第三幕――夢の主
1. 半成のアルトゥール
アフランシの森の奥深くでした。ジネディーヌ様は小さなジョセフィンが八つの歳に突如出奔してしまいました。彼の母君は人を遣ってあちこちをくまなく探させましたが、行方は
当時十六歳のジョセフィンはこの上なく嬉しく思いました。彼女は幼い頃の約束を固く信じていましたから。ところが、喜びもつかの間、ジネディーヌ様はジョセフィンの親友に目をつけると、彼女を奪ってしまったのです。
裏切られた思いでジョセフィンはジネディーヌ様を追いました。彼の姿がアフランシの森に忽然と消えたとき――傍らで彼に捨てられた親友が泣き崩れているのを置いてジョセフィンは迷わず森に分け入りました。しかし、暗い森の中で道に迷ってしまい。更に野犬の群れと遭遇してしまったのです。
「……」
ジョセフィンは震えあがり、固く身がすくんでしまいました。思わず後ずさりしましたが、却って野犬の注意を引いてしまったのです。
野犬たちは低く唸ると、じりじりと迫ってきました。恐怖で全身から冷汗が噴出しますが、もはや身動き一つすらとれません。
「ああ……」
このままでは噛み殺されてしまうかもしれない、震える声でジョセフィンはおののきました。
そのとき、口笛が高く鳴り響き森の中に木霊しました。
野犬はジョセフィンから注意をそらすと口笛のした方に向き直りました。
――もしかして、ジネディーヌ?
そう思ったジョセフィンの前に現れたのは、デニムのオーバーオールを履いた小柄で童顔の少女でした。
こんな子供に何ができる? ジョセフィンは落胆しました。
ところがです、その少女は腰の巾着から種を何粒か取り出し野犬めがけさっと投げつけました。見る間に種は発芽し蔓を伸ばすと、野犬たちをキリキリと縛り上げてしまったのです。
ギャン! 野犬たちは甲高い鳴き声をあげ抵抗しましたが、蔓が食い込んでもはや立ち上がることすら適いません。
ホッと大きなため息をつくと、ジョセフィンはスカートの裾が汚れるのも構わずその場にへたり込んでしまいました。
「ご無事ですか?」
少女がジョセフィンの肩を抱きかかえようとしました。
そのとき、はっと我に返ったジョセフィンは思わず立ち上がると駆け出しました。
「お礼は後で! フィデリオの街で小さなジョセフィンと言えば皆分かるから!」
そうして振り返りもせず、一目散に去っていったのです――
――そんな記憶が脳裏に甦りました。
ふと上を見やると月明かりが闇夜を照らしています。ふいに波の音が弾けたように耳に届き、アルトゥール様は現実へと引き戻されました。気づいてみると自分たちは切れて落ちた吊り橋の綱にしがみつき急峻な崖にぶら下がっています。下を見やるとオトゴサのチェシャも綱にぶら下がっていました。ちょっとだけホッとしましたが、その遥か下は剥き出しの岩場と気づいて大慌てです。
「チェシャ!」
「どうやら幻術にかかったようです」
「私らに害意はないはずなのに、どうしてこんな目に?」
「
聞き慣れない言葉にアルトゥール様は大声で返しました。
「何なんだ、その“はんなり”とは?」
「
アルトゥール様は絶句しました。
以前も指摘されたが、ジネディーヌを追いかける自分の顔は激しい怒りや恨みが刻み込まれているのではないか? 般若になりかけの私の所為でカクシの森の幻術を呼び覚ましてしまった。
風が吹いて鳥の羽根をあしらったつば広の帽子が吹き飛びそうになり、アルトゥール様は頭を押さえつけようとしました。ですが、片手を離そうとすると途端にバランスを崩して綱が大きく揺れました。
「おろろ? あわわ!」
綱が傾いて、下にいたチェシャまでバランスを崩しそうになりました。
「おい!」
思わずアルトゥール様が手を差し伸べようとしますが、却って酷く傾いてしまいます。
チェシャは慌てて綱にしがみつくと両脚を強く絡めて何とか持ちこたえました。
アルトゥール様はといえば、渡し板の結び目に足を引っ掛けなんとかバランスは保ちましたが、ご自慢の帽子はそのまま暗い海の波間に消えていきました。
「……さて、これからどうする?」
息を止めると、海鳴りが圧すように耳に響いてきます。月明かりに照らされた自分たちの姿はさぞや滑稽だろう、ジネディーヌ様があざ笑う様が目に浮かぶようです。
「少々お待ちください」
チェシャは精神を集中させると巾着の種に呼びかけました。
「種よ、蔓となり我らを上に引き揚げよ」
そう唱えると、巾着から発芽した種の茎が伸び、見る間に長い蔓となって上へ上へと伸びていきました。
どうやら手ごろな木の幹に巻きついたようです。今度は逆にアルトゥール様とチェシャの身体に巻きつくと、しっかり固定し彼らを引き揚げはじめました。
「これで大丈夫です」
「よし。じゃ、いくぞ」
アルトゥール様とチェシャ、どこかせっかちな凸凹コンビは蔓を手にすると切り立った崖をよじ登りはじめました。
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