9. アルトゥール、パーティーに潜入する

 週末になりました。夕焼けが空を、ヨノヲスの街を茜色に染めています。


 街の中心にあるホテル・ヨノヲスのエントランスへ来賓客たちを乗せた高級車がぞくぞくと集まってきています。そこに黒塗りのリムジンが停まりました。


 降りてきたのはノビルさんとナシロさんです。二人ともドレスに身を包んでいます。


 ナシロさんが裾を摘まみました。


「見て。ジネディーヌ様が下さったドレス、ぴったりだわ」


 ええ、ワンチョペの見立てはいつも確かです。それはともかく、レースもフリルもほとんど無いシンプルなデザインのドレスですが、それが却って年頃の娘の華やぎを引き立てています。


「行きましょう。はじまるわ」


 ノビルさんが促しました。


 同じ頃、公園ではシュンスケさんがぽつねんとベンチに腰掛けていました。


 ノビルさんが街の高級ホテルで催されるパーティに出席することにシュンスケさんも薄々は気づいてました。女心と何とやらと世の中では申しますが、シュンスケさんはこれからどうしたものか、ぼんやりと同じ考えを繰り返し繰り返し牛のように反芻していました。


 ええ、ジネディーヌ様は虎視眈々とノビルさんを狙っているのですから、恋敵に塩を送るはずもありません。


 と、彼の前に人影が差しました。


 気づいたシュンスケさんが面を上げると、アルトゥール様とオトゴサのチェシャでした。


「どなただよ?」


 アルトゥール様はいきなりシュンスケさんの胸倉をつかむと引き寄せました。


「わっ、何するかね!」

「君、ノビルの彼氏だよな?」

「一応……」


 もしかしてこの青年もノビルを狙ってる? シュンスケさんは消え入りそうな声で答えました。


「トバツで聞いた。彼女が、いや、町娘の操が危機に晒されている」


 アルトゥール様はといえば真剣そのものの表情で睨みます。もっともシュンスケさんはその危機が何なのか未だ呑み込めずにいますけれど。


 チェシャがオーバーオールの胸ポケットからホテル・ヨノヲスへの招待状を三通差し出しました。


「偽造したものですが――」

「分かりゃしないよ」


 つっけんどんにアルトゥール様は答えました。


「それより君、今からホテル・ヨノヲスに乗り込むぞ。覚悟はいいな?」


 かくかくしかじかとまくしたてるアルトゥール様の熱気にあてられてか、ようやくシュンスケさんも奮起したようです。


「何としてもノビルを取り戻さねば。男がすたる」

「その意気だ。頼むよ、キミ!」


 アルトゥール様がシュンスケさんの肩をパンと勢いよく叩きました。


 三人は互いの腕時計を見せ合いました。


「よし、三、ニ、一、時刻合わせ!」


 腕時計の時刻を合わせると、作戦開始です。


 アルトゥール様たち三人組はノビルさんを奪還すべくパーティ会場に向け駆けはじめました。


「シュンスケ、君、武道か何か心得はあるか?」

「柔道を少々」

「それで十分。一つ気をつけろ。ジネディーヌの目を見ちゃいけない」


 はい、<邪視>の持ち主ですから、並の者では到底太刀打ちできません。アルトゥール様は念を押しました。


 日はとっぷりと暮れて、彼方に灯りに照らされたホテル・ヨノヲスのシルエットが浮かび上がりました。


 続きの間の仕切りを全て外した大広間がパーティ会場です。


 ゆったりとした古典派の音楽が楽団によって演奏されています。


 招待された人々の顔ぶれをみると、各界の名士たちでした。


 ええ、借金に借金を重ねるジネディーヌ様ですが、抜きん出た才能の持ち主でもありまして、ここ数年取り組んでいた仕事の完成お披露目となったのです。こないだの債権者や出資者たちもこれで回収の目途が立ったと安堵した様子で和やかに談笑しています。


 なごやかに歓談する人々から離れ、壁際でノビルさんとナシロさんが所在なさげに立っていました。


「私たち、何か場違いだね」

「うん……」


 会場の誰もが華やかな生活を謳歌しているように見えます。町娘のノビルさんやナシロさんにとっては遠い世界の出来事同然でした。


 実はですね、ジネディーヌ様が秘術をかけていて、ノビルさんの姿は会場の誰にも見えていないも同然なのでした。


 でも、若さで溢れた壁の花を男性が見逃すはずもありません。一人の若者がナシロさんに声をかけてきました。


「あ、はい」


 若者の誘いに応じたナシロさんはノビルさんにウィンクすると会場の奥へと向かいました。


 独り残されたノビルさんでしたが、彼女の許にジネディーヌ様が現れたのです。


 そのときのジネディーヌ様は皺一つないぱりっとした礼服姿だったそうです。


「これは何と美しい壁の花」


 その言葉に思わずノビルさんは頬が紅く染ってしまいました。


 華やかなパーティの主催者はどこから見ても非の打ち所のない大人の男性。町娘のノビルさんにとっては別世界の人間同然です。


 ――どうして? どうしてこんなに胸が締めつけられるの?


 ただ一度すれ違っただけなのに、その声は柔らかな響きで心が拠り所を失ったようにぐらぐらと揺れ、いっそ身を投げてしまいたいとさえ思います。


 はい、実は例の媚薬がちょっとだけ効いていたのです。加えてあのときノビルさんはジネディーヌ様の眼をまともに見てしまっていたのです。でも、当のノビルさんは媚薬と<邪視>の虜になったとは露一つも気づいていません。


 ノビルさんの震える手をジネディーヌ様は大事なものをそっと包み込むようにして手にとりました。


「今宵の主賓はノビルさん、あなたです。皆に紹介しましょう」


 アルトゥール様とシュンスケさんがどうにか受付をやり過ごしてパーティ会場に潜り込んだそのとき、会場の奥でジネディーヌ様と並ぶノビルさんの小さな後ろ姿が目に入ってきました。


「しまった! 遅かった」


 アルトゥール様は歯噛みしましたが、すぐ気を取り直しました。いわゆるプランBですね。アルトゥール様は既に何度も出し抜かれていますから、いわば経験値を積んでいた訳です。


 ノビルさんを伴ったジネディーヌ様は主だった来賓に挨拶してまわります。何年も前から急かせてきた仕事がようやく完成し、来賓たちも上機嫌です。それに何といっても美しく着飾った娘盛りのノビルさんがいるのですから。


 ふと、ノビルさんの表情が曇りました。


「どうなさいました?」

「気分が優れなくて……」

「なら休憩なすっては? 最上階のスイートなら静かで心休まるでしょう」


 ノビルさんはジネディーヌ様の瞳を見つめ返しました。瞳の光は失われ、ジネディーヌ様の誘うがままこくりとうなずきます。


 華やいだ会場の裏は配管がむき出しの業務用通路となっていて、ステンレス製のワゴンに料理の皿を満載し、ホテルマンたちがせわしなく駆け巡っています。料理は滞りなく運ばれているか? 来場客に失礼はないか? 何せこれだけの大掛かりな催しはホテル・ヨノヲスといえど滅多にあるものではありません。


 怒号と勘違いしてしまいそうなやり取りが厨房を行き交います。そんな業務用通路の物陰をささっと駆け抜ける影がありました。はい、チェシャです。


 リュックサックを背負ったチェシャは脚だけチョコマカと動かしては素早く物陰から物陰へと駆けていきます。その姿を見る度まるでゴキブリだとアルトゥール様は腹を抱えて笑うのですが、それはともかく小柄なチェシャが抜け目なくあちこちに忍び込んでは出ていくその姿に目を留める者は不思議といませんでした。


 アルトゥール様は腕時計をちらと確認しました。


「そろそろだな」

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