけじゃないから知りません。でも俺が上島にストーカーをしてただの、俺で遊ぶのに飽きてきただの色々言われて、よく分からなくなって。家にまで来て言い訳ばっかりしてたから言いたい事全部ぶちまけちゃって」

「それはまた……ひどい話だ。それともう一つ、遺体発見時についてだが――」

 友人関係にあった者の遺体を目撃するなど、そうそう起こる出来事ではない。言葉を詰まらせながらも受け答えをする最中、何故か悲しみだけはなかった。それどころかいやに冷静でいることと、不謹慎だと分かっていても内心でざまあみろとほくそ笑んでしまう自分に驚いた。

 それでも遺体に直面した恐怖だけは拭えるものではない。なるべくあの惨状を思い出さないようにしていたが、まぶたの裏に焼き付いた光景は固く目を閉じても外の景色を見ても消えることはない。むしろ消えてくれと意識すればする程余計にはっきりと思い出され頭痛がする。

「俺を疑ってるんですか」

「そういうわけではない。自分の命を危険に晒してまで怪異に自身を襲わせるなど博打もいいところだ。犯行時刻も時刻で、君以外に目撃者がいなくて君に聞くしかないんだ」

 申し訳なさそうな言葉をかけるものの、久我坂の視線はまるで心の内を見透かされてあるかのように鋭い。あんな近所迷惑になるような言い争いの直後に啓二は殺されたのだ。まず第一に疑われても無理はない。だが事実、湊は犯人と思わしき怪異に襲われているのだ。それは紛れもない事実で、頭や腕に巻かれた包帯と痛みがある。

「少し時間を戻そうか。君は被害者が帰った後、何をしていた?」

「部屋で夕食を食べながらテレビを見ていました。でも途中で気分が悪くなって、横になろうと寝室に。少し眠って、目が覚めてからゴミを捨てに行きました」

「そこで襲われた、と」

「……ええ」

「それを証明出来る者は?」

「居るわけないでしょう? 一人暮らしですよ! ほら、やっぱり疑ってるじゃないか! 皆そう言う……お前が、お前のせいで、お前がいなければって。じゃあなんですか、俺がやりましたって言えばいいんですか? そしたら俺はこんなにも責められなくて済むんですか?」

 怒りに任せ握りしめた拳がサイドテーブルを殴りつける。半ば八つ当たりに近いものだ。驚き、目を伏せた久我坂の顔を見ることが出来ずに、小さくごめんなさいと呟き布団を手繰り寄せる。

「……ごめんなさい。色々と聞きすぎてしまったみたいだ。傷が癒えたら、また話をしよう。それまでに絶対、君を襲った犯人を見つけてみせるから」

 戸が開いて久我坂が病室を出ていく。足音は一つ。顔を上げ、まだ病室に残る男を恨めしそうに睨み付けると、彼もまた困ったように眉根を寄せていた。

「……昨日、助けてもらった事には感謝しています。でも、あなたも俺を疑ってるんですか」

「いいや。きみに人殺しが出来るとは思っていないよ。でもそれは僕の個人的な感情だ」

「ほら疑ってる」

「ごめんって。立場上きみの味方だと断言が出来ないんだよ。それより気になる事があったのだけれども、聞いていい?」

 ベッドに腰をおろし尋ねる悠吏に少し沈黙した後肯定を示す。

「湊はどこで誰に上島のストーカーはきみだって言われた?」

「大学です。忘れ物をしたので真壁たちに見つかる前に大学へ取りに行った時。真壁が『あいつが七枝を付け回してた』って」

「なるほどね。あともう一ついいかな。真壁啓二の死亡推定時刻の少し前。エレベーターの防犯カメラにきみと同じ服装の人物が映っていたんだよね。時刻は午後十時三十分前後。真壁がエレベーターを降りた直後。四階へ戻っていったエレベーターにね」

「時刻までは覚えてませんが絶対に俺じゃないです。真壁が帰ってすぐは部屋にいましたし。ゴミを捨てに行った時でさえエレベーターを使ってませんよ。点検中で、使えなくて」

「点検? マンションってそんな時間に点検するの?」

「さあ? その時間に家の外に出た事ないですし」

「だよねえ。まあそこも合わせてもう少し聞き込みしてみるかな。貴重な情報提供ありがとう湊。そう、最後に一つ忠告だ。きみの信用出来る人間以外誰の言葉も信用しない方がいい。次にもし何かがあった時、おそらく僕はきみを助ける事が出来ない。その代わりと言っちゃなんだけど、百パーセントきみの味方でいてくれる用心棒を呼んだから。あとはその彼らに頼って、きみは目立つ行動は控えるように」

 味方になってくれるような人間がこの町にいるのだろうか。問い詰めたかったが、そうする間もなく悠吏はひらひらと手を振って病室を出ていってしまう。

「……まさかね」

 真っ先に浮かんだのはつい先日、誤って通話ボタンを押してしまった幼馴染の顔だ。ありえない。ありえるはずがない。そう何度も言い聞かせながら湊は再びベッドへと横になった。

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