3. オトゴサのチェシャ

「ちょっとだけなら私でもなんとかなるだろう」


 お婆さんが店を空けるので、午前中はアルトゥール様が店番をすることになりました。


 今日はチェシャ一人で出かけます。


「それでは、行ってきます」


 ウィンドー越しにアルトゥール様が軽く手を振りました。


 チェシャが出ていくと、アルトゥール様は珍しくエプロン姿で腕まくりです。


「さて、何からはじめたものか」


 きょろきょろと棚の品々を見渡すアルトゥール様にお婆さんが声をかけました。


「アルトゥールさん、ちょっと病院に出かけますから、何か困ったことがおありなら、私が戻ってからにしてくださいな」


 末の娘さんが臨月ということで、身の回りのお世話だそうです。


「大丈夫です。これでもチェシャと一緒にあちこち旅をしましたから」

「それならまかせて安心ね」


 お婆さんもアルトゥール様の自信に満ちた表情に安心そうです。


「チェシャさんと再会したの、何十年ぶりかしらねえ。あの頃は私も若かったから」


 お婆さんのふとした言葉に、アルトゥール様は声を失いました。


「おや、ご存知なかった?」


 はい、自分は自分の従者のことをよく知っているつもりだったのに、アルトゥール様は記憶を手繰り寄せ、考えを巡らせました。


 写真立てに飾られた古びた写真。アルトゥール様はチェシャの隣に立った娘を指差しました。


「この娘さんがお婆さん?」

「ええ、そうよ」


 確かに、どことなく面影があります。その写真は間違いなく数十年前に撮影されたものです。


「オトゴサのチェシャは歳をとらないということですか?」


 未だ半信半疑です。それはそうです、ジネディーヌ様のような規格外の人間を追いかけているとはいえ、歳をとらない少女と旅を続けていたとは露知らずでしたから。


「チェシャさんの本当の歳は誰も知らない。何百年もずっとああして世界を旅しているのよ」

「知らなかった……」


 アルトゥール様の脳裏ではこの事をどう受けとめればいいか、色んな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えました。


 不安げなアルトゥール様にお婆さんは優しく声をかけました。


「大丈夫よ。不老不死の吸血鬼とかじゃない、普通の女の子だから。それじゃあ店番よろしくお願いしますよ」


 お婆さんはそういって店を出ていきました。きっとアルトゥール様が独りでじっくり考えることができるよう気を遣ってくれたのでしょう。


 どうして話してくれなかったんだろう? アルトゥール様は半ば放心状態で天井を見上げました。


 言われてみれば、ほんの十一かニの歳ごろなのに気ままに平然と世界を巡り、あちこちで妙に顔が利く、それはオトゴサの民が長年かけて築き上げた人脈や情報網の賜物と思っていた。実はそれは逆だったのではないか? では何故自分には教えてくれなかったのか、火のついた枯れ草からやがてぶすぶすと煙が立ち昇ってくるように疑念が湧いてくるのを抑えることができませんでした。


 一年半近く共に旅を続けてどうして気づかなかったのだろう、そうか、そろそろ気づく頃合だったのかもしれない。それ以上いくら考えても良い考えは浮かびませんでした。知らせてくれなかったということはチェシャにとって秘密なのだろうか?


 ドアに据えつけられた小さなベルがカランと乾いた音を立てました。それでアルトゥール様はようやく我に返りました。来店客です。


 その人は三十代半ばの眼鏡をかけたスーツ姿の男性で、ホクトさんと言いました。


「こんなところに店があるなんて……」


 ふらふらと何かに誘われるままに入ったのでしょう、不思議そうな面持ちでホクトさんは棚を見回しました。


「いらっしゃいませ」


 アルトゥール様は気を取り直すと、つくり笑いしました。


「必要としたからここに来たはずです。……受け売りですけど」

「不思議な店だな」


 不慣れな売り子のひきつった営業スマイルと口上に肩をすくめながら、ホクトさんは棚の片隅に置かれた小ビンに目をやりました。


 ホクトさんが何か言いかけたそのとき、チェシャが買出しから戻ってきました。


「ただいま戻りました」

「ああ、思ったより早かったな」


 本当はいつも通りの時間でしたが、アルトゥール様はじっと考え込んでいて時が経つのを忘れてしまっていたのです。


 チェシャは抱えた紙袋をレジ台に置くと、中から焼き菓子の入った袋を差し出しました。


「アガタさんからの差し入れです」


 アガタという言葉にホクトさんが耳をそばだてたのですが、アルトゥール様はどこか上の空でした。


「お客様は何かご入用ですか?」


 言いよどんでいるアルトゥール様をみて、チェシャはホクトさんに話しかけました。


「いや、また今度にするよ」


 ホクトさんはホクトさんで何か思うところがあったようです。ですが、それを面に出すのがはばかられたのか、すいと店を出ていってしまいました。


「またいらっしゃいませ」


 チェシャがドアから半ば体を出して見送ると、振り返りました。


「どんな方でした?」

「どんなって、ふらっと店に入ってきただけだから――」

「ここに辿りついたのには意味があります」

「私にそこまでの眼力はないよ」


 自信たっぷりのチェシャ。アルトゥール様にとっては、ふらりと店に立ち寄っただけの男より今目の前に立っているチェシャが気がかりでした。言うべきか言わざるべきか、アルトゥール様はふいに口をついて出そうになった言葉を思わず呑み込んでしまいました。

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