四条﨑ストーカー殺人事件01

 ソファに腰を下ろし、眼鏡を机の上に放り湊は大きな溜め息をつく。見上げた視線の先にはこの数年で描き上げた作品の写真が並んでいる。どれも賞をとったものばかりだ。日付順の古い順に並ぶそれはやがて赤字で書かれた日付を最後にコルクボードには写真が並ばなくなった。

「あの頃は楽しかったんだよな……」

 友人より時間をかけ細部まで丁寧に創り上げた作品も、最初は彼らと悪い部分を指摘し合い、称え合い、入賞すれば互いに喜びを分かち合った。だというのに、いつからか次第にそれもなくなってきた。そういうものなのだと思ってはいたが、日常会話すらなくなり始め、避けられていると実感したあたりから何かが狂い始めていたのだ。

 次第に画材がなくなり始め、かと思えば空になってどこかで見つかる。

 誰かが間違えて使ったのだろうと思いもしたが、それが何度も何度も頻繁にそれも自分の物にだけ起これば嫌でもそれが故意なのだと分かる。

 タチの悪い嫌がらせ――いや、幼稚ないじめだ。大学生にもなって小学生じみたいじめをする者もいるのだと思うと怒りも悲しみもなく、ただただ呆れた。

 だが、それでも度重なる嫌がらせに精神は疲弊していった。なんともない。そう思ってはいてもやはり心のどこかで気にしており、その些細な部分が自分の作業スピードにも影響を及ぼし始める。

 思うように進まない苛立ちと、必要な時になくなる画材。苛立ちやストレスは募るばかりで、遂には真っ白なキャンバスを前に、筆を進めることが出来なくなってしまった。

 最初こそ講師は気にして声をかけてくれていたが、いじめのことは言い出せずに適当にはぐからし続けてきた結果、愛想を尽かされたようだ。

 講師からも声をかけられず、同期からも無視をされ、疑心暗鬼に陥っていった。

 大学生にもなって子供みたいだと思った。だが誰も自分の描く絵を、自分を見てくれない。まるでそこに存在していないかのように、誰もが自分を避けているようにさえ思える。それもそうだ。白紙のキャンバスを前に声をかける者などいない。中には声をかけてくれる同期もいたが、どうせ馬鹿にしたいだけなのだろうとこちらから避けるようになっていた。

 そんな折だ。上島七枝かみしまななえに呼び出され、啓二が数々のいじめを行っている首謀者なのだと聞かされたのは。最初こそ信じられずに冗談はやめてくれと一蹴したが、いつになく真剣な七枝に彼女の言葉に耳を傾けずにはいられなかった。とはいえ、信用したわけではない。

 無論、啓二のことも信用していたわけではないが、それ以上に彼の恋人であり同期でたまに会話をする程度の彼女の言葉を信じられるほど湊は寛容ではないのだ。

「くそ……」

 乱暴に描きかけのキャンバスを投げつける。大学では何も描けないものだから、マンションの自室でゆっくりと落ち着いてようやく制作に着手出来たばかりだというのに。

 腹立たしい。啓二もそうだが、たったの一年や二年で啓二を信用しようとしていた自分にも、周囲の人間にも腹が立つ。八つ当たりなのは十分に分かっている。それでも描きかけて、続きに手がつかなくて放置されたキャンバスの数々を見るとどうしようもなく腹が立つのだ。

 丁寧に保管していた完成済みの絵から画材から、全てを引っ張り出してリビングに集めて、全てを叩き割る。その中でただ一つ、唯一人間を描いたその絵に描かれた少女が哀しげに自分を見つめているような気がして、とっさに手にしたペインティングナイフを振り上げた。

「なんで、お前もそんな目で……っ!」

 キャンバスの中の瞳にナイフを突き立てようと思った。だが、出来なかった。

 手にしたペインティングナイフは両親に買ってもらった最初で最後の彼らとの思い出だ。描かれた絵は、断片的にしか残らない幼少期の記憶を必死に手繰り寄せて繋ぎ合わせて描いた思い出。その絵を壊すことなど、出来るはずがなかったのだ。

 引っ込み思案で親とすらまともに会話が出来なかった自分が欲しいものがあると思い切って告げた時、母は驚いたような、どこか嬉しそうな顔をしていた。忘れかけていた遠い日の記憶を思い出した瞬間、急激に様々な感情が込み上げてきた。

「ははっ……なんで、いつもこうなんだろうな……」

 握り締めた指の隙間から滑り落ちたナイフを見つめ、うなだれる。口からは乾いた笑みだけが吐き出され、しんと静まり返った室内に響く。

 まるで自分のもののようで、自分のものとも思えないような笑みが高笑いに変わるのに、時間はかからなかった。

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