四条﨑ストーカー殺人事件05
さすがに眠ることにも疲れたのか、それとも深く眠れる程の体力が残っていなかったのか。目を覚ました湊は部屋の片付けを再開していた。食欲はなく、弁当には目もくれず黙々と部屋の画材をゴミ袋に詰め込んでいき、そうして絵の具や色鉛筆といった画材、裂いたスケッチブックやノートをまとめたゴミ袋はパンパンに膨れ上がりかろうじて両手に持てる程であった。
それらを持つ湊の額には汗が滲んでおり、息も絶え絶えだ。というのも、こんな時間だというのにエレベーターが清掃中で使用出来ずに、四階の自分の部屋から階段で降りてきたからだ。気晴らしにはちょうどいいかと思って歩いてきたが、普段から運動をしない体ではすぐに息があがってしまう。
「ああ、クソ……もう絶対階段なんて使わない……っと、うわっ」
袋を引きずらないよう休憩を挟みながらゴミ捨て場に辿り着いた湊だが、袋で足元が見えなかったのだろう。何かにつまずき、受け身を取ることも出来ずに顔から地面へと倒れ込んだ。そこがアスファルトではなく、芝だったのが幸いだ。それでも痛む顔を押さえ上体を起こす。
「いって……なんだってこんなところに」
夕方ここに来た時には自分が捨てたゴミ袋以外には何もなかったはずだ。切れかけの蛍光灯でははっきりとそこに何が落ちているのかも見えずに、何故早く交換しないのかと管理人に悪態をつきながら起き上がった湊は芝についた手を濡らす感触に首を傾げた。
転んだ拍子にどこかを擦りむいたのだろうか。それにしては手のひら全体と広範囲な上に痛みもひどいものではない。
だとすれば雨の残りをまだ地面が吸っていたのだろうかとも考えたが、ここ数日雨が降ったとは記憶していない。とにかくベタベタとして気味の悪い手のひらを拭おうと立ち上がり、目を見張った。
「え?」
手のひら一面を濡らす赤。ぬるりとした感触は絵の具に近いが、袖や膝まで濡れる程の大量の赤絵の具は持っていない。仮にそれだけの量を持っていたとしてもそれはゴミ袋の中。それも一気に溢れ出てくるだろうか。
では。この手のひらについたものは一体何だというのだ。底知れない恐怖に立ち上がり後退る湊はまたも何かに足をとられ尻もちをつく。今度はつまずいたものが、はっきりと視界に映った。
目にした瞬間心臓がドクンと跳ね上がった。
それは人の形をしたもの。ただ人間と違うのは瞬き一つせずにじっと自分を見つめてくることとその体。助けを乞うような濁った瞳は見開かれたまま湊を見つめる。それだけでも十分異様だというのに、不自然に投げ出された肢体と周囲の芝は赤く染まりその異様さを際立たせていた。
息を呑み、まともな呼吸すらままならずに震えが増す。何が起きているのか理解しようとすればする程、目の前にある光景と記憶の奥底にある別の光景が重なり、考えがまとまらないまま時間だけが過ぎていく。ガタガタと震えていると、どこか近くから獣の唸り声が聞こえた。
ここにいてはいけない。それだけははっきりと分かり、恐怖に竦む足を無理矢理に動かすがもつれるばかりで一歩も動けやしない。そうしている間にも唸り声はどんどん近付いてくる。
「ひっ……!」
頭上の蛍光灯が割れる音がして、細かな破片が降り注ぐ。街灯もほとんどないような暗闇の中で真っ赤な獣の瞳だけがはっきりと見える。
「まさか……」
転んだ拍子に眼鏡をどこかに落としてしまったのが災いした。あれはこうならないための、目の前にいるおぞましい「獣」というよりは「化物」と形容するに等しい怪異を強制的に見えなくするためのお守りであったのに。
姿さえ視認しなければまだ逃げるだけの勇気はあったはずだ。だがおぞましい獣をはっきりと捉えてしまった。
体長二メートルは超える巨体とそれに見合うだけの大きな口。そこから覗く犬歯も、爪も、人間の皮膚など簡単に突き破ってしまいそうな程鋭い。そして何より恐怖を感じたのは所々肉が腐り落ちたかのように骨が見え隠れする体と眼窩からこぼれ落ちてなおギョロギョロと動く眼球。一言で言い表すならばゾンビと呼ぶのが相応しいのだろうか。そんなものを直視してしまった。
――殺される。
足下に転がる彼のようにこの獣に殺されてしまう。呼吸すらままならない湊が逃げないと知っているであろうに、獣は彼の腕を踏みつける。
「いやだ……助けて」
声に出ていたのかも分からない程に小さな呟きであったが、獣には聞こえたのだろう。人間がニヤリと口角を吊り上げるのと同じように獣が嗤った。
『彼女も同じ。お前のように助けを求めながら、死んでいったよ』
頭に直接響くような電子音のような声が聞こえたが、気にかける間もなく湊の体は宙に浮く。
一瞬の浮遊感の後、何が起きたのかも分からぬままに体は冷たいアスファルトに叩きつけられ、痛みで呼吸が止まる。
『私が何か気に入らないことをしたのならば謝る。なんだってする。だから命だけは助けて。まだ死にたくないの』
誰のものとも分からない声が何度も何度も、繰り返し頭の中に響く。
「俺だって、死にたくない……」
きっと声の主もそう言いながら殺されていったのだろう。
獣が鋭い爪を振り上げるのを見て、自分も同じ運命を辿ってしまうのだと悟る。体はもう、指先の一つも動かすことが出来なかった。逃げることも出来ず、獣に嬲り殺され食われるだけ。諦めて、せめて無残な姿になる自分を見ないよう目を閉じた時だった。何か強い力で体が引っ張られる。
「っ……!?」
「よくやったドイル。ギリギリセーフ、ってやつだな」
どこか聞き覚えのある懐かしい男の声が頭上で聞こえた。
「酷い怪我だが……間に合ってよかった」
困惑する湊の頬を何かが舐める。あの獣とは違う、小さくて柔らかな獣の舌だ。それを静かに引き離した女に抱きしめられ、止血の為の布が傷口に巻かれる。
「
「……きみに任せる。我々はあんな怪異の対処法を知らない」
「分かりました。では、生け捕りにしましょう。そして徹底的に、調べましょう。アレが誰を殺し、誰に使役されているかをね」
男の足下から立ち昇る青い光を、湊は知っている。まだ生まれ故郷にいた頃に怪異に襲われた自分を何度も助けてくれた、優しい光だ。
「氷の、魔弾……」
男の構えた拳銃から吐き出された銃弾が脚に命中すると同時に、獣の体が凍り付き始めた。
脚から凍らされたことにより身動きのとれなくなった獣は自らの爪で氷を叩くがその程度であの氷の拘束が解かれることはない。
「やったのか?」
「いや……何かおかしい」
男が目を細め、背後を振り返る。その時だった。
「しまっ――」
獣は一つ大きな咆哮を残し、自らの体に爪を立てる。そうして凍り付くよりも先に下肢を切り落とした獣は、上半身と残された腕の力を使い跳躍した。驚く一行を置き去りにし、獣はあっという間に闇夜へと溶けていく。後に残ったのは風に乗り散っていった獣であった下肢の残骸と静かに溶けていく氷だけだった。
「どういう事だ……」
「
「あの手の獣を模した怪異の知能なんてたかが知れています。誰かが意図的に怪異を操ったか、そうするよう指示を出したとしか思えない」
「一体誰がそんな事を? さっき振り返っていたが、誰かいたのか?」
「……確かに視線を感じた気はしましたが。それでも何の気配もしなかった」
「む……。考えていても埒が明かないか。ひとまずこの子の手当と、彼の遺体を」
湊の頭をぽんと撫で、山峰と呼んだ男に託すと女は芝に横たわる者――真壁啓二の遺体へと近付いていく。
「あの……」
何かを言いかけた湊だったが、獣が消え命の危険が去ったからか、それとも体が血液を失いすぎたのか。パタリと糸が切れたかのように意識を失い山峰の腕へと倒れ込んだ。
「ちょっとこれはまずいかな」
「もうすぐ救急車も遠坂警部も到着するようだが……彼はその、大丈夫なのか?」
「久我坂さんが応急処置をしてくれたおかげでなんとか。気を失ってるだけです」
「そうか、なら良かった。こんな目に遭ってすぐで申し訳ないが、彼には聞かなければならない事が山ほどあるからな……」
「ええ、そうですね」
遠くで聞こえるパトカーと救急車のサイレンの音に少し安堵し、湊を抱え直し、腕時計に視線を落とした。
時刻は午後十一時を回ろうとしている。まだまだ長い夜は続きそうだ。
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