memories:赤百合



「暫くここに来れなくなりますけど、お花の水やりしっかりしてくださいね」

 持ち帰った仕事の詰まったPCと睨めっこしつつ、珈琲片手に煮詰まっていた私に佑貴はそう声を掛けた。

 暦の上では穏やかな時期も過ぎ、これから蒸し暑い季節が近づこうとしていた。

「あれ、もうテスト期間とかだっけ」

 もう記憶もあやふやになってきた学生時代を思い出しながらそう尋ねる私に

「そうですね。学生も色々大変なんです」

 そういって何処かはぐらかすように佑貴は苦笑した。

「次来たときに花の数が減ってる……なんていうのはやめてくださいね。そんな弱い子に育てている覚えはないですが、たまにで良いんで、ほんとたまにでいいので水やりだけは絶対忘れないでくださいよ」

 よっぽど信用がないのだろう。玄関のドアを閉める直前まで佑貴は私に小うるさく忠告をして去っていった。ちょっとした嵐が去っていったみたいだ。

 玄関に鍵をかけ伸びをしながら振り返る部屋は何処か物足りなさを感じさせる。

「暫くって言う必要あったのか?」

 思わず口を吐いた自分の呟きにハッとする。一瞬頭を過った想いを振り払い苦笑しながら、馬鹿馬鹿しいと中々終わりそうもない仕事へと戻ることにした。

 それから有言通り、佑貴は私の家を訪れ無くなった。もうどれ程過ぎただろう。

 1週間、3週間、ひと月───暫くってどれくらいをさすのだろう。

 部屋を埋め尽くさんばかりの花々に水をやりながらふと思う。

 この家はこんなにも静かだったろうか。

 ───いや、静かだったはずだ。

 私自身賑やかしいのは嫌いだし、たとえ誰かがいようともそう口数も多く過ごしていなかったはずだ。ただ、今まで近くに居たはずの誰かがいないというだけだ。それだけのはずだ。

 はぁ、と小さく息を吐くと、「気分転換でもしよう」誰にいうわけでもなくそう小さく呟いて財布だけを入れた鞄を片手に家を後にした。

 特に目的も持たず、街をふら付く。

 仕事仕事ばかりで日々慌ただしく過ごして、休日は同僚と出掛けたり、家に訪ねてくる佑貴と過ごしたり。そういえばこういった1人の時間を最近は持っていなかった気がする。

 目についた雑貨屋を覗いてみたり、匂いに誘われるままアンティーク調のおしゃれな喫茶店に入ってみたり……、別にこういうのも悪くないじゃないか。

 気の向くまま過ごし、ちょっと休憩がてらに目についた公園にふらっと向かってみる。そこの木製のベンチに腰掛け、背もたれに身を預けると青空を仰ぎ見る。

 真っ青な青が広がっていた。

「綺麗だな」

 自然と漏れた言葉は本心なのに何か物足りなさを感じて静かに目を閉じた。

 遊具の軋む音、子ども達の笑い声、私を通り過ぎて行く柔らかな風。

 微睡みに沈んでいきそうな私の鼻を不意に優しい甘い匂いが擽った。

 なんだろうと風を辿るように開いたその視線を揺蕩わせれば、1軒の花屋があった。

 あれ、こんなところに花屋なんてあったんだ。引き寄せられるようにゆっくりとした足取りで店の門をくぐる。

「いらっしゃいませ」

 朗らかな笑みを浮かべた少年とも青年とも形容しがたい若い男性が出迎える。私は小さく会釈をして店内をゆっくりと見て回ることにした。

 知っている花もあれば、初めて見るようなものもある。決して大きな店舗とはいえないがその割に取り扱っている花の種類や量は多く、かといって圧迫感のあるような陳列でもない。ちょっとした不思議の世界にでも入り込んでしまったような気分になる。

 浮つく心で尚足を進めれば、一際存在感を醸し出している花が目に留まった。腰を屈めその花を良く見やる。

「百合、か……」

 赤とまでは言えないピンク寄りのハッキリとした色彩の百合の花がやけに目を惹く。

「綺麗ですよね」

 その声に視線を移せば、先程の男性が私と同じ様に腰を屈め、花を見つめていた。

 気を抜いていたせいもあってその不意打ちに必要以上に身体を仰け反らせれば、男性はくすりと声を漏らし、始めのような朗らかな笑みを浮かべた。

「贈り物ですか?」

 そういうつもりはなかったが、なんだか引くに引けない彼の雰囲気に「いえ、職場に少し花でもあれば華やかになるかな、と」と小さく漏らす。

「ならメインはピンクのこの子にするとして、匂いが気になる方もいるでしょうから百合は小さめのものを1本だけにしてあとは同系色の他の花を使ったボックスアレンジメントとかどうでしょう。吸水性のスポンジに花を挿すので、花瓶とか必要ないしこのまま飾って頂けますよ」

 矢継ぎ早な説明にぐうの音も出ないまま私は苦笑いする他なかった。

 店を後にする頃には私の手には予定外の花の入った袋が握られていた。

 袋の中の綺麗にアレンジメントされた花を見やり小さく息を吐くと、ま、いいかと歩みを進める。先程の男性に伝えた通り明日会社にでも持って行こう。私がこんなものを持って行くなんて意外だと社内がどよめく様が容易に想像できて少し笑える。

 そうやって、手元の花から視線を前に向けた時だった。

 少し先の方を、見知った少年が横切っていく。

「佑貴君……」

 漏れたその名前が呪縛のように私の身体の動きを止めた。

 視線の先には佑貴と、同じ歳くらいの可愛らしい少女が並んで楽しそうに歩いていた。

 あぁ、そうだよね。

 こうやって目の当たりにするとよく分かる。

 やっぱり歳が近い子の方が彼にはお似合いだと思う。

 彼の気持ちなど、一時の気の迷い。やはりそうだったのだ。

 暫く来れないってこういうことか。ならはっきりそういえばよかったじゃないか。

 踵を返しかけた私の視線に、佑貴の視線が……重なった。

 どうして君がそんな顔するんだい。

 眼鏡越しでもよくみえる程、目を見開き、彼の顔は少し青ざめたように見えた。まるでこの世の終わりでも告げられたような、〝絶望〟陳腐だがそんな言葉を体現したような彼の姿に私は背を向ける。

「お姉さん!」

 そう叫ぶ佑貴の声が聞こえた気がしたけど、私は振り向くことなく足を進めた。雑踏に紛れるように、足早に。一刻も早くこの場を去りたかった。

 でも、雑踏の中、力強く後ろ手をひかれた。瞬間、淡く心の奥に生まれた柔らかい温もりは、しかし、振り向いた瞬間脆くも崩れ去った。

「お姉さん!」

 そう私を呼んだのは、あのとき佑貴の隣を歩いていた少女だった。

「違うんです! 誤解しないでください。あの、初めまして。私、夏目衣鶴っていいます。弟さんとお付き合いさせて頂いてます。だから佑貴君とはただの友達なんです。今日も陸君へのプレゼントを選ぶために付き合ってもらっていただけなんです」

 たどたどしく、時にどもりながら、それでも懸命に彼女は私に言葉を投げかけ続けた。

 零れ落ちそうなほど大きな目を更に大きく見開き潤ませた瞳が、真っすぐ私を見つめる。

「……ありがとう。優しいわね。わざわざ私のこと追いかけてきてくれるなんて」

 自分よりも小さなその少女の頭に手を置き、そっと撫でる。

「だけど陸にこんな可愛い彼女がいたなんて知らなかったわ。あんな弟で大変だろうけどこれからも陸のことよろしくね、衣鶴ちゃん」

 そう、微笑んで見せる。

 でもごめんね。身勝手な我儘かもしれないけど、これは貴女の口から聞きたくはなかったかな。

 だから、

「ねぇ、佑貴君に伝えて。───もう、うちには来ないで、って」

 今の私は上手く微笑んでいるだろうか。

 あぁ、こんな気持ち知りたくもなかった。

 どうか。───どうか、私を、もう好きにならないで。



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