第二幕第ニ場――クシロからカクシの森へ

1. サナメ婦人

「本当に行ってしまうのかい?」


 思いとどまれないのか、若きジネディーヌ様の表情には不服不満の色がありありと浮かんでいました。


「親同士が決めたことだけどね」


 レオノーレ様はジネディーヌ様の気持ちを知ってか知らずか、さらりと受け流しました。


「嫌なら行かなければいい」


 それは怒気さえ篭る声音でした。


「……それよりジネディーヌ、小さなジョセフィンを頼むわ」

「レオノーレ、俺は――」


 既に全てを受け入れていたのでしょうか、レオノーレ様は小さくかぶりを振りました。


「小さなジョセフィンはあなたじゃなきゃ駄目なの」


 レオノーレ様が嫁ぐ日、ジネディーヌ様は見送りにきた人々を避けて独り遠くからその模様を眺めていたそうです。


 迎えの車に乗りかけたレオノーレ様が誰かを探すように辺りを見回しました。でも、いないと分かるとすぐにドアは閉じられてしまいました。


 自分を抑えきれないジネディーヌ様はいまいましげにその場を離れてしまいました。当時十五歳のジネディーヌ様は若過ぎて、花嫁泥棒などという大それたことに思い至らなかったのです。


 風の吹くまま漂う熱気球に吊り下げられた篭の中、ジネディーヌ様は物思いにふけっていました。


「ご主人、いかがしやした?」


 ワンチョペはバーナーの炎をあれこれと加減しては汗を流していましたが、主の遠いまなざしにふと手を止めました。


「……いや、考え事をしていた」

「パシャの後宮に忍び込んだことでやんすか? あれは痛快でしたなあ」


 ジネディーヌ様は応えようとしません。


「おや、ではルームの初夜権を買い漁ったことで?」

「いや」


 放っておくといつまでもしゃべり続けるだろう、ジネディーヌ様はか細い声で否定しました。


 眼下を見下ろすと、海辺に赤瓦の集落が身を寄せ合うように建ち並び、海の青と山の緑の間に細く帯のように挟まれています。


「ここで降りる」


 ジネディーヌ様はその地に見覚えがあるのか、すかさず指示を出しました。


「へえ。しかし、ただの田舎としか思えやせんが、ここに何か?」


 見たところ、海辺まで深い森が広がっていて人家はまばらにしかありません。


「知己がいる」

「ほお。それはどんな御仁か、このワンチョペも知りとうございます」


 気球はゆっくりと降下をはじめました。


 森の一角に気球を下ろすと、ジネディーヌ様はワンチョペを従え、森の中を一路西へと進んでいきました。


 やがて視界が開けてきました。


「はて、小さな漁村にしか見えやせんが」


 ジネディーヌ様は無言で歩き続けます。なので、ワンチョペも仕方なしに従う他ありません。


 それで小一時間も歩いたでしょうか、磯にさしかかるとジネディーヌ様は立ち止まりました。


 見上げると、裕福そうな邸宅が磯の中腹に建っていました。


「ほお、これは中々のもので」


 切妻様式で赤瓦の屋根に黒塗りの下見板が落ち着いた、しかし森の緑と調和した印象を与えます。


「この辺りの地主だ」


 その深い森はカクシの森と呼ばれていました。何でもさる女神がこの森に鎮座なさっているからだとか。そのカクシの森周辺一帯の地主がここに住んでいるのです。


 門の前に立ちしばらくすると、使用人と思しき娘が駆け寄ってきました。


「どなた様でしょう?」


 飾り気のないエプロンドレス姿。歳の頃は十七、八くらいでしょうか、やせっぽちでそばかす顔のその娘はアオナさんといいました。


「サナメ婦人に会いに来た。アフランシのジネディーヌといえば通じるはずだ」


 どうにも冴えない風貌ですがよく気のつく娘なのでしょう、かしこまりましたとその女中さんは駆け足で戻っていきました。


         ※


 客間に通されるとワンチョペは邸宅の持ち主がいかなる人物か、しげしげと壁の四方を見回しました。


 調度品も極端な華美には走らず、落ち着いた雰囲気で趣味の良さが伺えます。


 ドアが開くと呉服姿の女性が入ってきました。


「いらっしゃい。久しぶりね」


 不意の来客を迎えたサナメ婦人の微笑みは生めくほどのあでやかさでいて、しかししっとりと落ち着いた優美ささえ感じさせ、ワンチョペは思わずほぉと見惚れてしまいました。四十過ぎほどの歳でしょうか、ワンチョペもジネディーヌ様の供として世界のあちこちを巡ってきましたが、万華鏡のような美しさをこれほどまで完璧に保った方は思い当たりませんでした。


「しばらく厄介になります」

「あら、あなた、まだ旅を続けてたの?」


 そうだろうという笑みとは裏腹な言葉をサナメ婦人は投げかけました。


「アフランシを出てからというもの、ご主人は世界をくまなく歩き回ってまさあ」


 ワンチョペがいいところを見せようと無駄に張り切ります。


 サナメ婦人はかすかに頷きました。


「未だ腰が落ち着かないのね。でもね、ジネディーヌ、男もいつかは――」


 と、そのときドアが再び開きました。


「サナメ婦人――」


 顔を覗かせた娘がサナメ婦人に小さな声で呼びかけました。二十代半ば過ぎくらいの歳で、流石にサナメ婦人には適わないものの、これまた人目を惹く美しさの持ち主でした。

「私、ちょっと外出してきます」


 娘がそういうと、ジネディーヌ様はちらと一瞥しました。


 武道か何かでしょうか、長い黒髪を後ろでまとめ白い上衣に紺の袴と動き易い装束です。穏やかな立ち居振舞いの方らしいですが、和装がきりりと引き締めている印象です。


 その傍らでワンチョペは二人の美女を代わる代わる見比べては、その姿を両の目に焼きつけようと必死です。


「ケンゴを寄越しましょうか?」

「いえ、独りで大丈夫です。では」


 娘は一礼するとドアを閉めてその場を離れました。


「今の娘さんはどなた様でやんしょ?」


 ワンチョペが思わず感嘆しました。


「この村の出よ。事情があって私の家に身を寄せているの」


 はい、顔を覗かせたその人がキナミさん。ぱっちりとしたとび色の瞳が優しげな方です。


「綺麗なお方でげすな。いや、サナメ婦人には及ばないですが」

「あら、お世辞はよろしくてよ」


 しばらくはここに滞在するだろう、それにしても小さな漁村にこんなに美しい女性が二人もいようとは、ワンチョペはにやけ顔です。


「ご主人、いかがでやんす?」

「うむ」


 ジネディーヌ様が小さく頷いたのを見てサナメ婦人の表情がかすかに曇りました。


「……用事を思い出したので、これで失礼」


 そういってサナメ婦人は客間を退出しました。


 入れ替わりにやって来たのはケンゴさんという作務衣を着た若者です。


「あいにく部屋が塞がっておりまして、別邸へお泊りして頂くようにとのことで私が案内に参りました」


 別に卑屈になる理由もないのですが、ケンゴさんはいつもそうやって稲穂が垂れるようにこうべを垂れるのです。


 あらまぁとワンチョペは主がいかなる顔をしてるか、よく観察しようとぎょろりと目をむきました。


 カクシの森の中央部に鼻のような形をした磯が東西に二つ並んでいて、それは二つ鼻と呼ばれています。ケンゴさんが案内したサナメ婦人の別宅は二つ鼻の西側の磯にありました。そこは森の中でも比較的開けていて、近くに白い灯台が建っています。


 建物の造りの良さは確かに客人を泊めるのにふさわしいかもしれません。でも、客間が塞がっているというのはどう考えても口実に過ぎないでしょう。


 ジネディーヌ様は特に何も言うでもなくケンゴさんから鍵を預かると、さっさと奥に引き込んでしまいました。


 その夜、ワンチョペは昼間のことを忘れ、ひとときの夢と眠りについていました。が、嵐のように激しく揺さぶられると、ベッドから放り出されてしまったのです。


「へ?」


 寝ぼけ眼でワンチョペは夢の続きはどこからだったか、きょろきょろと辺りを伺いました。


「へ、ではない。行くぞ」


 まだ目が覚めておらぬかとばかりに思い切りジネディーヌ様がワンチョペの尻を蹴上げました。


 痛たた! ワンチョペは腹いせまぎれに叩き起こされたのだとようやく気づきました。

「どこへでやんす?」

「サナメ婦人の屋敷に決まっておろう」


 あの御婦人の屋敷に忍び込むとくればこうしてはおれません。恥ずかしげもなくにやけ顔を晒しながらワンチョペは辺りのものをかき集めはじめました。


「げへへ、妖艶なご婦人ですからなあ」

「いや、あのキナミという娘だ」


 早速というか目ざといというか抜かりないとでも言えばいいのか、ジネディーヌ様はキナミさんが気にいった様子です。夜も更けて辺り一帯はしんと静まりかえっています。こんなときにすることといえば、


「それで忍び込むおつもりでやんすか」

「ぐずぐずするな」

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