2. 千人斬り達成
既に空は白みはじめていました。
「毎度毎度のこととはいえ、見張りはわびしいわな」
門前で独り頬杖をついている小柄で固太りな赤鼻の男はワンチョペです。
何か察知したのか、ジネディーヌ様はワンチョペに門前で見張るよう突如言いつけたのです。
はい、屋敷にいる女性はサナメ婦人にキナミ嬢とアオナの三人。我ら男衆も三人。ちょうどよいではないかと浮かれていたところに冷や水を浴びせられたものですから、すっかりしおれてしまっていたのでした。
「見つけたぞ!」
聞き覚えのある声がしました。
ワンチョペは指を立て唇に当てると、アルトゥール様を制しました。
「しっ。静かに」
「ははぁ、この屋敷だな」
アルトゥール様は睨みつけ、ずんと足を踏み出しました。今にも突入せんという勢いです。
「もう遅いですぜ。アルトゥールの旦那」
勢いよく踏み込みかけたアルトゥール様でしたが、から足を踏んでしまいつんのめりそうになりました。
よく見ると、灯りの消えた窓だけがいくつも並んでいます。ジネディーヌはどこに?
「今ごろ千人斬り達成でさあ」
「!」
衝撃でアルトゥール様の顔がへちゃむくれに歪みました。それがようやく収まると肩を落としがっくりうなだれ、しばらくの間無言でしたが、
「千人。あ、そう……」
無関心を装いつつ、くるりと踵を返しました。
「今日は乱入しないので?」
「もう疲れた……」
動揺を隠しきれるものではなく、鉛の固まりを足に何個もぶら下げたようにトボトボと重い足取りでアルトゥール様は暗い夜道を去っていきました。
「敗北感が漂ってまさあ」
見送るのはワンチョペ独りです。
「しかし今更一人や二人増えたってねえ」
ワンチョペの言う通りなのですが、どうやらアルトゥール様の中で一線を超えてしまったようです。許婚を蔑ろにするのもいい加減にしろ、このペコポン!
このときアルトゥール様はジネディーヌ様の毒牙にかかったのはキナミさんと思い込んでいました。実際にはアオナという女中さんでしたが、そこまでは知る由もなかったのです。
キナミさんの名誉のために触れておきますと、彼女はケンゴさんと再婚すると蔵を建て魚醤を醸しはじめました。ケンゴさんは職人としての腕を上げ、カクシの森の根付と魚醤は広く知られることとなったのです。
おぼこ娘のアオナさんはあれは夢だったと信じ込んでいたそうですが、いつしか娘らしくなり、家業に忙しいキナミさんに代わってサナメ婦人の幻術を受け継くとカクシの森を護ったそうです。
磯を東に抜けると、そこはツノウラと呼ばれる海辺でした。朝日がツノウラの水面に照り返し、波は静かに繰り返し繰り返し寄せては返します。
アルトゥール様は砂浜に腰を下ろし独り佇んでいました。
「どうなすったので?」
背後からチェシャが声をかけましたが、アルトゥール様は無言でじっと海を見つめたままです。
それでチェシャは隣にそっと腰を下ろしました。
「はじめてお会いしたときもこんな風でした」
「……女同士の友情なんてもろいもんさ、だったかな、あのときは」
それはアルトゥール様にとってできれば心の奥にしまい込んだままでいたい辛い記憶でした。親友同士だったのに、二人の間柄を知っていたのに、彼女はジネディーヌ様になびいてしまったのです。
「ジネディーヌ様は夢を渇望なさっているのです」
「どうしてそう思う?」
「数年前、アフランシの小さな広小路で種の店を手伝っていたときのことです」
チェシャは静かに語りだしました――
棚に置かれた小ビンにどんな薬草や種が収めてあるか、一つ一つ調べては戻していると、ドアがガラリと開いて客がふらっと入ってきました。
チェシャは黒目勝ちの瞳でいつものにこやかな笑顔をみせましたが、そのまれびと――訪問客は眉一つ動かしません。
「お客様は初めての方ですね」
と、チェシャが棚をじっと見つめたままのまれびとに声を掛けると、
「それが?」
まれびとがはじめて口をききました。
「必要としない者、並の者ならきっと見過ごしてしまうでしょう。
どうせお決まりの売り口上だろう、ふんとまれびとは鼻を鳴らしました。
「ここは何を売ってる?」
「お望みは?」
チェシャはとびきりの笑顔を向けました。
「夢をみたい」
チェシャはそのまれびとがつくづくと見据えていた棚の前に回ると、一つのエッセンス瓶を手にとりました。
「夢見薬ならここに」
――そのまれびとはジネディーヌ様でした。
チェシャはなおも語り続けました。
「それからジネディーヌ様は何度もその店を訪れました」
「そんなに繰り返し繰り返しみたい夢って――」
アルトゥール様はジネディーヌ様がどうして幾度もそれを求めたのか得心がいかないようでした。
「きっとレオノーレ様でしょう」
「姉さんか……」
それはやはり姉だと知ってアルトゥール様は再びうつむきました。
「ジネディーヌ様の夢にレオノーレ様は出てこなかったのです」
夢の中で誰かを探してる、でもその人だけいないのだとしか彼は話してくれませんでした。こうやってアルトゥール様と旅を続けたことで、それが彼女の姉レオノーレ様なのかと思い至るようになったのです。
「だからか……」
アルトゥール様は砂を掴むと握り締めました。砂粒が指先から零れ落ちます。
「いい加減認めなよ、姉さんは死んだんだ」
「それでもなお尽きぬ想いがあればこそでしょう」
「私には理解できない」
波が静かに打ち寄せました。
「……私はほとんど歳をとらないから、きっと恋はできないでしょう。でも、その分よく判ります」
チェシャは淡々と胸の内を打ち明けました。
それでもアルトゥール様は無言のまま海を見つめ続けていました。
ことを済ませ、ひらりと生垣を飛び超えたジネディーヌ様の前にワンチョペが羨ましそうなもの欲しそうな目つきですり寄ってきました。
「千人目の味はさぞや格別でしたでしょうなあ」
ふむ、とジネディーヌ様は独り頷きました。
「急げ。まもなく家人が起き出す」
ワンチョペはお構いなしに続けます。
「たまにはあっしもおすそ分けに与りたいものでさあ」
「それはそうと、今日はジョセフィンは来なかったな」
「アルトゥール様ならとっとと引き揚げやした」
いつもなら、まさにことに及ばんとしたその瞬間、土砂を満載したダンプカーのように突入を敢行してくるアルトゥール様が今日に限って沈黙を守ったままです。
「異なこともあるものよ」
やがてそそくさと駆け出す二人の影が夜道に浮かび、すぐに消えました。
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