7. キナミとケンゴ
その夜、娘姿に戻ったアルトゥール様がカーテンをそっと開けてみると、向かいの灯りは消えたままでした。そこに誰かが滞在しているとは思いもよらなかったのでカーテンを元に戻すと明日に備え休むことにしたのです。
夜更け。かすかな物音でチェシャが目を覚ましました。忍び足で窓に寄りカーテンをわずかに持ち上げると人影がありました。
「あれは!」
チェシャは大慌てでアルトゥール様を揺り起こしました。
「人違いでしょうか? 今、向かいの家から人影が」
深い眠りに落ちていたアルトゥール様でしたが、チェシャの言葉にぴくりと体を震わせると、いきなりがばっと跳ね起きました。
向かいの邸宅を探ると、既にもぬけの殻でした。
「かすかにジネディーヌ様の残り香が」
チェシャが気づきました。
「こんな夜更けにどこへ? もしかしてキナミさんか! キナミさんはどこにいる?」
アルトゥール様は肝心なところで行き違いになっていたことにようやく気づきました。
「確か、磯の向こう側の屋敷と言ってました」
取る物も取り敢えず、アルトゥール様は闇夜の磯へと駆け出しました。慌ててチェシャが後を追います。
月明かりが夜の海を照らし、海鳴りは低く不安を掻きたてるように響き渡ります。磯の東側へと続く吊り橋のたもとでアルトゥール様とチェシャが立ち止まりました。
「迂回しますか?」
「いや、時間がない。近道しよう」
月明かりを頼りにアルトゥール様とチェシャは恐る恐る吊り橋に足を踏み出しました。
思ったより橋はぐらぐらと揺れ足許はおぼつかず、必死でロープを手繰り寄せながら進みます。
「もう二度とこんなことはしない!」
高所恐怖症のアルトゥール様がそう叫んで橋を渡りきったと思ったその瞬間、二人は新しい吊り橋ではなく、古く腐りかけた吊り橋に深く入り込んでいたことに気づきました。
「まさか?」
「幻術です!」
と、蔓を編んだ綱の一点からほころびが生じると、見る間に伝染して橋は落ちてしまいました。
「うわっ!」
アルトゥール様とチェシャは虚空に投げ出されてしまいました。
※
離れの棟、使用人たちが起居する部屋で寝ていたケンゴさんはふいに強く揺さぶられました。
わっ! といいかけたその口をジネディーヌ様が塞ぎました。
「静かに。起きろ、ケンゴ」
「ジネディーヌ様? どうしてここに」
「これよりサナメ婦人の屋敷に忍び込む。案内せよ」
ケンゴさんは驚きました。ジネディーヌ様はサナメ婦人の許に夜這うおつもりです。そんな大それたことがどうしてケンゴさんにできましょうか。
「な、何をなさるおつもりで?」
ジネディーヌ様はそっと耳打ちしました。
「な、なななな!」
再びジネディーヌ様の掌が口を塞ぎました。ケンゴさんは顔を真っ赤にしてうなっています。
「嫌なら来なくていいのだぞ」
ケンゴさんが必死にかぶりを振ると、ようやくジネディーヌ様が掌を外しました。
「い、いえ、ぜひお供させてください」
「それでこそ男児というもの」
うむと頷き、ジネディーヌ様は忍び足で敷地の中へと出ていきました。
しばらくしてサナメ婦人は眠りから引き戻されました。何者かが婦人のかけた幻術を破った証です。
はっと身を起こした婦人でしたが、すぐさま瞑想し誰がどこにいるか探りました。
「……まあ、いいでしょう」
サナメ婦人はため息をつくと、なるようになればよいと静かに見守ることを決め込みました。
同じ頃、サナメ婦人の隣の部屋ではキナミさんが休んでいました。
ふと枕元に気配を感じたキナミさんは声を潜めました。
「そこにいるのは誰?」
「俺だ、ケンゴだよ」
「ケンゴ……」
忍び寄ってきたのがケンゴさんと知ってキナミさんは息を呑みました。
「ほ、本当のことを言う。俺は昔からキナミが好きだった」
「……どうして言ってくれなかったの?」
「俺は一介の小作人。家格が違い過ぎる」
「まあケンゴ、私が村を出てからの話も聞いていますよ。あなたの作る根付は評判を呼び、サナメ婦人も将来よい職人になるだろうとおっしゃっています」
「そ、そうか」
「今のあなたを軽んじるものがどうしていましょうか。父も母もサナメ婦人もきっとお喜びになるでしょうよ」
「キナミ……」
キナミさんは何とも言えないじんわりとした表情で優しく頷くとケンゴさんをそっと抱き寄せました。
後に分かったことですが、このときケンゴさんはキナミさんと結ばれそうです。ジネディーヌ様はというと、アオナという女中さんとですね……。ええ、もしかしたらキナミさんとケンゴさんの境遇を自分と重ね合わせたのかもしれません。はい? 偶には良いこともする? いえいえ、ただの気まぐれでございます。
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