2-7

 魔王事件。

 その名を耳にした事のある多くの者は、それを一つの病院が丸々消え去った原因不明の怪事件として認識している。

 そんな事件が魔王の名を冠するようになったのは、事件跡に一人発見された少年がうわ言のように『魔王』の単語だけを呟いていたため、らしい。

 その少年とは他でもない遊馬宗耶、この俺であり、そして魔王とはおそらく佐久間謳歌の事。断言できないのは、そのような事を口走った記憶、正確には事件当時から少しの間の記憶が俺にはないからだ。

 ただ、覚えている事もある。

 病院、それも大病院と呼んで差し支えの無い規模の建造物が跡形もなく消え去ったという異常性と、俺の命名になるのだろう奇抜な名称。興味本位で語られるには十分過ぎる材料の揃った魔王事件は、だが俺の人生の中で間違いなく最悪の出来事でもあった。

 病院が消え去った。それはつまり、その場にいた医師や患者、見舞客といった人々の消失、あるいは死亡をも意味する。

 当時、あの場所にいた人間で生き残ったのは、事件の原因となった謳歌と、そして俺のたった二人。

 そして、病院と共に消えた大多数の被害者の中には、俺と謳歌、由実の共通の親友、四人の内の一人だった桐原勇奈も含まれていた。

「正確には、俺はあの事件で友人を一人失った。遺族のような、とはそういった意味だ」

 副会長も、おそらく俺達と同じなのだろう。

 だが、彼の見も知らぬ友人の消失は、今の今まで俺にとって欠片の意味もなかった。

 あの日、俺達には二つの変化が起きた。一つは、日に日に弱り続けていた謳歌が全快した事。もう一つは、勇奈がこの世界から消えた事。

 そして、俺にとってのあの事件はそれだけのものでしかなかった。謳歌の消し飛ばした病院の中で勇奈以外の大勢の被害者が消え去っていた事など、意識の端に留めすらしていなかったのだと今になって気付いてしまった。

「お前が魔王に最も近く、あれを大切に思っているのは知っている」

 だが、今、俺の目の前にはその大勢の被害者の内の一人であるという副会長がいる。

 その言葉の通り謳歌を大切に思っている俺、そしてかつてはそうであったはずの由実とは違い、副会長にとっての謳歌はただの加害者。抱いた感情は復讐心でしかない。

「それが気に喰わないというのは、ああ、たしかにエゴだろう」

 要するに、副会長が俺を嫌っていたのは、魔王事件を引き起こした元凶である佐久間謳歌の幼馴染であり、友人である俺への八つ当たりにも似た感情から。如何にして謳歌と魔王事件の関係を確信したのかはわからないが、それが純然たる事実である以上、副会長の怒りを削ぐ事はできない。

「しかし、あれを放置しておけないというのは、エゴだけでなく義務でもある。あれがまた、同じような悲劇を引き起こさないなどと誰が言える?」

 そして、俺が副会長を嫌っていた理由は、この男が謳歌への殺意を隠そうともしていなかったからだったのだ。それが、今になって初めてわかった。


「だから俺は負けるわけにはいかない、負けない、と。素晴らしい、ご立派ですね」


 だが、そんな事情がこの場において何の意味があるだろう。

「……何が言いたい?」

「冗談じゃない、知ったこっちゃない。こんなのふざけてる」

 副会長の復讐心も、俺が自分達しか眼中になかった事も、どちらが正しくどちらが間違っているのかなんて事も、どんな背景も戦いの結果を左右してはならない。

 俺は勝ったんだ。力で劣っていても、油断に付け込んだとしても、策を弄した結果としての勝利を手に入れたはずなんだ。いくら催眠が脳への干渉だからといって、精神論で打ち破られるような事が許されるわけがない。

「何を言おうと、お前にも魔王の討伐には付き合ってもらう。それが約束だ」

 だってこれでは、このまま終わるようでは――

「あんたは、勇者じゃない」

 ――まるで、副会長が正しく、主人公で、そして勇者みたいじゃないか。

「離せ、伏せろ、倒れろ、回れ!」

 畳み掛けるように口にした命令に、副会長の手の力がわずかに緩む。

「……なっ!」

 それだけでは俺が逃れるには足りない、そう思っていた副会長の口から驚愕の声。

「踊れ、走れ、投げろ、寝ろ、噛め、叫べ!」

 副会長の手を振り払い、思い付いた命令を片っ端から口にしながら懐に潜り込む。

「無駄な真似をっ!」

 残った右手が俺の側頭部へと襲い来る。だが、この位置なら俺の方が早い。

「痺れろッ……てのは意味あんのかな」

 突き出したスタンガンが副会長の首に接触するのとほぼ同時、左からの衝撃に頭が大きく揺らされ、思わずその場に膝をつく。

 だが、それだけ。スタンガンの電極は副会長の首に接触したまま離れない。

「催眠に抵抗するのに意識を向け過ぎて、頭はまともに回らなかったみたいですね」

 催眠で縛られていた体に電流まで流されては魔法剣士も形無しか、体の制御を完全に失った副会長が足元から倒れ込む。

「悪いけど、根性で勝てるのは勇者だけって相場が決まってるんで」

 俺にとっての勇者は、あの日消えてしまった勇奈一人だけだ。そして、それは俺も例外ではない。俺が副会長に勝てたのは、ひとえに俺の策が上手くいったからに過ぎない。

 曰く、自己催眠。

 催眠の魔眼、それが見られる事によって発動するなら、目にした者なら自分自身すらも催眠に掛ける事が可能なはず。副会長の眼鏡に反射した自分の目を見つめる事で、俺は自分に身体のリミッターを外す催眠を掛け、拘束に抗うだけの力を生んでいた。

 すでに疲れで上手く回らない頭ではその理屈がどこまで正しいのかわからないが、少なくとも俺はそうやって勝ったつもりであり、決して火事場の馬鹿力、ひいては正義の心などは勝因には成り得ないと言い張ってやる。

「……この期に及んで手加減なんかしなければ、俺が負けてたのかもしれませんけど」

 深く、深く、絶対に催眠が解けないように副会長の目を覗き込み、その瞼が閉じられるまで優に十秒を過ごした後、思いっきりその頭を突き飛ばす。

 なぜだか、副会長への嫌悪は以前よりは薄れていた。殺そうとまでは思えないが、それでも健闘をたたえてやるほど性格は良くない。

 もう俺の声も届かない副会長を背に、嫌いな男と至近距離で顔を突き合わせた気分の悪さ、副会長と自分への苛立ち、そして耐え難い疲労を唾と共に吐き捨てた。

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