四条﨑ストーカー殺人事件04
「あーあ、やらかしちまったな。あの人に怒られそうだ……」
マンションを下るエレベーターの中で、真壁啓二は舌打ちを漏らした。
まさかあの場に偶然本人が居合わせているなど思いもせずに湊に本心を見られてしまっていたなんて。自分の油断と不注意が招いた事態とはいえ、腹立たしいことこの上ない。
外の景色を眺めながらスマートフォンを開けば時刻は午後十時を回ろうとしていた。思いの外時間をかけてしまっていたことにし舌打ちを漏らしスマートフォンを操作する。見ているのは電話帳と短文投稿型のSNSだ。電話帳からは湊の名前を削除し、SNSにはまるで自分が被害者のように「湊の所に真相を確かめに行ったら一方的に罵倒され縁を切られた。やっぱりあいつが犯人なのかもしれない」そう書き込む。その書き込みを見るのは啓二が言葉巧みに味方へと引きずり込んだ大学の同期たち。すぐさま湊を批難するような書き込みが相次ぐ。
自分を抜きにしてどんどんと進んでいく誹謗中傷の数々を眺め啓二は笑う。
彼らが知るのは啓二の本性ではなく表向きの顔。湊に何を言い何をしてきたのか知らない彼らにとって啓二は加害者ではなく被害者なのだ。
それにしても湊が本当に退学届を出してしまうとは予想外の出来事だった。聞いた話では坂祝湊は大人しく自分の感情を顕にするタイプではなく内に溜め込むタイプなのだと。それ故に何をしても彼から行動を起こすことはまずない。だから上手くコントロールしてやれば卒業までに彼を――男が必要だと言った彼の持つ力を手に入れることが出来る。そうすれば望みを何でも一つ叶えてやると、男はそう言った。
最初こそ半信半疑であったが、証拠を一つ見せてやると。当時交わした会話は数える程しかなく、それでも自分のものにしたいと思っていた上島七枝と付き合いたい。そう願ったところ、男はそれくらい簡単だと笑った。その翌日、本当に彼女から突然告白されて以来男の言葉を信じるようになった。だから今日まで協力を続けてきたのだ。
彼が絵を描けなくなった時点である程度の予想はしていたとはいえ、実際に行動に移せるだけの度胸があるとは思えなかった。だからこそ聞いていた話と、今まで見てきた湊との差に驚き、戸惑った。だがこれはこれで男が湊に近付く良い口実を作ったとも言えよう。
やがて聞こえた短い電子音と共に開いたエレベーターの戸に啓二は思考を止めた。ここでこうして一人で悩んでいても仕方がないのだ。男に短く今から向かう旨のメッセージを送り、急ぎ足でマンションを出る。
道中、マンションの裏手のゴミ捨て場の前を通り、捨てられた大量のゴミ袋の前で歩みを止めた。
蛍光灯が切れかけているようでちらつく街頭の明かりだけでははっきりと中身までは分からなかったが、半透明の袋にすけて見えるカラフルな色彩の数々にそれが絵であると察しがついた。
「……ここまでやるとはねえ」
ズタズタに引き裂かれた絵を見ると少しだけ複雑な心境になる。あの青年はそんなに悔しかったのだろうか。それこそ、湊と出会ってから経験した自分と同じか、それ以上に。
真壁啓二にとって絵を描くことは日常生活の一部であり、趣味でもあった。妹や幼馴染にせがまれ幼い頃から絵を描き続けていたからなのだろうか。絵の勉強というものをあまりしたことはないが、それでも自分で「自分の絵は上手い」と思えるだけの才能はあったように思える。そこから彫刻などに興味を持ち、この美術大学に入学した。親は自分たちが決めた大学に行けとうるさかったが、自分はどうしても絵を描きたい、造形をやってみたいのだと。一度挑戦してみてダメなら両親が決めた大学へ入り直す。そうでなかったとしても、満足する結果が得られたら親の望む大学に入り直すと。その熱意に負けたのか両親共に好きにすればいいと言ってくれたのだ。ただし、やるからには全てにおいて結果を残せと。自分になら出来ると思っていた。高校の美術教師も後押ししてくれたし、その為に出来ることはなんだってした。
だが現実はどうだ。坂祝湊は自分よりも遥かに人の目を引く才を持っていた。片手間に磨いてきた技術だけではどうにもならない想像力と創造力。最初こそただただ感服し、彼には到底勝てないと思った。
明らかにレベルが違うのだから張り合う必要もないと思っていた啓二に、父親は残酷な言葉を告げたのだ。
あれ以来だ。湊の絵を、湊自身を憎く思うようになったのは。そして男が啓二の前に現れたのも同じ時期だ。請われるままに誘いに乗り、湊に向いていた周りの目を自分だけに向けるつもりだったのだが、どうしてだか本気で潰そうと思い始めていた。
おそらく一人孤立した湊から羨望の眼差しを向けられることに興奮し始めていたのかもしれない。そして手を差し伸べてやった時のあの期待に満ちた表情を、いつか苦痛で歪めてやろうと。我ながら悪趣味だと思ったがそれも最初だけ。
数年の月日をかけ楽しんでいたのに、こんなにも呆気なく終わってしまうのは残念だが大いに楽しめた。後は男に最後の仕上げを任せるだけだ。心の中でざまあみろと呟き、歩みを再開しようとしたところで、背後から足音と獣の唸り声が聞こえたような気がした。
「……湊か」
振り向いた先にいたのは今朝大学で出会った時と同じ紺のパーカーとジーンズ。深くフードをかぶっているので表情までは見えないが、さぞかし恨みがましい目でこちらを睨んでいることだろう。
「お前が悪いんだよ。お前さえいなければ、俺は親父にクズ呼ばわりされる事もなかったしお前に恨みを抱く事もなかった」
鼻で笑い何も言い返さない彼に背を向ける。コツ、と靴音が聞こえて徐々に早まるそれに気付いた時にはもう彼は啓二のすぐ後ろにいた。その際に鼻孔をついた香水の香りに疑問を抱き、再度振り返った瞬間。啓二の腕を彼が掴んだ。
「なんだよ、言いたい事があるならはっきり――」
掴まれた腕を乱暴に振り払い胸ぐらを掴み返した拍子にフードが抜け、隠されていた表情が曝け出される。
「お前……だ……」
言葉を切るよりも先に、腹部に鈍い痛みが走った。尻もちをつき、開いた口に濡れタオルが詰め込まれる。そうしてまた胸を襲う鈍い痛み。今度は何かが体に刺さるような嫌な感触が自分でも分かった。
「許さない……お前だけは、絶対に」
ボソリと低く唸る彼の腕が振り上げられた。月明かりを受けて光るものは金属質の、啓二も見覚えのあるものだ。
それが刃物であると認識するよりも早く、彼は振り上げたそれを啓二めがけて振り下ろした。今度は喉に鋭い痛みが走る。痛い。そう感じた瞬間、想像以上の激痛が襲う。呼吸をする暇などなく、何度も何度も全身に襲いかかる痛みに思考が追いつかない。
「許さない……絶対に……許さない、許さない許さない許さない許さない」
ただそれだけを機械的に繰り返しながらひたすらに振り下ろされる凶器。それは啓二の体が反応を示さなくなってからも続いた。
「……ねえ、また背中に傷跡つけといてよ。その方が、お似合いでしょ」
ようやく満足がいったのか、彼は返り血を拭い冷静に腕時計に視線を落とした。時刻は午後十時を回っている。朝が遅く、帰宅も遅いマンションの住人たちがそろそろ帰ってくる頃だ。いくら大通りに面しているマンションの裏手とはいえ、自家用車で通勤しているサラリーマンたちはマンションの裏手、道路を渡った先にある駐車場に車を停めて歩いてくる。のんびりしている暇はない。
淡々と凶器のナイフと返り血にまみれた衣服を脱ぎ、近くに潜んでいた獣に啓二の背に爪を立てさせる。散々刃物で刺したあとでこれでは偽装工作にもなりやしないだろうが、せめて件の熊などの巨大な獣が出没したという痕跡が残せるだけでも捜査の目をそちらに向かせるくらいは出来るだろう。
指紋や痕跡を残さないよう着替え、リュックに詰め込んだ犯行に用いたもの全てをゴミの隙間へと潜り込ませる。
少し離れ、ホッと一息ついたところで背後に人の気配を感じた獣が唸り声をあげる。
目を凝らすと、マンションから若干光を反射するビニール袋を手にした人影が出てくるのが見えた。
まさか。頭の中が真っ白になり心臓がバクバクと高鳴り始める。急いで物陰に身を隠し人影がこちらに向かってくるのを息をひそめて待つ。必要とあらば、その人物も獣に殺させなくてはならないかもしれない。
手にしたビニール袋がよほど重いのか、歩みの遅さに苛立ちが募り始めた頃。なんとか顔が視認出来る位置まで来て、彼は目を見張った。
そこに現れたのは、他の誰でもない。自分が啓二を殺す為になりすましていた坂祝湊その人だった。
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