4. 種使いのチェシャ
昨日までの快晴は一転、暗く厚い雲が低く垂れ込めて、今にも大粒の雨が降ってきそうな気配です。
商店街はちょうど近所の学校がひけた時間帯で女学生や女子生徒たちでにぎわっています。
アルトゥール様は一片のメモを手にゆったりとした足取りで商店街を進んでいきます。
鳥の羽根をあしらったつば広の帽子はとても目立ちますが、すれ違うものは皆、異国からの旅行者に特に関心を払うでもなくそのまま過ぎ去ってしまいます。
一軒の店の前でアルトゥール様は立ち止まり、ガラスに映る自分の姿に目をやりました。
刈安で染めた薄淡い黄色のシャツにえんじのジャケットを羽織り、ループタイが胸元のアクセント。グレーのスラックスを履いて革靴は先の丸い歩きやすそうなものを選んでいる――どこか復古調のその姿に不審な点は無いか、ざっと確認すると再びアルトゥール様は歩きはじめました。
しばらくしてアルトゥール様は立ち止まりました。手にしたメモと看板を見比べます。
はい、そこが『甘味処トバツ』です。
間違いない、ここだと繰り返すとアルトゥール様は暖簾をくぐりました。
トバツの店内は学校が引けて寄り道した娘たちで賑わっています。アルトゥール様は空いた席を見つけると、出入り口側に向けて座りました。
すぐに紺の作務衣姿のウェイトレスがお冷を持ってきました。
はい、その娘さんはナシロさんと言ってノビルさんの友人で、当時はトバツでアルバイトしていました。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになったらお呼びください」
ナシロさんは見慣れない客にとびきりの笑顔を向けました。
「あ、人を待ってるから。とりあえずコーヒー、ホット」
よそ見していたアルトゥール様は振り返ると優しげな口調で答えました。
「かしこまりました」
そう応えてナシロさんは奥に下がりました。今はセミロングの黒髪を後でまとめ動き易い格好をしていますが、普段着のときは娘らしくとても可愛い方でしたよ。
早速ナシロさんは離れたところから見慣れない客の様子を伺いはじめました。
「ね、あの人ちょっと素敵じゃない?」
話を振られたノビルさんはくすりと笑いました。
「男の人独りで珍しい」
ええ、甘味処ですからほとんどは女性客です。男性もいるにはいますが、大抵は女性を連れています。だから独りで甘味処に入ってきたその青年は嫌でも目立ってしまいます。
「きっと隠れ甘党よ」
そうナシロさんは見当をつけます。
「でも、恥ずかしそうなそぶりじゃないわね」
「そうそう。隠れ甘党の人って凄く周りを気にするのよね」
奥から覗くアルトゥール様はゆっくりとコーヒーを飲んでいて、特に周囲の視線を気にする風でもありません。そうそう、帽子をとったアルトゥール様の後ろ姿をみると、栗色の髪を後ろで束ねているのが分かります。凛とした立ち居振舞いで、しかも美形ですから次第に周囲の娘たちの視線を惹き寄せるようになりました。
同じ頃、ヨノヲスの街を訪れた少女がいました。黒めがちの瞳にバラ色の頬、ややのっぺりとした童顔でショートボブの黒髪がよく似合っています。
薄手のスウェットシャツに裾を折ったデニムのオーバーオールと飾らない姿をしたその小柄な少女はふと路傍の雑草に目をやりました。
「これはマンダリン草ですね」
その草を摘むつもりなのでしょう、少女はしゃがむと胸ポケットからビニール袋を取り出しました。
腰をみると何が入っているのやら、巾着がしっかりと結わえつけられています。
マンダリン草の茎に手をやって摘みはじめたところでポツポツと雨が降ってきました。
雨はやがて本降りとなりました。
アルトゥール様はトバツの店内でしとしとした雨音にじっと耳を傾けています。
扉が開くと雨音が勢いよく室内まで響いてきました。雨避けか、先ほどの少女が傘たてに赤い傘をしまい甘味処トバツに来店です。
知り合いなのでしょう、気づいたアルトゥール様が軽く手を振りました。それで、その少女もアルトゥール様の向かいに腰掛けました。髪がわずかに濡れています。
「チェシャ、遅い」
アルトゥール様はにこりとしました。はい、その少女がオトゴサのチェシャです。
「少し寄り道してしまいました」
チェシャはビニール袋を示しました。中に先ほど摘んだ野草が入っています。
奥で様子をうかがっていたナシロさんとノビルさんは美形の青年がおよそ十一、二歳くらいの少女と待ち合わせしていたのが意外だったようで、
「妹か従妹かしら」
「あ、あたしがいく」
言葉を交わすと、興味を抱いたのかノビルさんがお盆を手にしました。
「いらっしゃいませ」
今度はノビルさんが奇妙な二人組の様子をうかがいます。
「私はあんみつ」
チェシャはお品書きを見るでもなく勝手知った風にさらりと注文しました。
一方、アルトゥール様はといえば、じいっと目を細めお品書きとにらめっこしています。
「……お決まりですか?」
ノビルさんはきょとんとした表情です。
アルトゥール様は気だるそうに言いました。
「ぜんざい、ぜんざい。甘党ならそうオーダーするであろうよ」
テーブルにあんみつとぜんざいが並びました。
「ごゆっくりどうぞ」
そう言ってノビルさんは下がりました。
アルトゥール様はより目でじっとぜんざいを観察していますが、中々手をつけようとしません。
「……チェシャ、お先にどうぞ」
「では、いただきます♪」
チェシャはにこにこ顔です。
「甘いものさえあればチェシャはご機嫌だな」
ええ、チェシャは甘いものに目がありませんから、いつも嬉しげな顔をするんですよ。
ようやくアルトゥール様も恐る恐る箸を手にしました。
「餡子嫌い、克服せねば……」
それでノビルさんとナシロさんも納得したのですが、アルトゥール様は隠れ甘党などではなく、むしろ餡を苦手にしていらしたのです。
ええ、西洋の異国育ちのアルトゥール様ですから、東洋の食材には慣れていらっしゃらないのです。
箸で摘まんだ小豆を恐る恐る口に入れると、よく煮えた小豆の甘さが口の中に広がります。
「……うっ……」
ところが、これがアルトゥール様にとっては苦行に等しいのです。
西洋育ちのアルトゥール様ですからチョコレートやケーキなどはお好みでした。しかしながら甘ったるいだけとしか思えない小豆餡、ハポネの女の子たちはどうしてこんなものを好むのか理解しがたいと切々と訴えるようにアルトゥール様は目を白黒させました。
はい、他にも色々メニューがあるのですが、どうせなら最難関に挑戦しようと試みてはあまりの甘ったるさに挫折を繰り返すのです。
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