四条﨑ストーカー殺人事件06

「被害者は真壁啓二、二十二歳。久野芸大に通う学生です。死因はおそらく失血死かと。詳しくは検死に回してみないと分かりませんが、あの傷では間違いないかと思われます」

 到着した遠坂へ報告を続ける機動捜査隊員たちを横目に獣の怪異が残した足跡をじっと見つめていた。

「……ドイル、何か分かるか?」

 彼がドイルと呼んだ真っ黒な大型犬は怪異の痕跡を探しているのか一心不乱に芝に鼻先を突っ込み何かを探している。が、主の問いかけに顔をあげ姿勢を正す。

「なにそれ、眼鏡?」

 主の手に押し付けるように渡されたのは片方のレンズが割れた黒縁眼鏡。光を反射して薄っすら赤く輝くそのレンズからは微弱ではあるがまじないの痕跡が見られる。

「これ、湊のか……」

 それは日常的に怪異が視えてしまう湊の為に彼の保護者が魔除けのまじないを込めたものだ。

 視えることで一般的な生活を送るのに支障が出ないように。

 視えることで怪異から襲われないように。

 怪異が視えるのに、襲われても何をされても一切のダメージを与えることが出来ないという退魔師の家系としてあるまじき偏った力の持ちである湊の身を案じた保護者が与えたものを湊が手放すわけがない。おそらく何らかの衝撃でレンズが割れたことによりその効力が弱まったのだろう。

 いくつもの不運が重なり招いた結果に思わず舌打ちがこぼれた。

 そんな主の足元をつつき、ドイルはしきりに鼻をこするような仕草をしていた。

「ふぅん、香水の匂いねえ。辿れそう?」

 もちろんだと言わんばかりに胸を張り鼻を鳴らす忠犬の頭を撫で指示を出せば、待ってましたと言わんばかりに闇夜へ駆けて行く。

「あれが君の切り札かい?」

 遠巻きに一人と一匹のやりとりを眺めていた遠坂が声をかける。

 人気のなかった現場はいつの間にか、騒ぎを聞きつけた近隣住民と捜査員たちで溢れていた。

「ええ、まあそんなところですかね。逃した怪異も明日の晩までには居場所を突き止めてくれる事でしょう。新たな被害者が出た後で取り逃してしまったのは失態ですが、逃げられた事で逆に使役者にも辿り着けそうです」

「ははは、頼りにしてるよ」

「ははは、呼ばれたからにはご期待に添えられるよう働くまでですよ。それよりも、彼の傷なんですが……」

 遠坂を捉えていた視線が運ばれていく遺体へと向く。

「あの怪異に襲われたのは確かなのでしょうが、それとは別に何か鋭利な刃物で刺されたような傷、ありましたよね」

 久我坂と共に現場を見ていた際、啓二の体には確かに怪異の爪や牙が突き立てられたであろう傷がいくつも確認出来た。だが衣服に付着した血液や破れ方に違和感を覚えたのだ。

 それは遠坂も同じであったようで、怪訝な表情を浮かべている。

「口に濡れタオルなんてこの場に人間がいたのは確かだろう。たまたま起きた殺人。血の匂いを嗅ぎつけた怪異が更にガイシャを襲ったのか。それとも自分の犯行の痕跡を消す為に怪異に襲わせたのか。ま、どちらにせよ調べりゃすぐに分かる事だ」

「警部、ゴミ捨て場から僅かに血痕の付いたリュックサックが発見されました。今中を確認していますが……どうやら犯行に使ったと思われる衣服と包丁が入っていたようです」

 湊が捨てたゴミ袋の山をかき分けていた捜査員の一人が大きなリュックを手に声を張る。急いで中を開けるとそこから現れたのは血の着いたパーカーと包丁。

「噂をすれば、というやつかね。すぐ鑑識に回せ」

「了解です」

 重い溜め息をつく遠坂の隣でまた周囲を見渡す。遺体の状態から察するに自分たちが駆けつけたのは犯行後間もないはずだ。そんな短時間で着替えまでして逃走したとなると、明確な殺意を持って啓二を襲撃したのだろう。となれば、容疑者は絞られてくるはずだ。真壁啓二に強い恨みを持つ、あるいは強い殺意を持つ人間。そしてこの場所に設置された防犯カメラの映像も踏まえれば自ずと犯人へとたどり着ける。

 そう楽観視していたが、その考えを否定するかのように遠坂は苦笑いを浮かべた。

「ガイシャに恨みを持つ人間なんて、言っちゃ悪いがごまんといると思うぞ。何せこの町じゃ有名な真壁議員の息子だ。それにガイシャ自身、相当やんちゃしてたらしいしな」

「ふむ……そんなに有名なんですか? その真壁議員とやらは」

「まあ、色々とな。一つ言えるのはあまり深く詮索しない事だ。捜査がしづらくなるからね。とはいえ、今回は被害者の立場なわけだからなんとかなるかな。それよりも」

 現場を駆け回る捜査員から目を逸らし、遠坂はじっと隣に立つ刑事を注視する。

「それと今回の事件。もう一人の被害者である坂祝湊について君はどう思うかね、緋那城悠吏くん?」

 捜査の為の偽名ではなく、本名で呼ばれ沈黙が生まれた。しかし臆することなく、山峰悠吏として彼は口を開く。

「……現場に残された人の痕跡が少ない事。彼が怪異に深い関わりがある人間だという事。真壁啓二が殺される直前に口論をしていたという近隣住民からの証言、退学するまでに至った経緯。これらの情報から見れば坂祝湊が一番疑わしい容疑者でしょうね。しかし彼に出来るのか、という疑問もあります」

「と言うと?」

「真壁啓二を殺害し、返り血を浴びた衣服と包丁をリュックサックにしまったまではいい。そこで怪異にわざわざ自分を襲うよう仕向けたのか、あるいは言う事を聞かなくなったのかは分からない。けれどもどちらにせよ、ゴミ捨て場に捨てるくらいなら怪異に持たせた方が確実に証拠隠滅を図れたのではないでしょうか。この件は相当綿密に計画が練られている。練られているわりには、不可解な点が多すぎる気がするんですよね。粗がありすぎるというか、なんというか」

「そりゃ、ド素人が殺人事件なんて企てるんだ。粗がない方がおかしいだろうよ」

「まあそうなんですけど……」

 そう言われては反論の言葉はない。言いたいことをうまく言葉に表せないもどかしさに悠吏は悩み、口をつぐんだ。


「ま、ここでグダグダ推理してても分からないよ。とにかく証拠と情報を集めよう。話はそれからだ」

「ですね」

「とりあえず君はホテルは確保したのかい? こっちに来てからずっと資料とにらめっこしたり大学関係者に聞き込み行ってたのは知ってるけど」

 遠坂に聞かれるまで今晩の宿のことなどまるで忘れていた。というよりも頭から抜け落ちていたのだ。

 さすがに今からでは取れる宿などそうないだろう。頭を抱えていると遠坂は苦笑を浮かべながら署の仮眠室を勧める。この際だ。横になれるのならばなんだって構わない。二つ返事で応え、署に戻るために自身の愛車へと戻った。

「さすがに冷えるなあ……」

 エンジンをかけ、暖房を入れたところで長らく車に置き忘れていた携帯を手に取った。

 引き上げていく捜査員たちを眺めながら電話帳を開き、とある番号へとかける。さすがに時刻からして電話をかけるのは躊躇われるものだが、相手が確実に電話に出ると知っているから何の躊躇もなく電話をかけられたのだ。もちろんその思惑通り相手は数コールもしない内に電話をとり、悠吏は他愛もない雑談から切り出し本題へと移行するあまり長くここに留まっているわけにもいかない。端的に「お願い」をすると相手は快諾してくれた。改めて礼を言い通話を終える頃には車内はもうすっかりと暖まっていた。

「さて……病院でも覗いてくるかね」

 あの様子だと意識を取り戻しているとは思えないが、行ってみる価値はあるだろう。どのみち壊れてしまった眼鏡の代わりに値するものを渡さねばならないのだから。

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