2. ワンチョペ、夜這う

 錠前をこじ開けるのなど朝飯前、思いの他簡単に鍵が開いて、ワンチョペはにやけ顔を抑えることができませんでした。


「所詮女一人。ちょろいもんですな」


 使用人たちは別の棟で眠りについています。土を踏むかすかな音はするものの、番犬がいるでもなく、ワンチョペとジネディーヌ様は易々とサナメ婦人の屋敷へ忍び込みました。

「ここで見張っておれ」


 ジネディーヌ様の言葉にワンチョペはがっくりとうなだれました。


 ワンチョペを差し置いてジネディーヌ様はさっさと先に進んでしまい、奥の棟へと続く渡り廊下に姿を消しました。


「……」


 屋敷にいるのはおそらくサナメ婦人とキナミ嬢の二人だけ、それにしても部屋が塞がっているなどとその場しのぎの嘘で天下のジネディーヌ様をやり過ごすことがどうしてできようか。


 何もここで見張ることはないではないか。ジネディーヌ様がキナミ嬢の部屋に忍び込むなら、あっしはサナメ婦人をねじ伏せやしょう、さすれば問題なし。ワンチョペは矢も盾もたまらず忍び歩きをはじめました。


 奥の棟の様子を伺うと、ジネディーヌ様がとある一室に忍び込んでゆくところでした。すっとかすかな物音をたて、扉が閉じられると、ワンチョペは下種な笑みを浮かべました。


「あそこがキナミ嬢の部屋なら一番奥がサナメ婦人でやんしょ。げへへ、四十八にしてかつてない上物がすぐそこに。これを見逃せば男がすたるというものでさぁ。ワンチョペ、ただいま発進でやんす」


 と、いそいそと這い出したワンチョペでした。


 扉は難なく開きました。もはや笑いをこらえることができず、口を掌で塞いでしまったほどです。


「どなたかしら、ジネディーヌ?」


 暗闇の奥からサナメ婦人の声がしました。


「ジネディーヌ様はキナミさんのところでやんす。替わりにあっしが参乗した次第でさあ」


 我が主は若いキナミ嬢を気に入ったようだが、サナメ婦人も悪くない、いやむしろ上回っているのではないか。あのご主人がこんな上玉を、それも極上のを放り出そうとは、まさに千載一遇のチャンス。


「あら、やっぱりそう」


 枕元の電飾が橙色に暗く灯りました。ほのかな光に照らされたサナメ婦人はどこか気だるそうで、それでいて静かにワンチョペの様子を伺っています。


 うっすらと笑みを浮かべたサナメ婦人の妖艶な寝姿にワンチョペは魂を抜かれるような想いでした。結っていた髪は解かれていて、小首を傾げると、それに連れて長く艶やかな黒髪が肩にまとわりつきます。それはほんのわずかな動きなのに髪を振り乱したようで、ワンチョペは思わず唾を呑み込みました。


 絹の寝巻がつつとずり落ちてサナメ婦人の肩が露わとなりました。木目細やかで白磁を思わせる柔肌に黒髪が乱れ髪のようにとりついて、ワンチョペを今か今かと駆り立てます。サナメ婦人は寝巻の裾で口許を覆い隠すと艶かしい流し目を送りました。


「偶にはいいでしょう、あなたの望むようになさい」


 サナメ婦人の囁きはワンチョペの脳をとろかしてしまいました。着ていた服を大急ぎで脱ぎながらサナメ婦人の許に馳せ参じようとしたワンチョペは脱ぎかけのズボンを足に絡めてしまい、転んで顔面をしたたかに床にぶつけてしまいました。


         ※


 溶けてしまうような夢見心地はふいに破られました。寒気が体中に染み込んできて、ワンチョぺは思わずくしゃみをしてしまいました。


「げっ!」


 気づくとワンチョペは廃屋で素っ裸のまま腐った梁にしがみついていたのでした。


 確かに婦人の屋敷に忍び込んだのに、サナメ婦人の温もりをこの肌身で感じとったはずなのにこれはいったいどうしたことか?


 慌てて辺りをきょろきょろ伺うと、部屋の向こうでジネディーヌ様が仏頂面を装っているのが目に入りました。ですが、組んだ腕は震え胡座をかいた脚もどこか落ちかなさげです。


「ご主人、これは……」

「まんまとたばかられたわ」

「我らを欺くとは、サナメ婦人、かなりのやり手ですやんすな」


 海千山千の手練をこうもあっさりあしらうとは、ワンチョペは口をあんぐりとさせたまましばし放心しました。


         ※


 さて同じ頃、アルトゥール様とオトゴサのチェシャの二人組は件の森にほど近い海辺を東に向け進んでいました。


 折からの大雨で崖崩れが起きて鉄道と幹線道路が両方とも遮断されてしまい、やむなく徒歩で東に向かうことにしたのです。


「アサリの街を過ぎてソヒメの街で見つからなかったら、サヒメの里に寄りましょう」

「じゃあ、種の里は意外に近いんだな」


 そう言葉を交わしながら進んでいくと、三日月のように弧を描いた浜辺に差し掛かりました。砂浜の向こう側は磯となっていて灯台が豆粒のように見えます。


 浜辺で子供たちが戯れているのに目をとめると、アルトゥール様は立ち止まって声をかけました。


「君たち、この気球に見覚えはない?」


 懐から取り出した写真はジネディーヌ様の熱気球を写したものでした。


「あるよ!」


 元気一杯の声に、


「おお、こっちで正解だったか。いつ頃だった?」


 アルトゥール様は額の汗をぬぐいました。


「昨日」

「お昼頃だよね」


 子供たちは顔を見合わせ互いに頷きあいました。


「お礼に種をあげましょう」


 チェシャが腰の巾着から種を何粒か出すと、子供たちに分け与えました。


「今植えると二月後に花が咲き三月で実がなります。水やりを忘れずに」

「ありがとう!」


 それでアルトゥール様とチェシャは再び歩きはじめました。


「近いな」

「ですが、この辺りは人家もまばらですし、この先の街かもしれません」

「今日中に間に合うかな……」


 初夏の日差しは強く照りつけてきます。アルトゥール様は額の汗をぬぐいました。


 一方、ジネディーヌ様とワンチョペですが、アルトゥール様たちが近づいているのは露知らす、当座の住居として貸し出された別邸の庭をうろうろと歩き回っていました。


「どうなさいました?」


 ケンゴさんが食材の入った篭を持ってきました。まさか、今朝の失態は知れていないだろうな、疑心暗鬼でワンチョペは彼の表情から様子を伺おうとしました。


「ジネディーヌ様のお世話はあっしがいたしやす。ケンゴ殿はどうぞご自分の仕事にお戻りくださいまし」

「いえいえ、ご滞在中は私がお世話するようサナメ婦人より仰せつかっておりますので」


 何も知らないらしく、ケンゴさんは朴訥ながらも親しみを込めた笑顔をみせました。


 どうやらサナメ婦人はどうしてもキナミ嬢をジネディーヌ様と逢わせたくないらしい、さてどうしたものか、ワンチョペは思案顔です。


 そうだ、聞くところによるとキナミ嬢はこの村の出身、ケンゴは同じ年頃でしかもサナメ婦人宅に出入りしている。よく知っているやもしれん、正面から落とせないなら、搦め手に回ればよいではないか。

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