5. 一夜の契り
どうも変だ、森を抜ける道を歩きながらアルトゥール様とチェシャは互いの顔を見合わせました。
「おい、チェシャ。おかしくないか? どうも同じところをグルグル回ってる気がする」
「確かに。ここがカクシの森の様ですね」
「茶店のお婆さんは私たちなら無事抜けられるだろうって言ってたのに」
「後一、二時間程で日が暮れてしまいます。先を急がねば」
森の中で夜を迎えるのをアルトゥール様は好みません。アが国に狼はいないのですが、野犬の群れと遭遇したらと想像すると思わず体がすくみ上がってしまうのだそうです。
そう言い合いながら進んでいくと、木陰から一軒の邸宅が見えました。
「あそこで道を尋ねてみよう」
アルトゥール様はさあ、もう一息と力を込め、強い足取りでその邸宅を目指しました。
大きな邸宅の門前に立つと、使用人らしき娘が出てきました。髪はおさげでそばかす顔のやせっぽちな娘でした。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
お待ちしてた? 女中の言葉にアルトゥール様は耳を疑いました。旅先で一夜の宿を求めたことは何度かありましたが、先方から切り出されたことはなかったからです。
チェシャも思う所があるのか、女中の姿をじっと観察しています。
「カクシの森を抜けた旅人はここで一休みするのが慣わしです。さあ、どうぞ」
どうやら森は抜けたらしい、安堵したアルトゥール様は腑に落ちない思いがしながらも、とりあえず案内されるまま屋敷に入ったのです。
客間に通されると、この屋敷の主人らしき一人の美しい娘がアルトゥール様とチェシャを迎えました。
「ようこそいらっしゃいました」
娘の挨拶にアルトゥール様は帽子をとって一礼しました。
「申し訳ありません、森で迷ってこんな時間になってしまいました。アサリの街へはあとどれくらいでしょうか、よろしければ道を教えていただきたく――」
「お疲れでしょう。見目麗しいお方、今夜はどうぞここでごゆっくりお休みくださいませ」
娘が歳に似合わぬほど艶やかな笑みを浮かべると、アルトゥール様曰く何やらぞくりとした悪寒が奔ったそうです。
「お連れの方はこちらへ――」
女中がチェシャに別の部屋を案内しましょうと促しました。
と、チェシャは主の娘に向かって言い放ちました。
「あなたは恋を知らぬままこの世を去ったのですね」
その言葉に穏やかな笑みを湛えていた主の娘は声を失い立ちすくんでしまいました。
やせっぽちな女中が非礼を詫びるよう慌ててひれ伏しました。
「お願いでございます。恋も知らぬまま逝ってしまった我が主人があまりに不憫でなりません。どうか今一度お考え直しいただき、せめて一夜の契りを――」
「知れば却ってこの世に未練が残るというものです」
とりつく島もなくチェシャは答えます。
何も言い返せなくなった主と女中は失望の色を隠せずうつむきました。
と、目の前が霞むと娘と女中が、更には邸宅が忽然と消え去ってしまったのです。残されたのはただの廃屋でした。
「これは……」
あまりの変わり果て様にアルトゥール様はただただ驚くばかりでした。これは怨霊か何かの祟りだろうか?
「どうやら亡霊ではないようですね。幻術です」
チェシャの見立てでは強い法力の持ち主が近くにいるとのことでした。ただ、どうやら深い哀しみを抱えているようでもあり、しかしながら、自分たちの様にただ通り過ぎようとしただけの旅人をも巻き込もうとしたのが何とも腑に落ちないそうです。
幻術が破れてしまうと、そこはカクシの森の中心、二つ鼻と呼ばれる磯の手前でした。そこが岐路となっていて、磯へと登る道と森を更に東に向かう道とに分かれていました。
アルトゥール様はやれやれと肩を落としうなだれました。
「灯台がみえます」
チェシャが二つ鼻の磯を指しました。
「あれに登れば、森の先まで見晴らせるんじゃないか」
アルトゥール様も同意しました。
気を取り直し、日が暮れる前にカクシの森を抜けようとアルトゥール様とチェシャは再び歩きはじめました。
灯台に登ってみると、そこは二つ鼻の西側の磯で海が見渡せました。
「おや、あんなところに屋敷がある」
西側の磯の奥まった処に二軒の邸宅がありました。そのうち一つがジネディーヌ様たちの滞在先だったのですが、幻術で護られた森故か、アルトゥール様は気にも留めなかったのです。
「崖下に砂浜があるんだな」
東の方向、向こう側を見下ろすと、東の磯と西の磯の間に位置する小さな浜辺の奥が深い谷となっていました。
「吊り橋が掛かっていますね」
チェシャが東の方向を指しました。谷間に磯の東西を結ぶ橋が渡されているようです。
「このまま向こうまで行けそうですね」
磯伝いに進んでそのまま浜辺に出れば森をできるだけ回避できるかもしれない、チェシャはそう進言しました。
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