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氷熊奎吾は待っていた。
窓際のボックス席にひとり寡黙に珈琲を啜り、通りの往来を漫然と目で追いかけている。
赤や黄や青や紫や緑など、陸離として放つ色とりどりの光が夜の底を照らしている。人々はなにかなしに規則正しく列を成し、めいめいそれがルールであるかのように、俯いた顔を青白く光らせていた。
やがて信号が青に変わると、彼らは一糸乱れぬ行進を始める。集団行動交差のごとく、間隙を埋めるように行き違う様は、一種虚礼めいた観がある。
なんだか奇妙な心持ちで眺めていると、魔法瓶を持ったウェイトレスがおかわりの催促にやってきた。マグカップの中には三分の一ほど残っていたけれど、継ぎ足してもらうことにした。会釈すると、ウェイトレスは莞爾と笑った。
店内に漂う挽いた珈琲豆の香りや歓談の声は、揺曳するクラシックの旋律と諧和して心地よい。I都の中心から南西に少し離れたところにある、雑居ビルの一階に設えた純喫茶『朱鳥』は、最寄駅より徒歩五分なおかつ交差点に面している好立地にもかかわらず、客入りはそれほど多くない。ゆえに、気を落ち着けて仕事のできるこの喫茶店を利用することがしばしばあった。奎吾は腕時計を見やる。
午後八時。と、胸ポケットのスマートフォンが振動した。
ディスプレイには『ターゲット到着まで三十秒前』というメッセージがあった。
奎吾は深く息を吐き出すと、再び往来に目を投げた。
今宵の
信号が赤に変わる。人々は端然と並び、取り出したるスマートフォンのディスプレイを覗き込む。その最後列に殺害対象者の姿を認めた。左から三番目。じめじめとした湿気と熱気の余韻は夜気に溶けてなお彼を苦しめるのか、忙しなくハンカチで顔や首元の汗を拭っていた。
そして彼も
今だ。
奎吾は右手の人差し指の腹と親指の腹で、窓越しに映る対象の頭から靴までを挟むように捉えた。眇めた左目に意識を集中させる。心臓が早鐘を打ちはじめ、血流が凄まじい速さで駆け巡る感覚、脳裡に暗雲が立ち込め、迅雷が体の節々で弾ける。
そのまま指の腹同士をくっつけた瞬間、殺害対象者はひと粒のミクロの粒子となって、夜風に拐われた。
彼がその場から忽然と姿を消したことに気がつく者は、誰ひとりとしていなかった。
信号が青に変わる。雑踏は何事もなく行進を始める。
奎吾は再び胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、『終わった』というメッセージを岬翔に送信した。数秒後、『お疲れさん。いつもの場所で待つ』が返ってきた。
奎吾は残りの珈琲をひと息に飲み干すと、伝票を手に席を立った。
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