4. 離れ離れとなった二人

 アルトゥール様は結局言い出すことが出来ませんでした。もし口にしたらチェシャは自分の許を去ってしまうのでは? そんな想いが頭をよぎったからです。


 翌朝、目を覚ますと、既にチェシャの姿はなくてアルトゥール様はドキリとしたそうです。カーテンを開けると、裏庭のベランダでプランターに植えた苗にのんびりと水遣りしているチェシャの姿が窓越しに覗きました。


 このカニは いずこのカニぞ

 遥か敦賀のカニじゃ

 横歩き 横歩き

 いずこに至る

 いちじ島 み島に着いて

 水に潜って息をつぎ

 上り下りのさざ波を

 すいすいとお出ましで

 木幡であなたに出逢ったよ

 娘さん

 あなたの後ろ姿はすらりとして

 白くきれいな歯並びで

 とろとろと煮詰めた

 眉墨は程よいね

 あなたに出逢って

 ああならば こうならば

 胸は張り裂けそう


「どうして歌ってるんだい?」


 アルトゥール様の声でチェシャは口ずさむのを止めました。


「こうやって歌を聴かせてやるんです」

「植物も歌を聴くのか」


 感心したアルトゥール様も裏庭へ出てきました。


「言の葉には不思議な力が宿ります。お日さまの光、月の光、星の光をたっぷり浴びた苗にこうして聴かせてやるのですよ」


 そうか、種使いのチェシャはこうやって不思議な種を育てているのか、アルトゥール様は頷きました。


「じゃあ、色んな歌があるんだな」


 頷いたチェシャに微笑み返しすると、アルトゥール様は店の中へと引き揚げました。


 ――どうして今まで話してくれなかったんだろう?


 市場へ向かう路面電車の車中でアルトゥール様はチェシャの横顔をちらと見ました。チェシャは主の複雑な胸中を知ってか知らずか、車窓から覗くクシロの街並をのんびりと眺めています。


 路面電車が東の私立学園前で停まりました。乗降ドアが開くと、カラネさんが乗り込んできました。


「こんにちは。今日はもう仕入れは終わり?」


 カラネさんは娘らしい仕草で身体をちょっと斜めに傾けると明るい笑顔で挨拶しました。


「はい」


 チェシャが笑顔で応じました。


 大通り前でアルトゥール様とチェシャは電車から降りましたが、ふと振り返ると窓越しにカラネさんが小さく手を振ってくれました。それでアルトゥール様はいくらか心が晴れたのです。


 それから数日、今日もアルトゥール様が店番です。


 カラカラとした鈴の音でふと面を上げると、この間のホクトさんが再び来店してきました。


 ――この人は広小路で迷っていない。やはり何か求めているのだろう。


 アルトゥール様はとびきりの笑顔で迎えました。


「いらっしゃいませ。何かお探しで?」


 ホクトさんはしばし考え込むとおもむろに切り出しました。


「実は、こないだの娘が気になって」

「チェシャですか?」


 何だろう、チェシャの助けを求めているのだろうか? アルトゥール様は思わず立ち上がりました。


「そのチェシャって娘、アガタって言ったはずだけど、カヒメの丘、西の海辺を見下ろす町に住んでるアガタのことかな。歳は私と同じだ」


 アガタという名はそう多くはありませんから、クシロの街で居ても数人程でしょう。西の海辺を見下ろすカヒメの丘、アガタさんの家からは確かに砂丘と海が見えました。


「ああ、お知り合いで?」

「……まあ、そんなところ」


 ホクトさんは気まずそうな表情です。


「人違いかもしれない。でも気になって。確かめたいんだ――」


 丁度そのときチェシャがカラネさんを連れて戻ってきました。カラネさんを見たホクトさんは息を呑みました。はい、カラネさんとアガタさんはどこか似た面立ちでしたから。


         ※


「ホクトさんってご存知ですか?」


 アルトゥール様が切り出すと、アガタさんは飲みかけていた紅茶を思わずこぼしそうになりました。


「ホクトって、シャケチの?」

「そうです」


 アガタさんの表情が曇ったのは端から見ていてもはっきり分かりました。


 カラネさんが二人の顔色を伺うように交互に見やりました。


「でも、どうして?」

「半年前、東クシロに戻ってきたそうです」


 アガタさんはパッと明るい表情になったのもつかの間、みる間に沈んでしまいました。

「彼はきっと私のことを怒っているでしょう」

「いえ、そういう風には思えなかったんですが」


 アルトゥール様の言葉にカラネさんが身を乗り出しました。


「叔母様、昔、何かあったの?」


 アルトゥール様とカラネさんが小さな広小路の路地裏にある不思議な種の店でホクトさんに会ったことを説明すると、アガタさんは十年前のある出来事をぽつり、ぽつりと語りはじめました。


「そんな話なんですか?」

「たった一度の電話で仲たがいしちゃったの?」


 アルトゥール様もカラネさんもアガタさんの昔話に意外そうなというか、拍子抜けした表情でした。


 クシロの高校で同級生だったアガタさんとホクトさんは卒業すると別々の進路を選びました。それで自然と音信不通となったのですが、あるときホクトさんが久しぶりに電話を掛けてきました。そのときのアガタさんは冷たい態度をとってしまいました。互いの感情に行き違いが生じ、ホクトさんはそれきり連絡をとろうとはしなくなりました。


「カラネさん、アルトゥール様、人それぞれですから」


 チェシャがそれとなく嗜めます。


「どうせ、くだらない意地でも張ってるんだろう」


 アルトゥール様はアガタさん寄りの態度です。


 確かにボタンを掛け違えただけで、誤解を解けばすぐにでも仲直りできただろうに、彼らはいたずらに時間を費やしてしまったのです。


「でも、頑なな人」


 きっと自分がいけなかったんだと思い込んでいたんでしょう、そのときのアガタさんの暗く沈んだ表情は今でもはっきり憶えていますよ。


 帰りの電車の車内、シートに並んで腰掛けたアルトゥール様とチェシャの会話は自然とアガタさんとホクトさんの話となりました。


「なあ、この一件、ホクトさんに伝えた方がいいよな?」

「さあ、どうでしょう?」


 チェシャはいつになく関心が薄いそぶりでした。広小路の裏通りで出会った人々を決してないがしろにしないのが普段のチェシャなのに、今回は少し距離をおこうとしています。


「本人たちが手をこまねいてるなら、私たちが背中を押せばいい」

「そうですね。でも、アガタさんもホクトさんももういい大人ですから」


 ほんの一歩足を踏み出すだけなのにそれが出来ないでいる、そんな臆病さがもどかしくてたまらない。なのに、チェシャはいつになく醒めた態度でいる。アルトゥール様は感情が面に出やすい方なので見る間に不機嫌な表情になってしまいました。


「……どうして乗り気じゃない?」

「何を怒ってらっしゃるので?」


 路面電車が大通り前で停まりました。それで二人は立ち上がると、言葉を交わし合いながら乗降口のステップを一段、二段と降りたのですが――


「どうして話してくれなかった?」

「何を、でしょう?」

「オトゴサのチェシャは歳をとらないって」

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