5. 止まった時間
その夜、逗留先の奥の部屋でチェシャが分厚い本を開き、あちこちめくっては内容を確認していました。それはチェシャが旅するとき逗留先から逗留先へと送らせているもので
「旅を続けるため、男装してチェシャの作った香水を使ってたんだ」
「それが裏目に出たのですね」
はい、犬避けの香水の他に、自身が女性であることを悟らせない香水や人ごみに紛れると途端に姿を見失ってしまう、そんな不思議な香水を調合しては使っていたのです。
「なら今度は私だと判らない香水を作ればいい」
アルトゥール様の仮説はこうです。ジネディーヌが自分に見向きもしないのは従妹で意に添わぬ許婚だから。しかも一昨年彼がアフランシにふらりと戻ってきたときはほとんど顔を合わせていない。加えて普段は男装し男と見間違う香水をつけているのだから目に留め気にかけることもなかったのだ。
チェシャは頁をあちこちめくっては、チェシャご自慢のノートに書き込んでいましたが、ふとめくる手を止めました。
「材料は揃っていますが……」
その夜、裏庭のプランターに芽生えた苗の様子をアルトゥール様がしゃがんで観察していました。
チェシャが植えたその種をお礼として置いていくのだそうです。そうやって新たな種が広まっていく訳です。
おもむろにアルトゥール様は口ずさみはじめました。
My young love said to me:
"My father won't mind.
And my mother won't cite you
for your lack of kind."
Then she drew closer to me
and this she did say:
"It will not be long, long, love,
'till our wedding day."
She stepped away from me,
and She Moved Through the Fair.
And fondly I watched her
move here and move there.
And then she went homeward
with one star awake
As the swan in the evening, the evening
moves over the lake.
Last night she came to me;
she came softly in.
So softly she came
that her feet made no din
And she laid her hand on me,
and this she did say:
"It will not be long, long, love,
'till our wedding day."
透き通るような深い哀しみを湛えたその歌は
――好きなものは好きなんだ。
哀しい歌と共に心の澱が流れ去ってしまえばいい、アルトゥール様はそう願いを込めて口ずさんだのです。
灯りを消すと、アルトゥール様はベッドで横になりました。
しばらく無言が続いた後、
「……なあ、チェシャ」
アルトゥール様がおもむろに切りだしました。
「何でしょう?」
「どうしてジネディーヌは姉さんの夢をみることがないんだろう?」
「さあ。でも、いつもいつも同じ夢だったそうです」
「どんな?」
「夢の中、誰かを探しているけど、その人だけ見つからない、と」
夢見る場所はいつもアフランシの庭園――そこはジネディーヌ様にとって思い出の場所だったそうです。
顔見知りの娘たちが微笑みかけてくる、でもわき目も振らずレオノーレ様を探すのですが、そこで決まって夢は覚めてしまうのだそうでした。
「親しい間柄だったのに、そんなことってあるんだろうか?」
アルトゥール様にとってジネディーヌ様は兄のような存在でしたし、ジネディーヌ様とレオノーレ様――彼女の方が二つ年上でした――彼らも姉弟のように親しかったそうです。
「人の心は複雑ですから」
そうかもしれません。
「でも、ジネディーヌの言う通り、あのとき嫁に行かなければ産褥の床で死ぬこともなかった」
レオノーレ様が亡くなった後、ジネディーヌ様は自分が年上だったらと漏らしたことが一度ならずあったそうです。小さなジョセフィンだった当時のアルトゥール様は意味も分からず頷いていたそうですが、今にして思えば勇気のない自分を責めていたのかもしれません。
「きっと運命を受け入れることができず、心の奥底の時間が止まったままもがき苦しんでいるのでしょう」
しみじみとしたチェシャの口ぶりに、
「いや、あいつは骨の髄まで女好きだ」
そう返されてチェシャはくすりと笑いました。はい、ジネディーヌ様のことですから例えレオノーレ様を娶ってもそれだけでは飽き足らず自由気ままな人生を送り新妻をやきもきさせたことでしょう。
「時間が止まったという意味では、私もジネディーヌ様も一緒です」
不可思議なシンパシーを感じてか、チェシャはアルトゥール様の従者としてジネディーヌ様を追う旅に出たのでしょう。
またしばらく無言が続きました。
「どうなさいます? 本当に薬を調合しますか? 荷物をまとめなくてよいですか?」
チェシャがそっと尋ねると、
「後一度、一度だけ賭けてみよう」
アルトゥール様はそう答えると眼を閉じました。
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