四条﨑ストーカー殺人事件02
陽も沈む頃には昼の陽気はすっかりと消えていた。肌寒さを感じて目を覚ました湊はソファにかけていたパーカーを羽織り、ずり落ちた眼鏡をかけ直し時計を見やる。あれから針は何周したのだろう。
考えても分かるはずもなかった。帰宅してからの空白の時間、自分が何をしていたのかを覚えていない。だが無残に部屋に散らばったケント紙や引き裂かれたスケッチブック、折れた絵筆を見る限り散々暴れまわったのだろう。よく近所から苦情が来なかったものだと自分のことながら苦笑が漏れる。
しかしこれでもう、後戻りは出来なくなった。絵を描けなくなってしまった時点で後戻りなどするつもりはさらさらなかったのだが、下手に道具を残してしまっては未練がましく続けるに違いない。
これで良かったんだ。何度も繰り返し自分に言い聞かせ、湊は散らばる画材たちをゴミ袋に詰めていく。自ら手がけた絵の残骸と、引き裂かれた絵の中で微笑む少女が悲しそうな表情をしているように見え、チクリと心が痛んだ。
なるべく手早く部屋を片付け終える頃には辺りはもう真っ暗になり、空には月が輝き始めていた。だというのに夕飯の準備はおろか、買い物すらしていない。だが冷蔵庫の中には腹を満たせそうなものは入っていなかった。
外へ出ることにあまり気乗りはしなかったが、一刻も早くこのゴミを捨ててしまいたかった。そのついでにどこかで夕飯でも買えばいいと考え、ゴミ袋と財布を手に部屋を出た。
幸いにもすぐに到着したエレベーターは無人で、ゴミ袋を床におろしぼんやりと流れていく景色を見つめる。ゴミ捨て場はマンションを出てすぐにある。そこからまっすぐ大通りに出ればスーパーとコンビニがある。時間帯からして閉店間際のスーパーでは弁当の残りは期待出来そうもない。淡々とゴミ袋を放りながらそんなことを考えていた。
「ん……?」
全てのゴミ袋を放り、最後にジーンズのベルトに引っ掛けていたペインティングナイフを手に取った。
これを捨ててしまえば家族との思い出も消えてしまうような気がしてならない。本当にそれでもいいのだろうか。
「……これで、いいんだ」
一瞬のためらいの後に放り投げられたペインティングナイフが、ゴミ袋の合間に消えて乾いた音を立てた。
「いつまでも縋ってるわけにもいかない……もんな」
唇を噛み締め逃げるように大通りへと向かうその道中、見知った顔を見つけ足を止めた。
「篠田……」
「よっ。あんたが心配でちょいと様子をね」
不自然なくらいに明るい赤髪に左耳の真紅のピアス。ひと目で奇抜と分かる出で立ちのこの男は大学の同期だ。
名を
浩樹は変わった男だ。啓二と仲良くしながらもこうして自分にもよく接してくれて、直接的ないじめの場面に遭遇した時や、講師に怒られた際には助けてくれたりと何度も世話になっている。出来ることなら会いたくなかった人物だ。
「その調子だと大丈夫じゃなさそう?」
「さあ」
「退学取り消すなら今の内だよ」
「もう、辞めるって決めたから」
「あんなヤツのせいで貴重な才能が潰れるなんて、嘆かわしい限りだよ」
「やめてくれ。これは誰のせいでもない。大体絵を描けなくなった美大生に何の価値がある? どこにもないじゃないか」
「あんたには工芸の才もある。映像編集だってイケるだろう? 何も辞めなくたって――」
「うるさいな。もう辞めたって言ってるだろ! 何も知らないくせに、分かったような口を利くな」
これ以上彼と話すのが苦しかった。せっかく離れると決めたのに抑え込んでいた未練が顔を覗かせるような気がして、声を張り上げ逃げるように浩樹の脇を通り抜けようとした。だがそれを許さないと言わんばかりに湊の腕を掴む。
「離せ――」
「憎くないのか? あいつが」
「お前には関係のない事だ」
「あんたにとっての生きがいでもある絵を奪った真壁。殺したい程憎いとか、思わない? 俺だったら殺してやりたいって思うね」
普段のおちゃらけた様子とは違い、低く真剣な声音に背筋が寒くなるのを感じた。直感的に浩樹は本気なのだと感じ取り、無我夢中で掴まれた腕を振りほどき、走った。
「なんだよあいつ……絶対おかしいって」
確かに啓二を憎いとは思う。だがそれで殺したい程憎いかと聞かれれば答えはノーだ。殺したい程憎むという殺意はそう簡単に抱ける感情ではない。湊は家族を喪った時、身をもってそれを知っている。だからこそ、呆れこそしたもののそれ以上の感情を抱かなかったのかもしれない。
逃げ隠れるようにコンビニへと駆け込み様子を伺っていたが、追ってくる気配はおろか浩樹の姿さえ確認出来なかった。
なんとか撒けたかと安堵の息を吐き、適当な弁当と飲み物、それと缶ビールとチューハイ数本を買うことにした。酒に弱く普段は自らすすんで飲もうとは思わないが、今日ばかりは飲まずにはいられない。飲んで全てを忘れたかった。
会計を済ませている間、店員に訝しむような、怯えるような目で見られていたのがひどく腹立たしかった。最初こそその意味が分からず変な被害妄想に囚われていたが、帰宅して鏡を見て納得だ。まるで表情のない顔は、いくら普段から仏頂面とはいえ、まるで自分のものと思えないくらいひどく見えた。そんな顔にもまた嫌気が差し、パーカーを脱ぎ捨て乱雑に脱衣所の洗濯カゴに放り込んだ。
シャワーの蛇口をゆっくりとひねり冷水を浴びれば、少しはいつもの落ち着きが戻ってくる。とにかく、今は明日からの生活をどうするかだけを考えようと頭を働かせる。幸いにも今は亡き両親が遺してくれた蓄えと育ての親の蓄えのおかげで向こう十数年は何もしなくても暮らしていける。だが、今まで生きてきたこの二十年「絵とは無縁の生活」をしたことがなく、正直なところ何をすればいいのか分からない。
もちろん仕事を探そうとは思ったのだが、見ず知らずの人を相手にすると途端に口が利けなくなってしまう。顔見知りですら会話をするのに向こうから話題を振られなければ挨拶すらもままならない程だ。
以前担任教師にも言われたことだが、根本的に接客業は向いていない。かといって、体力があるわけでもない。
「したい事、か……」
思い返せば自分には絵以外に何もなかった。勉強が出来るわけでもなく、コミュニケーションが得意なわけでもなく。何も出来ないのだと自覚してしまうと途端に無気力になるもので、湯船にも浸からずに早々に風呂場を後にした。
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