5
奎吾たちは車内に飛び込んだ。
キーを差し込み、エンジンをかけた。
シートベルトを締め、ミラーの角度を微調整していたとき、後部座席の暗がりに何かが蠢いたのを逃さなかった。ただちに車内灯を灯し、闇に誰何した。
「誰だ」
先頃の一件が尾を引いているのか、翔の声には他者を怯懦せしむるほどの迫力があった。ややあって、それは暗闇から恐る恐るといった按配に正体を現した。
少女だった。長い黒髪は乱れており、竦然とした表情の大半を影に落とし、深緑色のワンピースは煤けてみすぼらしい。どだい浮浪児が寓居を求めて忍び込んだに相違ない。
それにつけても、いつの間に潜り込んだのだろうか。
眉根を寄せて少女を見る奎吾とは裏腹に、翔の表情は当惑の色を見せた。まさか相手が少女だとは思わなかったのだろうか、二の句が継げないまままんじりと浮浪児らしきそれを閲していた。
「......助けて」
少女が言葉を発した。あるかなきかの声だった。
「どうして?」
奎吾が訊いた。意地悪な質問だった。
もしか彼女が車内から件の一部始終を目撃していたとするならば、情報の漏洩を阻止するためにこのあえかなる命を摘むのを厭わしく思わない。こと奎吾の能力が世人に知られることは職務上避けなければならない問題のひとつであり、そこに他意があろうとなかろうと、可及的速やかに始末することが金科玉条である。
少女は上目遣いに奎吾を見る。
「追いかけられてるの」
「誰に?」
奎吾は尋ねた。少女は宛転たる眉を八の字にさせた。
「誰......わかんない」
「それは悪い人?」
「......たぶん。でも、わかんない」
「男の人? それとも女の人?」
「ごめんなさい。それもよくわからないの」
奎吾は頭を掻いた。どうしたものか。
子供の陳述には、虚偽と空想と事実の混在によって真実が霞んで見えにくくなるケースがあり、当人にとって不利な状況であればあるほど虚偽の割合は比例して高くなる。後者は大人にも当て嵌まる場合があるが、こと子供に於いてそれは顕著に見て取れる。
ゆえに窮地といえようこの状況を便宜的に打破するべく、彼女が曖昧な返答をしていると言えなくもない。頑是ないを装い、庇護欲に付け入る算段やもしれぬ。助けを求めたのは、窮鳥懐に入れば猟師も殺さずを実地に行っているのだろう。
しかし、それはさほど重要ではないのだ。さしあたっては、この少女が我々が何者であるかを了知しているか否かである——
すると奎吾の心情を忖度したのか、翔が直截に問うた。
「見たのか」
「え?」
「あそこのハンバーガー屋で起きたことだ。正直に答えてくれ、君はアレを見たのか」
少女はハッとした表情をみせた後、口を緘して俯いた。
それはYESと言うも同然だった。
「殺るぞ、いいな」
言うや奎吾は、指呼の間にいる少女の頭部を指の間に収めた。少女は奎吾を見上げた。
ただ殺すだけなら、頭部のみを潰せばいい。この狭い空間では全身を捉えることができないから、どこか人目につかない場所で改めて圧搾してやればいいだろう。
可哀想だが仕方がない。おそらく痛みを感じる間もなく逝けるはずだ。だから、頼むから、そこを動いてくれるなよ......
「ちょっと待って! 聞いて!」
少女が怯えた顔で言う。
奎吾は動じない。
「待たない。君は俺の能力を見たんだ、生かしてはおけない」
「いいから! 早く、早く車を出して!」
「すぐに出すよ。君を静かにしてからね」
「お願い! 来てるの! 早くしないと、ねえ、お願い! 逃げて!」
少女は涙声で訴える。
奎吾は眼を眇めた。血流の速度がはなはだしくなり、暗雲が脳裡に立ち込める。
本日三度目の圧搾だ。しかも、二回目は五人同時だったから負担が激しい。頭が割れそうになる。眼底をハンマーで何度も叩かれているような痛みだ。
これは明日の仕事は無理そうだ、と思いながら指先に力を込めた刹那、翔の手が奎吾の手首を掴んで引っ張った。奎吾は気色ばんだ。
「何をする!」
「待て、奎吾。様子がおかしい」
「当たり前だ! これから殺されようという人間が、おかしくなっても不思議じゃあない」
「そうじゃない」
「ならどうした。まさか、その娘と顔見知りってわけじゃないよな?」
翔は奎吾を離すと、リアガラスの向こうを顎で示した。
奎吾は眼を細めて見遣る。夜に何か白い塊が浮き上がり、それが人魂のごとく踊っているかのように見えた。小刻みに左右に振れながら、こちらに向かって来る。
——まさか。
徐々に姿が明瞭としてきた。人間ではない、しかし人の形をしているそれは、街灯の淡い丸い光に染めた瞬間、あの忌むべき奇態の全貌を露わにした。
山羊の群れだった。判で押したように黒のスーツを召した、頭部のみが雌山羊の顔をしているおよそ二十人の衣冠禽獣たちが雲霞のごとく押し寄せてくるのを視認するや、奎吾は慣性の法則の洗礼を受けた。シートに身体がめり込み、少女は悲鳴をあげながら後部座席の下に転がり込んだ。
エンジンの重厚な唸りとタイヤの叫声が闇に轟き、夜の帳をハイビームが引裂いてゆく。猛然と駆るクラウンの漆黒のボディを、間断ない銃弾の嵐が追走する。鉄同士が弾ける音や、ガラスの砕ける音が後方から聞こえくる。
国道へ車を飛び込ませると、翔は西の方角へハンドルを切った。
しばらく走った。少女が座席に腰掛け、窓越しの歩道の往来をぼんやりと眺めるくらい落ち着いた頃に、翔は安否を問うた。
「お前ら、弾は当たってねえな?」
奎吾と少女はおっつかっつに「大丈夫」と答えた。幸いにも車内に弾丸が飛び込むや、割れたガラスの破片が刺さることはなかった。では、あのとき割れたのは左右のテールランプのどちらかだろう。もしくは両方ともである。
車が止まった。赤だ。奎吾はバックミラーに映る少女を一瞥して言った。
「これからどうする」
翔はハンドルの上を指で叩いた。
「とりあえず、ホテルに向かう。そこで彼女に話を聞こう」
ダーティ・ドッグは巣を持たない。さらに身元を特定されるリスクを下げるため、臥所とするホテルを毎日変えるから、一つ所に留まることはない。
ふとバックミラーの少女が横目にこちらを見た。しかし何も言わず、すぐにまた窓の外の景色に戻った。
「彼女はあの山羊に追われているみたいだからな。何か知っているかもしれない」
「......あいつらは何者なんだ。一般人を問答無用に鏖殺するなんて、カタギのやることじゃあない」
異常だ。
翔は軽く頷いた。
「あそこを襲撃したってことは、彼女が隠れていると読んだのかね」
「皆殺しにしてからゆっくり探すつもりだったのか......」
「もしくは、彼女を始末することが奴らの目的か」
翔はアクセルを踏んだ。信号の青い光が彼の顔を渡った。
「しかし妙だな」
奎吾はシートに深く腰を沈めた。
「いくらなんでも大仰すぎると思わないか? それに、ものの数秒でおよそ三十人の人間の息を止めるほどの銃の腕前、どだい素人の為せる技じゃあない。かと思えば、やることは辺国の倒錯した贋作テロリストのそれと変わらない。俺たちが奴らの存在を認知していなかったことも妙だ」
「どっかでこっそり訓練を積んでいた、新参気鋭のテロ集団。あるいは、いたいけな少女を寄ってたかって追い回す、大逆無道の変態集団」
歌うように言う翔。奎吾はことさら顔を歪めてみせた。
「ふざけているのか?」
「まさか、大真面目だ。可能性を模索しているんだよ」
「見当はついたかい?」
「いや、まったく」
奎吾はあきれた風な素振りで首を振った。
「ただ——」
ふととり憑かれたように、翔の表情が真剣みを帯びた。
「どうしても奴らがアレと無関係なんて、到底思えねえんだ」
ハンドルを強く握る「ぎゅっ」という音が、車内の張ったような空気によく響いた。奎吾は生唾を飲んだ。
やはり。
翔はくだんに確信めいたものを感じているらしい。可能性は高い。木の葉を隠すなら森に隠せと言うべくんば、かの殺人鬼が山羊に紛れている公算は大だ。凶器の一致も不自然だ。けだし彼の彼が今まさに想い描く思想は危険である。
——必ずや殺してやる。
心なしかスピードが増したように感じられた。焦慮の呵責の悪魔が、彼のアクセルに乗せた足の上にどっかり座り込み、おぶられた雪女のごとくだんだんと重さを増してゆく......。スピードメーターを見る。しかし針は六十と七十の間を緩慢に上下しているばかりであった。
奎吾は短く鼻を鳴らすと、粗暴にポケットから煙草の箱を取り出した。
「煙草、吸っていいか?」
「子供がいるからダメだ」
奎吾は舌打ちをして、煙草の箱をポケットに戻した。
「こういうコトはきっちりしてるよな」
「エチケットだからな」
いつとなく車内の緊張は取り除かれていた。翔が呵々と笑った。
つられて、バックミラーの少女の横顔が微笑んだ。
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