2-8
「……あー、また変な時間に起きるし」
どうやって家に辿り着いたのか良く覚えていないが、間違いなく自分のものであるベッドの上で目を覚ました俺を待っていたのは、黒の世界。つまり夜だった。深夜だった。
「……腹減ったな」
おそらくだが、俺は夕食を食べていない。とはいえ、おそらくというのは屋上を離れた後の記憶が曖昧だからというだけであり、空腹具合からするとほぼ間違いなく帰ってから今の今まで食事を取らずに眠り込んでいたのだろう。
「何か食いに行くか」
椿を誘うべきか、と少し悩む。この家に来た初日も由実と共に俺が起きるまで食事を我慢していた椿の事だ、今日も寝ている俺を気にして食事を取っていないかもしれない。
だが、この時間に起こすのもそれはそれで躊躇われる。結局、気持ち良く眠れているならそれでいいだろうと判断し、ゆっくりとドアを開けて部屋を出た。
「ん……」
廊下の電気をつけると、瞼が光に反応して痙攣する。副会長との戦闘での疲労はまだ目に残っているが、どうにか目を開けていられないというほどではなさそうだ。
「着替えは……めんどくさいからいいか」
制服のままで寝てしまっていたため、このままでも外に出る分には問題無い。この時間に制服でうろつくのは別の問題がある気もするが、今は着替えの手間の方が気にかかる。
「……行ってきまーす」
沈黙がやたらと濃いためか、どうしても独り言が口をつく。暗いのとか実は結構怖い。
「うっわ、寒っ」
クリスマス、正確にはクリスマスイブまであと三日、いや、十二時を回っているからあと二日か。何にせよこの季節、深夜の寒さは耐え難い。普段外に出る時間ではないので知らなかったが、冬服とは名ばかりの制服風情ではとても十分な装備とは言えなかった。
「これだけ寒いんだから雪の一つでも降ればいいのに」
この年になってもまだ、雪が降る事に対しては迷惑と思うより先に心が弾む。
ホワイトクリスマス、なんて聞いて喜べるほど恵まれた境遇にはいないが、雪が降ればいいという呟きは紛れもない本心だった。
「いや、本当に寒い。もうそこでいいか」
どうせ腹を満たしても眠れないだろう、と散歩がてら店を探すつもりだったが、とてもそんな余裕は無い。妥協して最寄りの牛丼屋に入る事にする。
「……あらっ、いない?」
自動ドアが開いた先、店内に人は一人しかいなかった。それも、店員ではなく客が窓際のテーブル席に一人。顔はあちらを向いていて見えないが、後ろ姿からは俺と同じくらいの年齢の女に見える。変わった女もいるものだ。
まぁ、客の事はどうでもいい、問題は店員だ。まさかいないはずもないし、この時間だからと奥に引っ込んで携帯でも弄っているのだろう。
「すいませーん!」
それなりの大声でレジ奥に呼びかける。
「はい、ただいま!」
意外にもこちらも若い女の声と共に、慌てたような足音がこちらに向かってくる。
「すいません、御注文ですか?」
現れたのは、長い髪が乱れて顔一面にかかったスタイルのいい女だった。この時間にバイトなどしてるという事は、少なくとも俺よりは年上だろう。髪の間から覗き見える顔立ちは意外に整っているが、その他が全く整っていない。
「はい、牛丼の大盛りを一つお願いします」
「牛丼の大盛りを一つ、と。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「はい、それで」
接客は特に変わったところはない。見た目で人を判断してはいけないのだ。
「ご注文を繰り返させていただきます。牛丼の大盛りを一つ、以上ですね」
「……はい、それで」
なぜか二回目のやりとり。前言は撤回しよう、こいつは見た目通りおかしい。
「では、牛丼の大盛りを一つでよろしいですね?」
「えっと、何、それは他にも何か頼めって事?」
流石に同じやりとりを三度やる心と腹の余裕は無い。空腹は心まで痩せ細らせる。
「いえ、牛丼の大盛り一つですね。わかりました」
三度の確認を終えてやっと理解したのか、大盛り一丁! と厨房へ叫ぶと、店員は力尽きたようにレジへと突っ伏した。どんだけ眠いんだ。
変人の店員のいるレジから離れると、再びがら空きの店内に視線を向け、普段一人では腰掛ける事のないテーブル席を選んで座る。
たった一人の先客も、同じような気分であのテーブル席を選んだのだろう。もしくは男と来ていたが、男の方はすでに帰ったとか。
そうだったら嫌だなー。だって、あれ謳歌だし。
「…………」
俺が大声を出したせいで、謳歌も間違いなくこちらに気付いている。ヘッドホンを耳に付けて聞こえなかったふりをしているが、こちらにちらちらと視線を送っているのを隠し切れていなかった。
思えば、今も同じ街に住んでいるはずであるにも関わらず、ここ数年の間に謳歌を偶然見かけるような事は一度もなかった。たまたま外に出た俺と違い、謳歌は主にこの時間帯に活動していたから、とすればその一応の理由にはなる。
「お待たせしました、牛丼大盛りになります」
会話もなく互いの様子を探り合っていると、先程の店員が牛丼を届けに来た。いつの間にか髪が整えられていて、今の彼女は見た目はまともな美人だ。
「こんな時間にすいませんね」
「いえ、こちらこそ先程はお見苦しい姿をお見せしてすいません」
一言挨拶をしただけのつもりだったが、なぜか店員はその場から離れようとしない。
「その、いつもはあんなことは無いんです。ただ、今日は少し疲れてまして」
どうやら会話を続けるつもりのようだった。いくら暇でもそれでいいのだろうか。
「まぁ、そういう時もありますよね」
「そうなんです! だって、教授が私のレポートを無くしたって言うんですよ! 一時間くらい探し回って、それで結局書き直させられて、ひどいですよね!」
何でもない相槌を口にすると、唐突に店員のテンションが上がった。知らねぇよ。客が店員の愚痴を聞く飲食店がどこにあるんだ。
「それはひどいですね」
「そうなんですよ! 私も流石に教授を責めたんですけど、そしたらあいつ逆ギレしてきて! ほんっと、結局は私の方が立場弱いんでどうしようも無いですし」
そうなんですよ! じゃねぇよ。俺のやる気の無い声が聞こえなかったのか。多分そろそろこいつ対面の席に座りだすぞ。
「そうですね」
「ですです! あんまり腹立つんで私、教授の家に電話して、あいつが実は教え子に手を出してるんだって言ってやったんです! ……まぁ、それは嘘なんですけど」
どっち? 教授が手を出してるのが嘘なの? それとも話自体が嘘なの? 前者なら相当やばい女で、後者ならまぁまぁやばい女だけど。
「その教授は結婚してるんですか?」
「いえ、それが……っ、そのっ、あの年で実家暮らしなんですよっ! 笑っちゃいますよね、四十過ぎてまだ実家暮らしって、そりゃあある意味不惑ですよ!」
やばい、なんか面白くなってきた。牛丼全然食ってないのに。深夜のテンションもなかなかバカにできない。
「私が電話したら、教授のお母さんっぽい人が出て、私が話し終わっても怒るどころか喜んでるんですよ。『あの子もやっといい人が見つかったのね』なんて言って。いや、生徒だし、しかもそれ嘘だし、って。もう、いたたまれなくなって切っちゃいましたよ」
「……っ、くっ」
ああ、やっぱりそっちが嘘だったのね。なんか似てるのかどうかもよくわかんないモノマネ挟んでくるし。
ぶっちぎりでやばい女は、向かいの席どころか俺の隣に座り込んできた。まさかこいつ酔ってるんじゃあるまいな。
「それにしても、お客さんいい人ですね。制服ですし高校生ですか? いいなー、私も高校生に戻りたいなー。先輩、って一回だけ呼んでくれませんか?」
「先輩、そろそろ牛丼食べたいんですけど」
「あー、もう、かわいい! 先輩が食べさせてあげちゃう!」
これは酔ってる。絶対酔ってる。気晴らしに飲めるだけ飲んで、その後バイトで居眠りして、目が覚めてもまだ酔ってる。酔った勢いであーん、ってされる。これは上手くやればあんあん的な展開まで持っていけるかもしれない。
「……いちゃついてんじゃねぇぞこらぁ!」
妄想と共に開いていた口が、怒号に反応して反射的に閉じる。箸噛んじゃったよ。
「あれ、謳歌? えっと、ひさしぶり」
「ひさしぶり、じゃない! 今気付いたみたいなふりするな! なに、それは当てつけなの? お前が無視するなら別に俺はこのアバズレでもいいんだぜ、みたいな!?」
「いや、私アバズレじゃないから」
めんどくさい事になってきた。でも、少しだけ面白い。
「って言うか、お客さん謳歌と知り合いだったの?」
「まぁ、そうですね。店員さんこそ、謳歌の先輩か何かですか?」
「いやぁ、まさか。私がバイトしてる時、この子いつも牛丼食べにくるんだもん。それで成り行きで仲良くなっちゃっただけだよ」
バイト先にただ食事に来るからという理由だけで、下の名前で呼び捨てるような関係になるものだろうか。きっと、この人はいつもこうなのだろう。俺への敬語も取れてるし。
「で、お客さんはやっぱり謳歌の彼氏? なんか謳歌怒ってるみたいだけど」
「いや、彼氏ではないと思います。直接会うのはかなりひさしぶりですし」
「では、ってのが怪しいなぁ。狙ってはいるって事?」
「見ての通り、謳歌は見た目はいいですから。でも、それを言えば店員さんもですね」
「もう、褒めても何も出ないぞ」
はっはっは、と二人で笑う。見た目『は』いいというのがポイントだったりするが、そこまで理解はされていないだろうし、その方がいい。
「私をダシに仲良くなるなー!」
謳歌は一人で怒る。
「ほら、早く食べないと牛丼冷めちゃうよ! 雅音さんも客の食事の邪魔しない!」
「邪魔なんてしてないって、むしろ手伝ってるじゃん。ほら、あーんって」
店員さん、改め雅音さん、はちょっと馴れ馴れしいか、ネームプレート曰く坂本さんの介護で牛丼を口に運ばれる。やっぱり、もうちょっと冷めている。
「宗耶はデレデレしない! このアバズレは大体誰にでもこんな感じなんだから、調子に乗って惚れたりするとショッキングな振られ方するよ!」
「謳歌、いつも私の事そんな目で見てたんだ……」
坂本さんが泣き真似をしている隙に自分で箸を掴み、冷めかけの牛丼を掻っ込む。
「そもそも、そんなに宗耶くんの事が好きなら、なんで気付かないふりしてたの?」
「それは……雅音さんには関係無いでしょ。あと、別に好きとかじゃないし……」
テンプレートなツンデレだった。俺の知っている謳歌はむしろデレデレな感じだった気もするが、第三者がいるとまた違うのだろうか。
「じゃあ、別に私が宗耶くんと仲良くしててもいいじゃん」
「いや、それは……宗耶が嫌がってるし」
「そう? ねぇ、宗耶くんは私に引っ付かれて嫌だった?」
できる事なら二人だけで終結して欲しい話だったが、こちらに振られてしまっては無視するわけにもいかない。牛肉と白米を飲み込んで二人に向き直る。
「さっきも言った通り、見た目はいい女性との触れ合いを嫌だとは思いませんけど」
「あはは。なんか引っかかるけど、嫌じゃないみたいだよ?」
流石に二回目はちょっと厳しいか。
「そ、そんなの、宗耶が押しに弱いだけだもん」
「なら、謳歌があーんしても宗耶くんは食べてくれるかな?」
どうも意外な展開に話が転びそうだ。この人は俺と謳歌をくっつけたいのか、それとも間に入って掻き乱したいのか、今一つ目的がわからない。まぁ、最初からこの人の行動など一ミリたりともわかってはいないのだが。
「いや、別に私はそんな事したくないし……」
言葉とは裏腹に、期待の籠った謳歌の眼差しがこちらに向けられる。なんだ、こいつも俺を餌付けしたいのか? 正直、俺はそれなりにされたい。
「どう? 宗耶くんは私と謳歌のどっちに食べさせて欲しい?」
そして、結局は自身を選択肢に含めた坂本さんの視線も俺へと向けられる。二人の視線は俺の目、口、手と移り、そしてそこに箸が無い事を確認した。
「すいません、もう食べ終わっちゃいました」
こうして、二人の女性による俺を巡る争いは、おそらく最も穏便な形で幕を閉じたのであった。
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