6
月明かりがカーテンの隙間から様子を伺っていた。
朧に差した光の先の薄いところが、なめらかな流線型のきめ細やかな肌色を白く輝かせていた。くねりくねりと身を捩るの嬌態が実に扇情的であった。森閑とした黯然たる空間の底に臥い伏す二本の曲線の内に滴る蜜は、両手両足首にかけられた桎梏の擦れる痛みと、現前する底抜けの恐怖との間に逕庭する生存本能に裏打ちされた自己防衛の働きに相違ない。青年風の男は、口端に笑みを湛えた。
それに反して、女は泣いていた。涙でしとどになった頬をそっと拭ってやると、女は必死に首を振った。
女は思っていた。どうして私がこんなに酷い目に遭っているの? どうして誰も助けに来てくれないの? どうして私の目の前にいるこの男は、私の部屋に勝手知ったる顔で上がりこみ、あまつさえ私を裸に剥いて口を塞ぎロープで縛るの?
犯すの? 犯されるの? それとも殺すの? 殺されるの?
——いやだ、怖い、触らないで!
濡れた手のひらを凝然と見つめる男は、自身の怒張した性器に涙を塗りたくると、女に馬乗りになった。女は二度目の精一杯の抵抗をみせたが、なにやら鉄のように硬いモノで殴られると途端におとなしくなった。右側頭部から感じる鋭い痛みのあと、じわり暖かな感覚が追ってきた。力強く頭を押さえつけられ、頬がなまぬるいフローリングの床にはりついた。粗略に投げ捨てられたスーツが遠くにあった。視線を手前に引くと、飛沫があった。
血だ。
床に点々と飛び散った小さな血だまりを見た。女は頭が真っ白になった。
——どうしてこうなったのだろう。
仕事を終えて家路につく頃には、すでに八時をまわっていた。いつものようにビニール袋に入ったコンビニ弁当を提げて帰宅すると、背後から襲われた。ドアを開けて間もなくのことだった。遮二無二逃げ出そうと試みたけれど、男はいっかな女を離そうとはしなかった。信じられないくらいの膂力の差を感じたのだ。男は「これを咥えてろ」と言い、女の口に布を押し込んだ。そして半ば引き摺られるような形で短い廊下を行き、真っ暗なリビングにて剥かれた。背中にまわされた手首に手際よくロープが巻かれる。足首も同じ要領である。
それからはされるがままだった。男の荒い息遣いを耳元に感じるけれど、特に何も感じない。好きにすればいい。もういっそ、殺せばいい——そう思った。
かかる間に、男の或る気配が鬱勃と湧き上がってくるのを予断した。のべつまくなしの抽送の勢いは、いよいよ激しくなる。女は覚悟を決めた。しかし、筆舌に尽くしがたい苦衷に附す男に対する厭悪の念は、卒爾に彼女の裡の女丈夫を発露させ、怒りにわななきながら男を睨めつけた。
しかし銃口である。
無機質にぽっかりと空いた黒い穴と目が合う。
「え」
女丈夫はたちまち失せた。引鉄に指をかけている。私を撃つ気だ、と女は思った。
すると情動に憑かれた男は、陶然とした面差しで滔々と語りはじめた。
「その顔が見たかったんだよお。オレは死の淵にある人間が最後に見せる、とびきり恨めしい顔が憮然とした様になるのがたまらなく大好きなんだ。——じゃないと満足にイけないからな、それに興奮しない。いつからこんなクセがついたんだっけなあ......まあ、いいか。それじゃあちょっと、オレのために死んでくれや」
銃口が女のこめかみに宛てがわれる。氷のような刺すような感覚が全身に伝搬するのに、時間は一寸とかからなかった。女は土下座に近い格好で臀部を突き出し、顔だけを横に向けて震えている。腹の中の異物にさえ縋りつきたい思いだった。内奥の号哭に近い嘆きが、死の跫音のもたらす寒気から逃れようと一心不乱だった。
女は目を瞑り、唾液の十分に浸みた布を噛み締めた。痛いくらい眉間に力を込める。もはや恐れの対象は男でも拳銃でも死でもなく、死を待つ時間そのものに推移しているのだった。
その最中、ドアホンの軽快なメロディが聞こえたのは気のせいだろうか。幻聴だろうか。否、幻聴ではない。男の動きがピタリと止んだことが、事実であることを如実に示していた。
女に呼吸のリズムが戻りつつあった。
「ピンポーン」という聞くに倦んだ甚だ場違いな音楽が、図らずも女の心に微かな安らぎと希望を与えたのである。女は祈る気持ちで、壁にかかる青白い光を放つ画面に目を投げた。この五階建てのアパートのドアホンは各戸玄関の左脇に設置されており、カメラを通して外の映像を液晶画面に映し出す仕組みだ。そこに来訪者が映るはずだ。
男は下着とジーンズを履き直し、「おとなしくしていろ」と言って女から離れると、テレビゲームにかじりつく子供のように画面に顔を寄せた。女は某の来訪者を主題に思惟を巡らせた。
(誰だろう。いや、誰でもいい......もう誰でもいいから......神様だろうと悪魔だろうと、なんでも構わないから)
——私を助けて。
「おい」
男が肩越しに女を見て言った。
「お前、仮装パーティの趣味でもあるのか?」
女は鳩が豆鉄砲を食らったような、憮然とした表情で男を仰ぎ見た。
問われている意味がわからなかった。
仮装パーティ? いったい、なんのことだろう。尤も、そのような怪しげな趣味は持っていないはずだ。これという趣味はないけれど、強いて言うなら映画を見たり、好きなバンドのライブに行くくらいだ。彼は画面越しに何を見たのだろうか。よほど胡乱な風采をした、それこそハロウィンの定番である魔女やジャックオランタンがお菓子を求めて訪ねて来たのだろうか。季節外れもいいところだ。今は梅雨の時節であり、矢継ぎ早に式を挙げるアベックが正装に身を包み、新しいネクタイなどをプレゼントされた親父たちが意気揚々と出勤する季節であり、決して西洋と日本独自の文化価値が混然一体となったキャラクターや、怪物に扮した人間が都内を跳梁跋扈するの候ではない。
女は頭を振った。
難色を示した男が画面に視線を戻すと、またぞろ音楽が鳴った、と間髪入れずドアがノックされた。「コンコン」と生やさしい音ではなく、「ドンドン」と怒りに任せるような、人を威嚇するような音だった。
すると、男は玄関の方へ足を向ける。銃を構えている。戸外にいる何者かを始末するつもりだろうか、玄関の扉の内側に体の側面をピタリと寄せ、あちらの出方を伺っている。ドアノブにそっと手をかけた。
鍵はかかっていないはずなので、扉は勢い良く風を切って開かれた。清澄な夜気が激浪のごとく部屋に充満した濁った空気を侵食した。次いで、夥しい銃口と悍ましい獣の頭部の整列が、女の望みの一切を断ち切った。
五頭の山羊。しかし、そのとき女には、それらがバフォメットの姿に見えた。黒のスーツがより一層悪魔らしさを強めていた。四角い両の瞳は湿り気を帯びているようで、怪しくてらてらと光っていた。
悪魔と悪魔が対峙している。女の瞳孔は一寸の挙動も見逃すまいと拡大し、この神秘さえ憶える一種儀式的な邂逅の向背が、角膜の干魃を感じえぬほどに忘我させた。しかし、銃声の炸裂が耳を搏ったことにようやく気がついたのは、男が
男は山羊の背後に立っている。五頭の山羊たちは右往左往して、突然に消えた男の在り処を探している。
「どこ見てんだ、こっちだ」
男は引鉄を引いた。
リボルバーが回転し、澄ました筒先から放たれし銃弾は純白の疑革を穿った。
——ひとつ。
コルト・キングコブラはダブルアクションという、引鉄を引くと撃鉄が連動して動くので、即座の撃発が可能である。つまり、一発撃つごとに手動で撃鉄を起こさなければならないシングルアクションの手間が要らないのである。
次弾はすでに準備万端だ。男は続けざまに、今まさに振り返らんとする二体を仕留めた。あたかも無造作に放られた人形のごとく、腕や足を投げ出して地に伏した。
——みっつ。
残る二体の悪魔は、ようよう銃を構えんとする段階だった。遅い。男には彼らの一挙手一投足が、象のパレードのように緩慢として見えた。コルト・キングコブラの毒牙は的確にどちらの眉間をも捉えた。毒の浸透を待つ必要はない。崩れ落ちる音。森閑とした廊下にバフォメットの頭蓋が五つ並んだ。
「黒ミサにもってこいだな」
男は足先で山羊の頭をひとつ転がして言った。そしてリボルバーを一瞥すると、
開け放たれた玄関の先——部屋の奥に縮こまっている女を見据えた。
コルトキング・コブラの装弾数は最大で六発である。男は我が子の寝顔を確かめるような調子で、女の元へ歩を進めた。後頭部に銃口をあてた。女はビクンと体を揺らせた。
「いけねえ、いけねえ、危うく忘れるところだった。さて、君は彼らに感謝をしなくてはならん。彼らのおかげで寿命が少しだけ伸びたんだからな」
喋るに連れて、男の若々しい声は嗄れた声になってゆく。精悍な青年のかんばせはやがて頬が垂れ、多くの皺やシミの刻まれた、哀愁に満ちた海千山千の老人のように変貌した。
「オレも君に感謝をしないといかんなあ。おかげで思い出したんだ。己が何者であったか、そして彼らが何者であるかを。うん、ここへ来て良かった。そうだ、君には何かお礼をしなくてはならない。何がいい?」
女は頭をもたげた。必死に訴えた。しかし口の中にある布が、彼女の救済を冀う言葉をすべて呻き声に変えてしまっていた。男は首を傾げた。
「すまねえが、よく聞き取れないみたいだ。急に耳が遠くなってしまったようでな。しかも体は重いわ視力も悪いときたもんだ。そんな俺にできることといや、この一発余らせた銃弾をくれてやることくらいさ。まあ、これで勘弁してくれ」
女の返答を待たず、男は鉛玉を打ち込んだ。
まるで身動きひとつしないギリシャ彫刻のごとき死体の顔が、赤黒い水たまりの中を覗き込んでいる。かそけき月光がそれをスポットライトのように照らし出し、しばし男はかくのごとき様相に耽溺していた。
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