10. アルトゥール、石の怪人となる

 ジネディーヌ様がノビルさんを連れ、上階のスイートに案内しようとしたそのときです、突如会場の照明が落ちました。


 これは如何なることかと来賓客たちはざわめきはじめましたが、すぐに非常用電源が灯り落ち着きを取り戻しました。


「そこまでだ!」


 薄灯りにぼうっと照らされた会場で、アルトゥール様が叫びました。


 いつの間にかアルトゥール様とシュンスケさんがジネディーヌ様とノビルさんの行く手を遮っていました。


「む、アルトゥール」


 さしものジネディーヌ様も突然の闖入者に――アルトゥール様が乱入するのはいつものことでしたけれど――顔をしかめました。


「皆、どうしたの?」


 ノビルさんはシュンスケさんとアルトゥール様が揃って姿を現したことに戸惑いをみせました。ええ、まだ<邪視>に魅了チャームされていましたから。


「ノビルを返すだよ!」

「!」


 シュンスケさんの悲痛な叫びにノビルさんの心はまたも揺らぎました。ジネディーヌ様、アルトゥール様、シュンスケさん、心は三者の間を漂い続けるのです。


 遅れてチェシャも駆けつけました。


 これはどういうことかというと、種使いのチェシャが配電盤に特別な種を仕掛け、それが時間どおりに発芽して電源を落としたのです。


 バケツを抱えたチェシャはアルトゥール様とシュンスケさんにそれを渡しました。


「何ですか! あなたたち!」


 異変に気づいたホテルマンが詰め寄りましたが、アルトゥール様は無言でその男を投げ飛ばしました。


「行くぞ!」


 アルトゥール様はチェシャから渡されたバケツの中身を頭からざんぶと被りました。どろどろとしたそれは生コンクリートにチェシャが細工したものです。


 続けて、チェシャとシュンスケさんもどろどろのそれを頭から被りました。


 あたかも溶けた石像のごとし。ジネディーヌ様へ向けゆらりゆらりとにじり寄ります。

「これなら<邪視>も通じまい」


 アルトゥール様はにやりとしました。もっともその表情はどろどろで、とても見られたものではありません。


「ふん、少しは考えたな。だが――」


 ジネディーヌ様の瞳の現像が宙に浮かび重なり合いました。その瞬間、<邪視>の衝撃が荒れ狂い会場を覆い尽くしました。


 悲鳴をあげ、招待客たちが倒れこみます。


 溶けてどこどろの石像さながらだったアルトゥール様たちですが、身を覆っていた生コンが一瞬にして固まり砕け散りました。


「!」


 結っていたアルトゥール様の髪が解け、豊かな栗毛色のそれが肩に垂れ下がりました。

「今だ!」


 それでもひるまずアルトゥール様は次の一手を打ちます。


 その合図でチェシャは腰に結んだ巾着に手をやると、不思議な種を一粒出しました。


 その種はみる間に発芽、たちまちのうちに成長して、伸びた蔓がジネディーヌ様の死角を突きました。


「う!」


 蔓はジネディーヌ様の身体に絡みつき、ぎりぎりと縛っていきます。


 その隙にシュンスケさんはジネディーヌ様の背後をとり、首に腕を回しました。何かあればすぐ締め落としてしまう体勢です。


 チェシャも小柄な身体でジネディーヌ様の膝元に必死にしがみつきます。


 ジネディーヌ様が身体の自由を奪われたのを見届けると、アルトゥール様は栗毛色の豊かな長髪を振り乱し、嘲笑するような笑みを浮かべました。


「ひとたび<邪視>を放てば次の一撃まで平均二秒必要。リサーチ済みさ」


 アルトゥール様はすたすたと距離を詰めていきます。


「ジネディーヌ! 私というものがありながらよくも!」


 アルトゥール様の激しい声音にノビルさんは、いえ、そこに居た一同は皆、これはいかなる茶番劇かと首を傾げました。


「まあいい、媚薬は完成済み」


 アルトゥール様は懐から小ビンを取り出しました。


 ですが、


「無粋な」


 ジネディーヌ様が冷ややかに一瞥すると忽ち小ビンは砕け散り、こぼれ落ちた液体が絨毯の染みとなりました。


 さしものアルトゥール様もこれにはむっとした表情を浮かべました。


 身動きの取れないままジネディーヌ様はおもむろに語りかけました。


「アルトゥール、いやジョセフィン――」


 はい、アルトゥール・コインブラは男装の麗人、そしてジネディーヌ様の従妹ジョセフィンその人だったのです。


「女の人だったの」


 ノビルさんはどうして今まで気づかなかったのだろうと狐につままれたような表情です。これには理由があるのですが、それは後回しにします。


「私は己の理想を追い求めるのみ。お前は故郷に帰れ」


 ジネディーヌ様の心は自分に向いていない、それを知ってはいてもアルトゥール様は懸命に彼を追いかけ旅を続けていたのです。


「いい加減認めなよ。レオノーレ姉さんは産褥の床で死んだ。もう帰って来やしない」


 視線を落としたアルトゥール様はぽつりとつぶやきました。


 レオノーレ様はアルトゥール様――ジョセフィンの姉であり、ジネディーヌ様の従姉です。金髪の清楚で穏やかな娘だったそうですが――


「あのとき嫁に行かずば、ああならずに済んだものを」


 ジネディーヌ様のつぶやきにチェシャは憐れみの眼差しを向けました。


「心のどこかで時が止まったままなのですね」

「結局、あんたは姉さんの影を追い求めてるだけなんだ」


 アルトゥール様の瞳はどうしてそれに気づかないのかと訴え続けています。


 そう、ジネディーヌ様は心の奥底でレオノーレ様の影を追い求め、さ迷い続けているのです。


「確かに。渇望しても決して癒されぬ運命さだめ。私はどこで道を踏み外してしまったのだろう」


 稀代の放蕩者にまさかそんな一面があろうとは思いもしなかった、肺腑をえぐる悲痛な嘆きは聴衆の涙を誘いました。


 アルトゥール様はそんな彼に優しく手を差し伸べました。


「帰ろう、アフランシに。帰ろう、そして――」

「と、思ったが、やはり千人目を頂いてからにしよう」


 ジネディーヌ様の扱い方をよぉく心得たアルトゥール様ですが、しれっとした態度に流石にぷちっとキレました。


「このペコポン!」

「お前こそ、執着心を捨てねば般若の面が取れなくなるぞ」


 まさか、髪を振り乱し恨みつらみが刻まれた激しい表情を自分はしているのか、アルトゥール様はぎくりと身体をわずかに震わせましたが、すぐに気を取り直しました。


「昔、約束しただろう!」

「子供の約束なぞ破られるもの」


 二人は許婚の間柄でしたから、アルトゥール様はその約束を愚直なまでに守り、ジネディーヌ様にも求めているのです。


「こうなったら、刺し違えてでも!」


 怒りの余りかっとなって我を失ったアルトゥール様は腰の宝剣に手をやり鞘から抜き出しました。


 ですが、ジネディーヌ様の思う壺でした。<邪視>の衝撃が再び荒れ狂いました。


「うわっ!」


 アルトゥール様、それにジネディーヌ様を押さえつけていたシュンスケさんとチェシャも床に倒れ伏しました。


 戒めの蔓は細切れとなってしまい、ジネディーヌ様は再び自由を取り戻しました。


 と、会場左手の窓ガラスがぶち破られました。


「ご主人、準備が整いましたでやんす」


 いつの間にやら、抜け目なく脱出の手はずを整えたワンチョペが手招きします。


 ジネディーヌ様はすかさず駆け出し、階下に飛び降りました。


 窓枠越しにすうっと気球の篭がせり上がってきました。ジネディーヌ様とワンチョペがあざ笑うようにこちらを見ています。


「我が主の病気は死ぬまで直らねえでやんすよ」


 ワンチョペの捨て台詞に、未だしびれの消えないアルトゥール様は床に這いつくばると弱々しく手を差し伸べました。


「に、逃げるな……」


 そこで力を使い果たしたアルトゥール様はがっくりと崩れ落ちました。


 その間に気球は虚空へと消えていきました。

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