第九話「赤蜻蛉を眺める女(ひと)」

「よく中途半端な田舎の山に、大きな屋敷とかありますよね。この先私有地に付き進入禁止みたいな看板が脇道に置いてあったりする」

「それなら普通に近隣にありますよ。いや、知ってるだけで入ったこと無いけど、不法侵入だし」

「で、私の家の近所にも山の中に立派な洋館が建ってるんですけどね。出るらしいんですよ」

「ベタすぎ」

「ああいう所って無人なの多いよね」

「まぁそれだけならベタなんですけど、私の知っている所もいつもは無人なんですけど、夏にある時期にその家を所有している一族が集まって、宝探しをしてるとか何とか」

「宝探し? 遺産とか……」

「まぁ部外者なので詳しくはわからないんですけどね。で、一回その噂を聞きつけた空き巣がその屋敷に忍び込んで……朝方に顔面蒼白で警察に駆け込んで、それがえらく近所で話題になりまして、もう気味が悪いのなんの、遠くから屋敷の二階が見えるんですけど、何か視線を感じるというか、怖いんですよねぇ。住んでないなら取り壊して欲しいんですが」

「じゃあその空き巣が警察に駆け込んだ理由って、見たんですよね」

「ええ、見たらしいんですよ。しかもご丁寧に写真まで撮っていたらしく逃げ込んだ警察に見せたからもう騒ぎになって……で、その写真には、やっぱりこの世の者じゃないものが写ってたらしいんですよ。警察も色々調べたんですけど、機械で弄って加工したとかじゃあ無かったらしいって。いや、本当に怖いですよね」

「嘘乙」

「↑こういう奴は確実に友達いない」



――ある日のオカルト版より。



 俺は今スーパーのタイムセールを戦い抜き、戦利品を持ち帰っている。

 大黒目を倒して三日後、俺は住み慣れたあのアパート「秘密基地」へと夏穂と共に向かっていた。因みに夏穂の奴、小黒目と戦う前にララエルさんにして貰った二点止めのポニーテールが気に入っているのか、外出する時はこの髪型にするようになった。少しは女らしくなった、ということなのだろうか。

「しかし、何というかあっという間の三日間だったなぁ」

 大黒目を倒してから翌日、健史さん指導の元俺は健史さんと色々と研究していたのだ。元々爺さんが国宝学園の学園長に頼んでいた俺の強化実習で、最初はそれほど乗り気では無かったが図らずとも人類最強と名高い複合術師に教えて貰える運びとなったのは幸運と言える。

 今後の地獄からの脱獄者である人斬り連中との戦いは激戦となるだろう。何より俺に火をつけたのはあのノアだ。対物ライフルで大黒目を追い詰めたのは紛れもなくあいつで、あの戦いで俺はさほど役には立たなかった。京極三長柄を手に入れても、まだまだ俺は弱いままだ。

 なので長物の武器を使った修行でもして強くなろうとと意気込んでいたのだが、頭を冷やして考えてみればそもそも強化結界の強みは“鍛錬せずともその武器を扱う技術を手に入れれる”という能力なので、技術において鍛える部分があるとすれば大黒目戦でほとんど偶然で成功させた強化結界と京極三長柄の同時展開、それともう一つ、しかも優先して会得しないといけない技術があった。

「京極三長柄、残り二つの召喚がなぁ……」

 そう。せっかく手に入れた我が家の家宝、俺は現段階においてその三本ある内の一本しか出せていないのだ。


 

 強化結界の解析能力も万能ではない。ある程度はわかるが、武器の力が強すぎたり、能力が複雑すぎると解析しきれないのだ。それに強化結界の解析は戦場の中での瞬間把握に特化した術だ。

 いくら時間を掛けても俺の技術では解析できる部分は限られている。

 なので健史さんとはこの三日間、京極三長柄のもう二本の召喚方法について一緒に研究していたという訳だ。いやまぁ、これといった成果は無かったのだが。

「八手ー、何ぶつぶつ言ってんるんだよぉー。荷物重いー、早く帰ろーよー」

 と、隣で買い物袋を手にぶら下げた夏穂が文句を言ってくる。この三日、机に噛り付いて、全部暗号で書かれていた分厚い本を読んだり、健史さんに「ちょっと試したい術があるんだけど……古い物を体から出す召喚術なんだけどさ、やってみる?」と言われ、一時間ほど原油を手から出せるようになったそれはもう泣きたくなるぐらい素晴らしい思い出に浸っていたというのに、水を差さないでもらいたい。

 いや本当に涙が出そうだ。こいつが原油を出せるという人類史に置いて初めての奇跡を起こした俺を見て、それはもう指さして大いに笑っていたのを俺は生涯忘れないだろう。あの時は本気で焦ったんだからな!

「お前が俺が原油精製器となった時、嘲笑ったのを俺はまだ覚えているからな……」

 そう、忘れない。というか忘れられない。あの時「あ、ヤベ……」という感じで本気で焦っていた健史さんの顔と一緒に俺の心に刻まれてしまっているのだ。

「確かにあの時は笑ったけど、何か今考えたら凄く勿体なかった気が、あのままだったら原油売って大金持ちだったのにな」

「まぁ金は入るだろうが……あのままだと世界中の科学者からどうやって原油を出しているか徹底的に調べられそうだ」

 いや本当に、そして歴史の教科書に資源問題を解決した偉人として名前が載っていたかもしれないが、俺の人権的な物が大いに犠牲になっているのは確実なので、できれば遠慮したい。お金より、いや、命より大切な物はこの世には確かにあるのだ。そうだな、食費とかな……あれ、それ金じゃね?

 と、夏穂と馬鹿話をしていると、目の前に見慣れた人影を発見……したと思ったが違う。一瞬知り合いかと思ったがあれは知り合いではない。あんな素顔を長い髪で多い被せた愉快な奴に俺は過去関わったことはないのだ。なんだあれ、何かの間違いでホラー映画から幽霊が出て来たのか?

「……なぁ、あれ幽霊か?」

「いや、それはないぞ夏穂、周りを見ろ」

 目の前にいるあれは霊体ではなく実物だ。その証拠に周囲の人間がじろじろと見てから避けて歩いていく。先ほどスマホを見ながら歩いていた若い男性何か、一瞬前を見た瞬間あの危険人物を見た瞬間、二度見してから叫び声を上げてたし、通り過ぎる全員に見えているのは間違いない。

「夏穂? 知り合いか?」

「馬鹿を言え、あんな不審者知らない」

 だよなぁ。じゃあなんであの不審者、俺たちを見つけた瞬間、両手を地面に置いてから、それはもう綺麗なクラウチングスタートの態勢になったんだろうか?

「なぁ、夏穂」

「おい、八手」

 お互いの名前を呼ぶ。それだけで相方との次の行動の打合せは終了、というかあんな物を見たら次に行う行動は決まってんだよ。追われるならば、逃走あるのみだ。


「「うをぉおおおおお!」」


 見慣れたご近所を仲良く二人で全力疾走。しかし夏穂と俺、貧乏根性が染みついているのか緊急事態に関わらずお互い食材が入ったビニール袋は破棄せずに足並みをそろえての逃亡劇だ。悲しいかな、なけなしの食費を消費して買った食い物はやはり命より大切なのであった。

「なんだあの人、なんだあの人、なんだあの人!」

「知らん!」

 恐怖からか半狂乱で取り乱す夏穂を横に、俺は今後の逃走経路を頭で組み立てる。相手の興味は俺たちにしかないみたいで他の通行人には向けられていない。この時間ならば来た道を戻ってスーパー帰りの主婦の中に紛れ込めば上手く撒けるかもしれない!

「夏穂、来た道を戻――」

「うふ、ふふふ、うふふふふ」

 と、何かすぐ後ろからぎこちない笑い声が聞こえてくる。おいおい何という健脚だ。ホラー映画の住人は荷物を持っているとはいえ運動神経に自信がある俺達にあっさりと追い付いたのだ。しかし、だ。この笑い声には覚えがある。

 なんで気が付かなかったんだ? 一瞬体のシルエットでこの人かと思ったのだが、いや、この人がこんな所にいるはずがないと無意識で否定してしまったのだろう。

「あの……黒沢先輩ですか?」

「うふ、ふふ、ふふふ。気づいちゃった?」

 そう言って俺と黒沢先輩は少しずつ減速して立ち止まったが、夏穂はまだ混乱状態なのか蒸し暑い京都の町中を全速力で走っている。いかん、これではご近所で変な噂が立ってしまう。いやまぁ、もうすでに主夫の井戸端会議(不審者報告会)の議題にされてしまいそうなことをしてしまったのだが……。

「おーい夏穂ぉお! 戻ってこーい」

「え! 八手が捕まった!」

 俺に呼びかけられた夏穂が躓(つまず)きそうになりながらも、何とか日本の足で急ブレーキを掛け立ち止まる。それと、どうやら俺が捕まったと思っているようだが違う。心配してくれるのは嬉しいがそうじゃない、戻ってくるんだ夏穂……ああ、黒沢先輩のことを警戒して郵便ポストに隠れながらこちらを覗い、一向にこちらに来る気配が無い。こりゃ暫くこっちに来そうにないな。

 では取りあえずあいつは放置しておくとして、まずは黒沢先輩だ。いつもは大学で都市伝説研究会でしか見かけないこの御仁がどんな理由でこんな奇行に走ったのか、その理由を暴かないといけない。

「で、なんでこんなことしたんですか?」

「あら、面白く無かったかしら?」

 小さな微笑みを作って顔を覆い隠していたカツラを脱ぎながら俺の質問に簡潔に答える黒沢部長。こんな悪戯の為にそんな物をわざわざ用意していたとは、相も変わらず変人である……しかし、カツラを取っても地毛の前髪で目が隠れる位置まで髪を伸ばしているので対して変わらないのだが、まぁ先ほどよりは見栄えはいい。

 しかしいつも本ばかり読んでいるイメージがあるのでこれほど足が速いとは思わなかった。案外運動神経が良いのだろうか?

「黒沢部長、意外に足が速いんですね。驚きましたよ」

「あらそう、これぐらい普通だと思うのだけれど? 八手君もそんな荷物を両手に持って速かったじゃない? それとあの人も健脚で……」

 そう言って夏穂の方をチラリと見る黒沢部長。小さな仕草でもこの人がすると妖艶というか呪術的、なおかつ怪しい雰囲気を醸し出すのは何故なのだろうか?

「やぁ、やぁつでぇ~……逃げるぞ~」

 と、情けない声を出してこっちに手招きしてくる夏穂、あのな、お前ビビりすぎだろ。そりゃあ初対面であんなことされたら驚くが、少しオーバーリアクションだ。

 いや、よく見ればなけなしの勇気を振り絞って先ほどより三メートルこちらに近づいて来ている。うーむ、ならばその頑張りを認めないといけない。頑張れ夏穂、いい機会だしその人見知りを克服するんだ。

 というより真面目な話、先日、黒沢部長にあいつを紹介するよう頼まれたのでここできちんと挨拶をさせたいのだが……。

「すみません。うちの相方が失礼を」

「いえ、気にしませんよ。それより、最初見た時綺麗な人だと思ったけど随分と可愛らしい性格をしていらっしゃるのね。あの方」

「ああ、中身は子供なんですよ。あいつ」

 そう、確か優一先輩が言うには夏穂の精神年齢は十歳ぐらいと考えた方が良いと仰っていたが、そんな特殊な事情を黒沢部長に詳しく話す訳にもいかないので話題を変えよう。そうだ、そう言えばこの人がこんな所にいるなんて珍しい。

「ところでこんな所で奇遇ですね。この辺に用事があったんですか?」

「奇遇ではないわ。今日は貴方を探してここに来たのよ八手君」

「あれ、俺の家の住所教えていましたかね?」

「いえ、教えては貰ってないわ。今朝ちょっと調べてね」

 そうか、ちょっと調べたのか。大学でも俺の家の住所知っている人間がいるとすれば、履歴書とかの個人情報を管理している人間ぐらいなのに、怖いなぁーこの人。

「電話をしてくれれば、後日にでも大学に顔を出しましたよ?」

「そうもいかなくてね……急ぎの用事があって」

 そう言って顎に手を当て、表情を曇らせる黒沢部長。この人がこんな表情をするのは初めて見る。いつもは彫刻の様に美しい無表情かぎこちない笑みを浮かべたところしか見れないので、人間らしい表情をした黒沢部長を見て少し感動すら覚えたほどだ。

「では暑いので俺の家で話を伺いましょうか? 喫茶店より近いですし」

 それに情けない話、出費も抑えたいし。

「あら、女の子を部屋に連れ込むなんて……意外に八手君、馴れているのね」

「何に馴れているとはあえて聞きませんが、俺の部屋に入ったことのある女性はアパートの管理人とあそこで震えている夏穂ともう一人ぐらいですよ」

 因みにもう一人とは蓬のことであるが、ここであいつの名前を出して根掘り葉掘り聞かれても面倒なので言葉を濁すことにした。この人俺の異性との関係にやたら興味があるというか、それをネタにからかってくる節があるのでこう言っておかないと面倒なのだ。

「そうね。あまり人通りが多い場所でする話でもないですし……案内してくれると助かるわ、八手君」

 ではあの狭い愛しの我が家へと帰るとしよう。だがその前に、あいつをどうにかしないといけない。

「夏穂、いい加減こっち来い。この人は俺が通ってる大学のサークルの部長だ。別に噛み付いたりしない」

「……うん」

 元気の無い返事をして渋々こっちに来る夏穂。うーむ、まぁ黒沢部長は少し意地悪なところはあるが悪い人ではないし、そのうち懐くだろう。

 京都の夏は蒸し暑いが、ここ数日鬱陶しい暑さも少しだけ和らいだ気がする。そうか、夏もそろそろ終わるのか。俺は蝉の死体に群がる蟻を少し視界に入れてから、仏閣が少し多い見慣れたこの街を歩き出した。



 私は今、住んでいる部屋で黒沢部長と名乗る脅威を相手に、ちゃぶ台越しで警戒をしている。

 八手が通う学校のなんだっけ、都市伝説を調べている変なサークルのボスらしい。それで八手はその下っ端、つまり八手より権力がある人物ということだ。私が下手なことを言ってご機嫌を損ねてしまうと、八手が社会的に抹殺されないので気を付けないといけないのだが、この人物かなりのいじめっ子と私の本能が告げているのだ。

 なので失礼のないように注意を払うのではなく警戒、一瞬でも隙を見せてたら私が弄り倒されてしまう。

「うふ、うふふふっふふ」

 そして先ほどから変な笑い方をこちらを観察しているのだ。怖い、取りあえずこの笑い方が怖い。恐るべし八手のボス、笑い声だけで私を精神的に追い詰めるとは侮れない。なので私は臆病な犬の様に小さく唸り声を出して威嚇してみる。うぅー!

「あら? 嫌われちゃったかしら、私は黒沢 麗子っていうのだけれど、貴女の名前を教えて貰えないかしら?」

「な、なつ、な……夏穂」

 な、何となく自己紹介してしまった! 恐るべし、個人情報をあっさりと引き出されてしまった!

「夏穂さんってお名前なのね? 素敵な名前ねぇ」

「う、うぅぅぅぅぅぅ!」

 く、今度は少し本気になって毎朝郵便屋さんに敵対心を向ける犬の様に強く唸って威嚇してみる。これ以上情報を明け渡してはいけない。

「ふふ、可愛いわね。私、実は昔から妹が欲しかったのよ。仲良くしたいわ」

 しかし効果はいまいち、それどころか私を妹分にしたいと言ってきた。世の中長い物には巻かれろ……だったか、自信ないけどそんなことわざがあった気がする。時には権力者に尻尾を振るべきなのだろうか?

「おーい夏穂ー、黒沢部長に失礼がないようにな」

 と、八手が先ほど安く買ってきた梨を剥いて持って来た。警戒止め! 梨だ梨!

「梨ぃー!」

「おい、黒沢先輩の分もあるから食べ過ぎるなよ」

 何を言う! 暑い中全力疾走したんだぞ、果物も美味しくなるというものだ! なので食べ過ぎてもそれは不可抗力というものだろう!

「まったく、食べ物一つでご機嫌だなこいつ。おい、汚ねぇな涎が出てるぞ」

「あら、やっぱり可愛い人だったわね」

「夏穂が可愛い、ですか?」

「ええ、先日電話で夏穂さんの声を聞いた時、可愛い人なんだなっと思って会いたくなったのよ。私、昔は妹が欲しくてね」

「ああー、そんな理由で会いたかったんですか」

 電話? ああ、何か資料を取りに大学に来てほしいと八手の携帯に電話を掛けてきた時、私が出てしまい何かこいつの彼女と誤解された時のあれか。あの時は焦って風呂に入って体を洗っていた八手に謝りに行ったほどだ。

「ところで黒沢部長、今日はどのようなご用件で?」

「ええ、実は少し家の問題に手を貸してほしいの」

「御家騒動、ですか?」

「そうよ。私の家は少しばかり裕福で、長い間、遺産相続問題を抱えているのよ」

 私が梨を堪能していると、なんだか難しい話が始まっていた。遺産の問題かぁー、ああいうのは人間の醜さが出るからなぁー。

「すみません。俺は弁護士ではないのでそれほど力にはなれませんよ」

「法律面は心配なく、亡くなったお爺様専属の弁護士が公平に判断してくれるわ……それよりも、八手君に期待しているのは、陰陽師としてよ。八手君も見える人なんでしょ?」

「……やはり、わかっていたんですね。というより黒沢先輩も霊視ができるんですか?」

 む? 何か八手が陰陽師ということがばれて、さらに黒沢部長も霊が見える人らしい。まぁいい、取りあえず梨だ……え、ばれてる!

「黒沢部長は聡(さと)いのですでにお気づきかとは思っていましたが、陰陽師ということまで知っているとは」

「噂を聞いたのよ。私の通っている大学に陰陽師がいるって……貴方が昔、解決した事件も聞いたわよ。妖怪退治に幽霊退治、手広くやっているみたいじゃない」

「まさかそんな噂だけで俺が陰陽師だって突き止めたんですか? ですが、その、俺にできることなんて倒すだけなんですよ。結界や式神を作ることができない役立たずの陰陽師で、場合によっては他の陰陽師やら霊媒師に頼んだ方が宜しいかと」

「あら、あまり自分を過小評価するのは感心しないわね八手君。その謙虚な姿勢を見て本気で貴方が劣っていると勘違いして馬鹿にしてくる連中が出て来るわよ」

「はは、そうですね。ご忠告ありがとうございます」

 いつも口調が荒い八手が丁寧な言葉を使っている。仕事の時はいつもこうなのだが、今回はプライベートなのに礼儀正しいので変な感じだ。まぁいい、梨だ梨……いや、いい加減話に参加しないといけないよな。

「で、八手に頼みたいことって何なんだ?」

「おい、夏穂。乱雑な言葉使いは止めてくれ」

 と、私にも丁寧な対応を求めてくるが、そんなこと言われても困る。少しなら私でもできるが、どうせその内緊張が解けていつも通りの口調に戻ってしまうのだから今無理してもあまり意味は無い。

「そうね。取りあえず話を進めましょうか」

 と、黒沢部長が私の意見を聞き入れて話を進めようとする。すると八手は姿勢を正して話を聞く姿勢を作った。釣られて私も姿勢を正す。

「私の家には別荘があるのだけれど、そこは昔亡くなったお爺様とお婆様が新婚時代を過ごされた家でね。お爺様が残された遺書によると、そこにまだ見つかっていない遺産が隠されているらしいのよ。それで毎年夏の終わりに、弁護士が立ち合いの元親族で遺産探しをしていたの」

「で、その遺産を俺に探して欲しいと……物探しは余り得意ではないのですが、霊視で物探し何て器用なことはできませんよ?」

「いえ、それもできればして欲しいのだけれど、去年からその別荘に悪霊が出始めたのよ」

 悪霊? それなら私たちの得意分野だ。

「確かに、悪霊退治なら俺たちの領分です。わかりました。他ならぬ黒沢部長の頼みですし引き受けましょう」

「いいのか、八手?」

 悪霊退治も陰陽師の本分だが、地獄からの脱獄者の処理もある。

「情報が入れば健史さんから連絡がくる手はずだ……ああ、黒沢先輩、俺優先しない行けない仕事があるんですが、そっちの方から連絡がきたら途中で抜けるかもしれませんよ? その、できれば最後までやり通したいのですが」

 一応、八手がそう言って黒沢先輩に断りを入れる。なら私からはもう言うことはない。

「それでも構わないわ。では、これ前払いということで」

 と、分厚い茶封筒を取り出しちゃぶ台の上に置く黒沢部長……え? 何これ。と、私が大金に驚いていると茶封筒を無言で黒沢部長の方に戻す八手。え、何してるの?

「あら……足りないかしら?」

「黒沢部長、俺はその、仲間としてその頼み事を受けるつもりだったのですが……それにあなたとお金のやり取りはしたくないです。金の切れ目は縁の切れ目、親しい仲の人物と金銭のやり取りをするとろくな事になりませんので、それに先日頂いた都市伝説の資料、それのお礼をしていませんでしたし、今回の件でチャラということでどうでしょうか? これならお気持ちも楽でしょう?」

「……八手君は器が大きわね。私、少し品が無かったかしら?」

「ははは、いえ、単に男の意地って奴ですよ。いい格好したいだけですからお気になさらず」

 八手の奴、涼しい顔して大金を突き返した。まぁ八手の言うことは私もわかるので、口を出すつもりはないのだが……少し勿体無いと思う私は心が狭いのだろうか? まぁ、どうせあの爺さんに盗られる運命のお金ならば受け取らなくていいのかもしれないけど。

「では二日後、車で迎えに来るわ。場所と時間はあとでメールで送らせてもらうから。ああ、後、一善君も誘って良いかしら?」

「あいつもですか? まぁ物探しは人数が多い方がいいですし構いませんよ。あいつのことですから黒沢部長の頼みならば二つ返事で快諾しそうですしね」

「そうね。一善君は優しいから」

「いやぁ、その、下心というか、なんというか……」

 むぅ、聞き覚えの無い名前だ。どうやら一善というのは二人の共通の知り合いらしい。

「ではこれで、引き受けてくださり感謝しますわ」

「ええ、ではまた後日にお会いしましょう」

 こうして私と八手は、黒沢部長の遺産探しと悪霊退治に協力することとなった。しかし、だ。不思議な雰囲気の人だったなぁ。



 俺は今黒くて細長くて黒塗りの高級車に乗っている。

 いや、驚いた。黒沢部長の普段の振る舞いから良家のお嬢様なのはわかっていたが、流石にご近所に運転手付きの黒塗りの高級車で登場したのには驚いた。そしてまたご近所に住む主婦の方々に俺が一体どんな仕事をしているのか面白おかしく考察されるのだろう。

 驚いたといえばもう一つ、運転手の相澤さんのスーツの胸元をよく見ると、見慣れないバッチが付いていたのも驚いた。そしてそのバッチ通り、渡された名刺には相澤弁護事務所と書かれており、彼が亡くなった黒沢先輩の祖父の弁護士らしく今回俺たちに同伴するようだ。なんでも今回の仕事は遺産探しの“反則”がないかの見張り役らしい。

 今回向かう別荘は京都府内の住宅街近くにある山を少し上った所にあるらしく、今その山を舗装された道路で昇っているところだ。

 しかし思いの外高い所にあるらしく、窓から外を見ると遠くにある住宅街がすっかり下の方にあるのが見える。

「しっかし別荘っすかぁー、楽しみっすね」

 と、後部座席に座る俺の隣で都市伝説研究会三人目のメンバーである茶髪男こと、一善がはしゃいでいる。一応お金は貰ってはいないとはいえ頼まれごとなのでもう少ししっかりして欲しいのだが、こいつに何を言っても無駄なのだろう。というか朝この男が持って来た大荷物は何なのだろうか? ここで聞いておこう。

「一善、今朝から気になってたんだがその荷物なんだ? トランクにももう一つ大きな荷物乗せてたし」

「着替えは勿論、バーベキューの用意と、花火とー、あと川があれば泳げるから水着も用意してきたぜ!」

 何故か俺にグッドサインを出しながら説明する。いや、この男完全に遊ぶ気満々である。

「バーベキュー! 肉! お肉!」

 と、同じく後部座席で俺の隣に座っている食べ物に敏感な我が相棒、夏穂がバーベキューという言葉に反応する。なんだろうか、俺がきちんとした食事を与えてないみたいに思われそうなので止めて欲しいのだが、こいつにも何を言っても無駄なのだろう。

 後部座席に座る最後の者として、こいつらの御守りは天からの与えられた試練なのだろうと無理やり納得して黒沢先輩に謝罪しておく。まぁ一善に関しては俺に責任は無いのだが、一応こいつの分も謝っておくか。

「すみません黒沢部長、こいつら遊び気分で」

「私は気にしてないわ、それにせっかくの夏ですもの、少しぐらいは遊んでおかないと勿体ないですし」

 車内の助手席で分厚い本を読みながらも微笑を浮かべながらそう言ってくださる黒沢部長、というか本人も遊ぶことに少し乗り気なのに驚いた。

「ところで今から向かう別荘って大きいんですか?」

「ええ、洋館でね。お爺様が赤蜻蛉屋敷(あかとんぼやしき)と名付けられたわ」

 赤蜻蛉か。何か洋館の癖に古き良き日本が浮かんでくるネーミングだ。と、何か一善がわき腹を指で突っついてきた。

「なぁ八手、夏穂ちゃんって凛々しい見た目なのに可愛い人だなぁ。後できちんと紹介してくれよ」

「あー止めろ手を出すな。あいつは中身が子供なんだ。ロリには興味ないだろ?」

「いやまぁ、ロリってお前、確かに何か性格は子供っぽいけど……お前とあの子の関係って何?」

「仕事の相棒だ」

「あんな美人と相棒になれる仕事ってなんだよ! 教えろよー八手ぇー!」

「ああ、陰陽師だ」

 と、車内がしーんと静まり、俺に視線が集中する。あの、相澤さん? 山で曲道が多いんですから前向いて運転してください。

「や、八手君。その、陰陽師ということは秘密なのではなくて?」

 珍しい、黒沢部長が動揺している。かなりレアだ。暫くその姿を見ていたいが、それより質問に答えなくてはならない。

「変に思われるのを避けて今まで隠してましたが、黒沢部長にバレた今、こいつにだけにそれを隠すのも疲れますしね。ああそれと一善、悪霊や妖怪に取りつかれたら俺が退治して、思いっきりぼったくってやるから」

「いや、そこは友達プライスとかで値引いてくれよ!」

「とまぁこんな風に単純なこいつなら偏見なく信じますし、ね?」

「あれ? 俺、今褒められた?」

「いやまったく」

 車内で座りながらもお笑いの漫才の如くずっこけるそぶりをする一善。途中でシートベルトに急ブレーキを掛けられ苦しそうに咳をしだした。

「うふ、ふふ、ふふふ」

 と、俺が説明を終えると黒沢部長がなんだかにやりとぎこちなく笑っている。理由は、まぁ一善の底なしの人の良さがツボに嵌ったのだろう。

「で、一善、今回向かう別荘だが、悪霊がいるらしい。気を付けろよ」

「……え? 何それ俺聞いてない」

「ああ、今言ったからな」

「え、マジで、え……マジで!」

 なんで二回言うんだ? まぁいい。取りあえずこいつは暫く放っておこう、面倒だし。

「ああ夏穂、別荘燃やすなよ」

「燃やさないよ! 多分!」

 いや、そこは断言してくれよ。頼むから、と、俺と夏穂のやり取りを見て相澤さんが眉を潜める。

「失礼、八手様。燃やす、というのはどういった意味合いで?」

「ああいえ、こいつ昔依頼人の家を燃やしたことありまして……」

「あの別荘は私の恩人が大切にしていた場所。軽い損傷でも、その時はしかるべき処置を致しますので肝に銘じておいてください」

 やばい、弁護士直々に家を燃やすと訴えると宣告された。なんというか命の危険とは違うおっかなさには慣れていないのでかなり効く。

 まぁ……それはさて置き、相澤さんが俺を陰陽師かどうか信じているのかはともかく伝えておくのは正解だ。屋敷を陰陽師として自由に動き回る為に一々正体を隠すなど俺にはともかく、夏穂には到底できない。

「さて……悪霊がどれほどのものなのか」

 禅法、小黒目、どちらも弱った状態で人間離れした能力を持っていた。これから相手にしていく人斬りは魂を喰らい万全の状態で俺たちの前に立ちふさがるだろう。なのでただの悪霊相手に苦戦などしていられないのだが、いや、ただの悪霊とはいえ油断などしてはならない……俺は見え始めた古い洋館を見ながら、心を落ち着かせる為に少しの間、この目を閉じた。



 私は今八手の上司というか、大学にあるサークルのボスに頼まれ洋館の除霊に来ている。

 それだけならば単純で私好みのお仕事なのだが、どうやら今回、遺産絡みの親族争いというややこしいことも起きているらしい。お昼のドラマとかでよく見る骨肉の争いという奴だ。私ああいうのあまり好きでじゃあないんだけどなぁ、もっと派手な必殺技とかある再放送のアニメとかが私の好みだ。

「……やっと着いたー!」

 広かったが、人口密度が高くて窮屈だった車を降りて背伸びをする。すると清涼というか、俗にいう美味しい空気が肺に染み渡った。

「おふう! マイナスイオンを感じる!」

「おふうってなんだよ。お前は一々テンションが高いなぁ……」

 と、私が自然豊かなこの山の空気を満喫していると八手が半目で呆れながら隣を通り過ぎる。むぅ、これぐらいでそんなジトっとした目で見てこないで欲しい。というか折角良い気分だったのに水を差してくるなよ八手、お前も芸術家の端くれならば自然を愛する心を持つべきだ。

「では私が案内をいたしますので、皆様着いて来てください」

 弁護士の……名前忘れた人が私のそう言いつつ荷物を持ってくれるのか、手を差し出してくれた。でも笑って首を横に振って八手のボスの黒沢部長の荷物を持った方がいいと伝えた……うーむ、名前覚えてないのが何か物凄く罪悪感を感じてきた。隙を見て八手に聞いておこう。

「それで、他の者は誰が?」

「今年は皆様忙しいのか集まりが悪いようでして」

「まぁ、散々探して見つからない遺産より仕事を優先しますわね」

「ですが、光子様は今回も勇んで参加しております」

「叔母様が? また家の物を勝手に処分していないと良いのだけれど……」

「私も注意をしているのですが……」

 荷物を持って洋館に向かっていると弁護士の人と黒沢部長がそれほど大きくない声で話している。どうやら他に誰が来ているかの確認らしい。

 しかし大きな屋敷だ。外から見てわかるのは、赤黒いレンガ造りの三階建てで、何かの植物の蔦が壁を三分の一ほど覆っている姿から時間の流れを感じる。他にはこの屋敷の通り赤蜻蛉がそこら辺を飛んでいて、屋敷の庭には彼岸花が密集して咲いていた。なんだろう、全体的に赤いが、派手ではないので目に優しく、品のある美しさを感じれた。

 うーむ、しかし悪霊がいるという話だが嫌な感じとかしないなぁ、まぁ私、霊力探知とか無理だけど私の勘がここはいい場所だと告げている。

「八手、ここ悪霊いるのか?」

「……」

 と、私の質問を無視して、というかあれは考え事をして聞いていないのだろう。少し癇に障るが私にわからないことを考えている時なので、邪魔はできない。私は荒事担当で、頭脳担当はあいつ、この役割分担はこいつと初めて仕事した時からの決定事項なのである。

「変だな」

 と、私がお利口に八手の反応を待ってると、あいつは一言そう言った。いや「変だな(キリッ)」ではなく格好付けてないで説明して欲しい。

「何が変なんだ?」

「確かに悪霊だが……なんだろう。少し変だぞ」

「変って、何が変なの?」

「あー知るか! 俺も霊力探知は苦手なんだよ」

 むぅー、お互い戦闘特化の能力だしなぁ……まぁ襲ってきたところを返り討ちにすれば万事解決だし対して問題は無い。

 私は難しい顔をしながら歩く八手に着いて行き、涼しい空気に包まれたこの館へと足を踏み入れた。

「お邪魔しまーす」

 誰に言うでもなくそう言ってから玄関で内部を見渡す。うむ、洋館とはいえ、玄関にはきちんと来客用のスリッパがありどうやら靴で洋館の中を歩いては駄目らしい。まぁ私も靴で家の中を歩く西洋文化には慣れてないし、こちらの方がいい。

「叔母様は?」

「リビングで待機しているように伝えております」

「大人しくしてくださっていると良いのだけれど」

 と、弁護士さんと話している黒沢先輩の表情が曇る。その例の叔母様という人が苦手なのだろうか?

「では皆様、長い間乗車をした後で心苦しいのですが、リビングにて先客の方と挨拶をお願いします」

「わかりました。では荷物は一時玄関に置いても宜しいでしょうか?」

「はい、挨拶が終われば皆様が使用する寝室へと案内させて頂きます」

 丁寧な対応をする弁護士さんに釣られてか、八手も緊張した面持ちになる。というか何やら弁護士さんの顔持ちが優しくなった。若いがちゃんとした対応ができる八手に好印象を持ったのだろうか?

 そうして弁護士さん先導の元、屋敷の一階にあるリビングへとぞろぞろとみんなと一緒に歩いていく。しかしこの洋館、やたら絵が多いな。風景の絵がいくつも壁に掛けられて歩いてるだけでちょっと楽しくなる。八手も絵を描くのが好きだからか、先ほどから視界の隅を通り過ぎる色々な絵を興味深そうに眺めていた。

「ではこちらです」

 弁護士さんがそう言ってリビングらしき部屋のドアを開けて私たちを中に入るように促したが、何やら動作の一瞬、眉を潜めた。何かあったのだろうか?

「叔母様!」

 何かを察してか、少し早足でリビングに入る黒沢先輩。すると扉の向こうで彼女に似合わない大声を上げていた。何やら尋常ではない雰囲気を感じて、思わず八手の顔を見て、どうすればいいのか無言で指示を仰いだ。

「取りあえず静かにしてろ」

 不安そうな顔の私を見つけて、そう指示を出す八手。扉の向こうでは黒沢先輩の怒りに満ちた金切り声が依然として聞こえてくる。

「あのー、何かあったん……すかね?」

 と、一分ほど待たされ痺れを切らしたのか、八手の数少ない友達である一善が弁護士さんに恐る恐るをした。しかし弁護士さんは小さく頭を下げ、私たちにその場で待機するよう目で訴えてくるのみだった。

 どうも他人の家の問題というのは心が苦しくなる。早苗さんの時もそうだったが、馬鹿な自分には何もできないから、無力感を感じてしまうんだ。そんなことを考えていると、中から黒沢先輩を嘲笑う様な嫌な笑い声が耳に入ってきた。一体どんな会話をしているんだろうか?

 すると突然今まで黙っていた八手がドアの前にいた弁護士さんの元へと歩いて行き、一言「通してください」と言った。それに一瞬唖然としたが、あいつが行くならば私も黒沢先輩の助けになるまでだ! そう思うと自然と足が進みこいつの後ろ姿を追っていた。だが弁護士さんが八手の肩に手を置き止まるように促すが、八手の顔を見てそっとその手を離した。後ろ姿でわからないが、八手、怒っているのか?

「失礼します」

 短くそう言って部屋にずかずか入って行く八手、私も子ガモの様に八手の後をトコトコついて行きながらリビングの状況を確認する。リビングというのだからくつろげる生活スペースがあるのだと思っていたが、なんだか様子が変だ。少し古いソファーは部屋の端っこにまで運ばれ、壁に掛けてあったであろう絵は乱雑に床に重ねて置かれていた。

 明らかに片付けようとした後、そして突然入ってきた私たちに驚く黒沢先輩と……数人の黒服を連れて、高そうなドレスと大きな指輪をはめた二重顎の太った女性がこちらを睨んで立っていた。

「何、貴方?」

「黒沢先輩の学友である京極八手と申します」

「あっそう、出て行ってちょうだい」

「? 何故」

「邪魔だからよ。さぁ、卑しい貧乏人は出て行って頂戴な。どうせ遺産の分け前が欲しくてこんなのにヘラヘラ笑って付いてきたんでしょ?」

 顔を合わせた早々罵声を浴びる八手、だがこんなことでこいつは怯む軟弱者ではない。

「ところで貴方の名前を伺っていないのですが」

「は? なんで貴方なんかに名乗らないといけないの」

「おや、お金持ちは一般常識には捕らわれないのですね。大変勉強になります」

「っ、貴方ね!」

 涼しい顔をして嫌味を口にする八手。と、私のすぐ後ろから小声で八手を応援する声が聞こえてきた。一善が気付かないうちにリビングに入ってきて、私のすぐ後ろに隠れていたらしい。うーむ、お前も黒沢先輩の部下なら前出て八手の加勢しろ……私にも無理だけどさ。

「光子様、こちらはお客人です。これ以上不遜な態度を取られると黒沢家の名誉に泥を塗ることになりますのでどうか気を沈めてください」

 と、弁護士さんまでもリビングに入ってきて、苛々しているおばさんをなだめる。が、あまり効き目は無いようでまだ何か言いたげという風にずかずかと黒沢先輩の元に早足で近づいて来る。

「どうせこの人たちもアンタみたいなのと同じ可笑しな人間なんでしょ? 幽霊が見えるとか何とか、気味が悪いったらありゃしない。なんだか悪霊が出たとかこの辺りで騒がれているみたいだけれど、そんなのいる訳ないじゃない」

 うーむ。あのおばさん、なぜあんなに攻撃的なんだ? 黒沢先輩の親族なのに。

「叔母様! 私はともかく友人への侮辱は許しませんわ」

「は、友人? 貴方にそんなのできる訳ないじゃない!」

 む、いや、それは違う。

「少なくとも私は黒沢部長と友達だと思ってるぞ」

 と、つい口を挟んでしまった。うーむ、黒沢先輩はなんと言えばいいのか、確かにいじめっ子体質で若干苦手だけど仲良くしたい部類の人間ではあるのだ。と、周囲の驚いた目線が私に刺さる。いや、黒沢先輩やあのおばさんはともかく、八手にまでそんな驚いた顔をするのは止めてくれよ。間違ったことは口にしてないだろう?

「部外者が口を挟まないでよ!」

 するとおばさんが今度は私に早足で近づいてくる。え、何? 私気に障るようなこと言った? と、早足で近づいて来ながら手を広げ、右腕をだらんと大きく後ろに伸ばすおばさん、私は次にこの人が何をするのか察した。

「ふんぬうぉ!」

 目の前に迫ったおばさんが私にビンタを顔に叩きつけようとしたが、思わず変な声を出しながらそれを両手をクロスさせ防ぐ。実は八手が健史と一緒に何か難しいことを調べている間、私は軽くノアに護身術的なものを教わっていたのだ。まぁすぐに忍者ごっこになって本気で影分身を習得しようとしたりとか、手裏剣の投げ方とか熱く議論したりとあれは訓練とは呼べるものでは無かったのだけれど、そのお遊びで身に着いた成果が今発揮されたのだ。

「……忍者よ。ありがとうございました」

 取りあえず忍者に感謝してみる。いや、感謝するのならば私の思い付きの訓練に付き合ってくれたノアにするべきなのだが……何故か忍者に感謝してしまった。

「痛いじゃない!」

 と、何故か防いだだけなのに手をぶんぶんと降って被害者アピールをするおばさん。何それ理不尽、この人意味がわからない、怖い。

「叔母様! 客人に手を上げる何て何を考えているの!」

「うるっさいわね、お黙りなさい!」

 もはやこの人、会話何てできないんじゃないだろうか? 私は怒る……のが無駄に思えたので呆れていると弁護士さんが少し怒った様子で口を挟んできた。

「光子様、これ以上問題を起こさますとこれ以降の遺産探し参加の権利をはく奪しますが宜しいでしょうか?」

 その一言におばさんの表情が凍り付く。どうやらこれが弁護士さんの奥の手らしい。今朝、この人は確か今回の遺産探しの審判の様な役割と言っていたのを思い出した。サッカーでいうイエローカードが今このおばさんに出されたのだろう。

「ふん、私には問題はありません。そこの娘が挑発してきたのが問題ではなくて?」

 えぇー! 私が悪いのか! よくわからないけど空気読めてなかったとか……たまにやっちゃうんだよな、どうしよう。取りあえず八手を見る。

「八手……謝った方がいい?」

「いや、お前は悪くないから安心しろ」

 そうなのか? 八手が言うなら間違いないな! やいこのおばさん、よくも私を悪者を扱いしてくれたな! 誰か、弁護士呼んでくれ! あ、待てすぐそこにいるのか。でも弁護士さんは黒沢さんの家の弁護士だから敵になっちゃうのか、あの人やり手そうだし敵にしたくはないなぁ。よし、訴えるのは取り止めだ。

「それと光子様、この屋敷の所有権は現在私にはありますが、実際は誰の物でもありません故、家の物を勝手に処分されては困ります」

「こんな価値の無い絵ゴミ同然じゃない」

 と、部屋を出て行こうとしたおばさんと弁護士さんがそんな会話をすると、再び黒沢部長の目に怒りの色が宿る。

「黒沢部長……」

 だが、黒沢部長が沸騰した感情を吐き出す前に、一善が悲しげな顔で近づいて彼女の肩を叩きそれを止めた。私もそれに賛成だ。嫌なこと、許せないことにはっきりと怒るのは大切だが、怒っても無駄な相手に怒鳴り続けてもしんどいだけで無意味なのだ。

「ごめんなさい。品が無かったわね」

 顔を右手で力強く抑えながら怒りを鎮める黒沢部長。うーむ、今回の仕事も大変そうだなぁ。そう感じた瞬間、私は乱雑に積まれた絵を眺めながら無意識に体の奥の方からため息を吐き出していた。



 俺は今洋館の廊下を警戒しながら歩いていた。

 あの話が通じ無さそうな黒沢部長の先輩の叔母さんとのやり取りから一時間後、弁護士の相澤さんが案内してくださった客室で、黒沢先輩が落ち着くのを待ってから俺と夏穂は黒沢先輩と一善を連れて悪霊退治を始めたのだった。

「悪霊って……その、八手、お前倒せるのか?」

「百年以上その場に巣食っている悪霊だったら苦戦するが、今回の悪霊はそこまで酷い奴じゃないとは思うから安心しろ」

 一善が夏穂の後ろにぴったりとくっつきならそんな質問を俺に投げかけてきた。星降り島で封印されていた女中の悪霊ならば俺単身で倒すのには念密な作戦と運がいるが、この屋敷に住み着いている悪霊はそれ程強力な存在ではないだろう。もしそんなのがいるのならば、ここら一帯の山の生態系は壊滅しているだろうし……まぁ、それでも夏穂が相手だと、そんな怪物が出て来ても対処は可能なのだが。

「臭い」

 と、言い争いをして疲れてか、何時もより言葉が少なかった黒沢先輩が唐突にそんなことを言った。

「え、何か臭いますかね?」

 臭いの一言に反応してか、一善は自分の体を嗅き始めた。違うからな。

「臭いわ。嫌な感じ、近くにいるわね」

「黒沢先輩、霊感がお強いんですね」

「八手君ほどではないでしょ?」

「は、ははは」

 いや、すみません。関知に関してなら俺以上です。情けない話、まだ俺には悪霊の気配すら察せていない。

「黒沢先輩は嗅覚で霊の存在を感じるんですね」

「……珍しいのかしら?」

「いえ、たまに同業者に鼻で判別する人もいますから、珍しいと言われるとどうでしょう? そこそこといったところでしょうか」

「あら、そうなの? 他にも私みたいな人がいるのね」

 儚げに口元に小さな笑みを作る黒沢部長、どうやら少し元気になってきたらしい。

 む、黒沢先輩の回復を確認して直後、俺にも嫌な気配が感じられた。大体だが場所もわかる。

「……ああ、夏穂、そこ、そこの扉の部屋にいる」

「え、え、マジかよ」

 俺の報告にいち早く反応したのは逃げ腰で夏穂の背中で腰に手を回し捕まっている一善だ。しかしこいつビビりだな……おい夏穂、専門家の威厳を見せてやれ。女のお前がしっかりしているところを見たら一善も少しは負けじと強がって男らしい面を見せるだろう。

「お、おおおおう」

 て、なんでお前までビビってんだよ夏穂!

「お前、怪物みたいな悪霊を相手にしてもいつもなら動じないだろう? 何ビビってんだよ」

「私、心霊番組とかでスタジオのお客さんがな。わー、とかきゃー、とか騒がれたら一緒に驚くタイプなんだよぉ~」

 ああ、そうだった。こいつ夏休みとかにやっている心霊番組の後やたら風呂やらトイレに行くのに怖がるんだよなぁ。仕事で幽霊退治しまくってるのに。

「いや、仕事中はしっかりしろよお前!」

 くそ、一善のビビりが夏穂に伝染してしまった。仕方ないので俺が先頭を歩き悪霊に備える。

「ではここで待機してください」

 俺は他のメンバーを安全な距離で止まるように指示し、悪霊がいるであろう部屋の前まで歩く。そして無言でドアノブに手を掛ける。

「……強結展安」

 室内での戦闘において長柄武器は不向きなので、京極三長柄を召喚せずに右腕に強化結界を掛ける。そして勢いよくドアを開け、室内の様子を目に焼き付ける。一秒で相手の位置を把握、部屋の中央、入り口にいる俺より三メートル先に立った状態で発見。プラス一秒で相手の形状を把握、黒いミミズの様な何かが全身に群がっているが、人型と判断。二秒を消費して相手の情報を得る。だが瞬時に相手の情報を手にした俺だったが、今回は後手に回ったらしい。

「ちっ!」

 思わず舌打ちをする。相手は俺たちをすでに察知していたのか、すぐに走れる態勢で俺を待ち構えていたのだ。そして俺がドアを開けた瞬間、体を小さく左右に揺らし、黒いドロドロとした線をまき散らしながら俺に突進して来た。が、この程度で驚くならば陰陽師などやっていられない。

「おらぁよぉ!」

 突進して来た悪霊の顔に強化結界を掛けた右手で、思いっきり殴りかかり自分でも驚くぐらい見事なカウンターを決める。すると突進して来た悪霊はそのまま助走を付けた下半身が前に行き、上半身が後ろに弾き飛ばされ後頭部を床に強打させた。

「!」

 だが安心するのはまだだ。油断はご法度(ごはっと)、相手は生身の人間ではなく悪霊だ。この程度でやられたとは思っていない。部屋の入り口付近に倒れている悪霊の傍から廊下の方へ飛びのき、次の攻撃に備える。

「うがぁ! がぎげがお願いがごげなごしまごぎぎぎぎぎぎ!」

 と、悪霊が奇声を発しながら有り得ない立ち上がり方をした。まるで紐の着いた操り人形の様にだらんと筋肉を脱力させながら、足から上に天井に昇っていき、最後には何も足を固定する物が無いはずの天井にぶら下がった。

「ひっ!」

 その異形の動きに廊下にいた黒沢先輩が思わずそんな声を上げる。まったく、俺の仕事上の経験だが、妖怪よりも人間に近い悪霊の方が恐怖を感じさせる動きや見た目をしているのは、どういう皮肉なのだろうか?

 む、天井にぶら下がっている悪霊、よく見ると俺が殴った個所から黒いミミズの様な泥が剥がれて素顔が見えている。だがそれでも嫌悪感がぬぐえない。普通の老人の顔をしていたが、眼球がグルグルと節操なく回っている。あれはすでにあれが正気ではない証拠だ。

「あの身に纏っている黒い何かのせいで精神をやられているのか……」

 ならば早く楽にしてやろう。俺は強化結界を掛けた拳に力を入れ、今度は黒いミミズの様な泥が剥がれたあの部分を殴り頭蓋を砕こうと悪霊に一歩近づいた瞬間――。

「気持ち悪い!」

 俺の横を颯爽と駆け抜けて、天井にぶら下がっている悪霊の顔面目がけて思いっきりビンタをかましたのだった……はっ?

「……はっ?」

「なんだあれ気持ち悪い! 何か体から細いドロドロしてウネウネ動いてるのがいっぱい生えてて……うわ、触っちゃった」

 先ほどまで怯えて使い物にならなかった俺の相棒が何故か豪快に悪霊に止めを……いや、そっちはいい。取りあえずビンタを食らった悪霊の方を見る。夏穂はさほど筋力はないが、霊力が桁違いだ。例えるならば霊力の台風、災害クラスと言っていいレベルの霊力をその身に内包している。それに比べたら俺とあの悪霊は蝶の様な存在。台風の荒ぶる風に蝶が巻き込まれれば羽と胴体が千切れて死ぬだけなのだが、普段夏穂はその莫大な霊力で回りに被害を与えないように、力を押さえる服とその他の細工をしてある。なので今のビンタは突風クラスにまで抑えられた攻撃力だ。

 なので悪霊は俺の位置から遠くにある廊下の突当りの壁にぶつかっていたが、消滅はしていなかった……無論、ピクリとも動かないが。

「あー、うん。馬鹿らしい」

 なんだろう。改めて自分の相棒の滅茶苦茶ぶりに頭が痛くなる。この状況を何と言えばいいのか、そう、一対一の喧嘩をしている最中、交通事故で敵が倒れてしまったと言えばわかって貰えるだろうか? そんな事故で勝負が付いてしまえば、何とも言えない気持ちになってしまう。俺は深いため息を吐いてから、悪霊に触れた手をぶんぶんと振り回し手にまとわりついた何かを払っている夏穂に近づく。

「ご苦労さん」

「え、うん? ありがと」

 微妙な返答をする夏穂。こいつ、今完全に自分の手に集中してぶっ飛ばした悪霊に意識を集中していないな。まぁあんなのを喰らって無事な訳がないが、敵への警戒は戦いが終わるまで解かないのが基本だ。うーむ、そこら辺の心構えはたまに厳しく言っているのだが……まったくこいつは。

「おい、気を抜くな夏穂」

「はーい」

 やる気の無い返事をする夏穂、まぁ、こいつからしたらあんな悪霊は、蠅の様な存在なのだろうが、今こいつには黒沢先輩守る命令を出している。こいつ一人ならば油断していても問題ないが、悪霊が黒沢先輩と一善に襲い掛かって被害が出てから焦っても遅いのだ。

「はぁ」

 まったく、後で説教だなこりゃ。

「さて、悪霊はどうしてるのか」

 廊下の突当りまで飛ばされた悪霊に警戒しながら近づく、すると悪霊の姿に変化があるのに気が付いた。あの体に纏っていた黒くて細い泥が無くなっていたのだ。多分夏穂のあのビンタではじき飛ばされたのだろう。

「しかし、霊魂が残っているだけ奇跡だな」

 当たり所が良かったというべきか、悪かったというべきか……どうやら悪霊は五体満足で気を失っているようだ。いや、気絶したふり……ではないな。呼吸のペースからして本当に気絶していると判断できる。

「え……?」

 小さな驚きの声が俺の耳元で聞こえた。いつの間にか黒沢先輩が夏穂と共に俺のすぐ後ろにまで近づいて来ていたのだ。ふーむ、俺も夏穂のことは言えんな。悪霊に集中しすぎて黒沢先輩の接近に気づかないとは……。

 ところで一善、お前はなんでそんな遠くで俺のことを微妙な声量で応援しているんだろうか? 数少ない俺の友よ。言っとくがこの場で一番安全な場所は夏穂の近くだからな?

「黒沢先輩、危険なので離れて夏穂の傍にいてください。今から除霊しますから」

「いえ、そうじゃないの……この人、その」

 なんだろう? 黒沢先輩の歯切れが悪い。もしかしてこの人物に見覚えがあるのだろうか?

「この人を知っているんですか?」

「ええ、その……いえ、何と言ったら良いのかしら。この人は私の死んだ祖父なのよ」

 そして、途切れ途切れの言葉の最後に黒沢先輩は、確かにその口でこの悪霊を自分の祖父だと言った。



 私は今、芸術を感じている。

 うーむ、私は絵なんてよくわからないけど、この屋敷に飾られている絵はなんだか見ていて面白いと思う。特に今見ている客室に飾ってあるこの絵何かが私の好みだ。

 どこか京都にある日本庭園なのだろう。赤くて細長い絨毯(じゅうたん)が敷かれた縁側から燃える様な赤い紅葉がずらりと並んでおり、とても綺麗だ。

「八手、この絵いいな!」

「あ? 言われてみれば確かにな、こんな筆遣い俺には無理だ……む、この景色どこかで見たような気がするな?」

「それは圓光寺(えんこうじ)ね。行けない距離ではないし、一度行ってはみたいのだけどね……中々地元の観光名所って行かないわよね」

 八手が絵の景色の場所で悩んでいると黒沢部長が助け舟を出していた。この人本をよく読むらしいから頭がいいと八手が言ってたな。

「……じゃあ、本題に戻るか」

 あ、やっぱり駄目? 現実逃避で絵の鑑賞なんて慣れないことをしてても本題に戻るの?

 実は悪霊を気絶させてから、私たちは取りあえず寝泊まりする場所である客室へと一旦引き上げてきたのだが、あ、因みに当然だが、ちゃんと部屋は男女わかれており、今は男部屋にいる。

 まぁそれは置いておくとして、今解決するべき最優先事項として、例の悪霊改め黒沢部長のおじいちゃんを取りあえずここまで運んできたのだがこの人をどうするか話し合わなければならないのだ。

 でも、黒沢先輩のおじいちゃんを気持ち悪いと言って思いっきりビンタして思いっきり吹き飛ばして壁に激突させた私は、正直この場にいずらいので逃げたいのだが、この屋敷であのヒステリックなおばちゃんに一人で遭遇するのは嫌なのでこうして絵を見ていたのである……仕事とはいえ、老人暴行とかやっちゃったら気まずいよぉー。しかも孫の前で、訴えられない? 幽霊だから無効だよね?

「その、ごめんなさい」

「あら、なんで夏穂ちゃんが謝るのかしら?」

「だ、だって……黒沢部長のおじいちゃんに酷いこと……」

「ふふ、夏穂ちゃんは優しくていい子なのね」

 む、あんまり怒ってない? 良かった。慰謝料とか払わなくて良さそうだ。まぁ法律面は本気で心配はしてなかったのだが、黒沢先輩が変わらず私を怖がってないのには驚いた。少しとはいえ私の力を見せたのに……壁まで吹き飛ばしたとはいえ、ビンタだけだったからそこまで怖い絵面じゃ無かったかな? 良かった……。

「でも何故お爺様があんな怪物に?」

「それは本人に聞きませんとなんとも……何か思い残しがあり成仏できずに、長い年月で悪い気を貯めていただけかもしれませんし」

「そんなことがあるの?」

「悪霊化する期間は個人差はありますが、人の霊魂があまり成仏せず現世に留まるのはいいことではありません。悪霊やら妖怪に変化したりしますし、基本は悪霊の方になりますが……今回、黒沢先輩の祖父は外に悪い気を纏って、芯は普通の霊体だったみたいですね。体内に悪い霊気を貯めこまなかったので夏穂の一撃でその悪い霊気の……衣が剥がれたと言えばわかりますかね? それで中身がつるん、と出て来たと……」

「八手君、つるんってすごく可愛い表現ね」

「その、わかりやすく言おうとしただけなので見逃してください……というよりこの説明でご理解頂けましたか?」

「ええ、わかったわ。流石は専門家、詳しいのね」

「そうでもありませんよ。それにこういう霊商売は人によって言っていることがバラバラですし」

「間違った情報は見えるふりをしている人が適当に言っているだけではないのかしら?」

「まぁ、それもありますが、陰陽師何て家業でやっている家は旧家が多くてですね。自分の祖先が偏見と独断で得た情報をそのまま子孫の人間が自分の家が一番正しい知識だとどこの家でもそう言って譲らないんですよ。プライドが高いのが多いんですよ陰陽師ってのは……ああすみません話が逸れましたね。で、黒沢先輩は祖父をどうしたいんですか?」

「……成仏させたいわね」

「ええ、俺もそれに賛同しますが、手荒な方法か未練を解決する方法のどちらと言われれば?」

「……未練を解決してあげたいわね」

「決まりですね」

 む? 話し終わった? 口を開けてボーとしてたら黒沢部長と八手の難しい話が終わった。と、いつの間にか私の隣にいた一善もぼーっとしていた。

「ねぇねぇ、さっきの話しわからなかった?」

「いや、プライドが高いってのよくわか……らない」

 む? 何か意味不明な返答をする一善? 難しい話を聞きすぎて頭がショートしたのだろうか?

 しかしだ。あのおじいちゃんどうしよう……一応目を覚ましたら誤っておかないと。私はベッドの上で眺めながらそんなことを考えていると、ある変化に気が付いた。

「あ……八手、さっきそのおじいちゃんの目がぴくってなったぞ」

「お、気が付いたか」

 八手は私に言われ、老人の頬をペチペチ叩いて起きるように催促する。ちょっと乱暴な気がするけど、まぁ気絶させた重宝人が言えたことではないので黙っておく。

「言葉はわかりますか?」

 八手は左手で相手を揺すりつつそう優しい言葉を掛けながら、襲って来る可能性を考慮してか右手に強化結界を掛けているようだ。健史程ではないが、あいつも中々抜け目ない。

「ここ、は?」

「お爺様……お久しぶりです」

「……朱美(あけみ)、か?」

「お婆様ではありませんわ。私は麗子です」

「麗子? あの麗子なのか? 大きくなったなぁ……」

 玲子さんと会話するおじいちゃん。どうやら意識はあるようだ。それを確認して次は八手が話しかける。

「会話は可能のようですね」

「しかし何故、私は……」

「今はゆっくりと状況を確認していきましょう……自分が生きているのかそうでないのか、わかりますか?」

「……麗子がここまで成長しているということは、死人なんだろうな」

「ええ、それさえ自覚していれば話が早いです。今あなたは幽霊ですが、成仏しておりません。何か……心残りがあるはずですですが、心当たりはありますか?」

「心残り……麗子だ。麗子、お前、家族から酷い仕打ちをされてないか?」

「それは、大丈夫です」

「大丈夫ではないだろう。自分の子供のことはよくわかっとる……あやつら、自分の娘を気持ち悪いなどと言いおって……しかし、麗子、やはりまだ見えていたのだな」

「ええ、それは、嘘を付いてしまってすみません」

 むむ、なんの話しをいるのだろうか? 黒沢先輩とあのおじいちゃんの昔あったことだろうか?

「成程、孫が気がかりで成仏できない……ということですね?」

 と、二人が意味深な会話をしていると、八手が遠慮なく会話に割り込んでいく。空気の読め無さに呆れつつも、深刻な顔で話している家族の会話に割って入れるこの鉄のメンタルに正直感心したりもする。うーむ、この姿を蓬に見せたいけどこいつ好きな人の前だとポンコツになるんだよなぁー……。

「失礼、貴方は麗子のご学友か何かですかな?」

「ああ、すみません自己紹介が遅れました。京極家の陰陽師、八手と申します」

「……その、お言葉ですがそれは、その、本当にそういったお力が? 変な宗教の勧誘とかではありませよね?」

「えー、と。幽霊にそう言われたのは初めてです」

「あ、いや、私としたことが、これは失礼……自分がまだ死人だという実感が浅くて失念しておりました。確かに、貴方も麗子と同じで私が見えるということは霊能力者なのですね」

「いえ、この商売をやっているとそういう疑いの目で見られるのは当たり前のことですのでお気になさらず」

 む、このおじいちゃん、かなり礼儀正しい。あれだろ。ジェントルマンという奴だろ!

「紳士を初めて見た」

「こら、夏穂。今は抑えろ」

「むぅ」

 初めて見る紳士に興奮してたら、八手に怒られてしまった。うん、仕方ない。大事な話をするみたいだし静かしていよう。

「それで、そちらのお名前を教えて頂きたいのですが?」

「ああ、重ね重ね失礼を、私は黒沢 延次郎(くろさわ えんじろう)と申します。どうか名刺……この格好は?」

 そう言って何やら胸ポケットに手を突っ込む紳士のおじいちゃん。服装が皺の無いスーツなのも手伝って紳士に見えていたのだが、どうやら本人は今自分の服がスーツということに気が付いたらしい。

「いやはや、死んでも仕事着とは、しかも名刺も入っているとは、つくづく私はつまらん人間らしい」

 乾いた笑いと共に胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚八手に渡す紳士おじいちゃん。幽霊が渡す名刺っていつまで形が残るのだろうか?

「あの、これ多分すぐ消えますよ」

「ああ、いえ、気にしないでください。仕事の癖でつい渡してしまっただけですから」

「はぁ……」

 あのおじいちゃん、幽霊になった自分に慣れてないらしい。すると今まで黙っていた一善が口をへの字にしながら唐突に口を開いた。

「なぁ、今この部屋に黒沢部長のお爺さんがいるんだよな?」

「ああ、お前には見えないだろうが確かにいるぞ」

「ならば、やることはひとーつ!」

 八手に確認を取り、意気込んで両膝を床に着く一善。あれは、土下座の構えか?

「お爺様お孫さん俺に下さい!」

 え、何これ? 一善が見えないおじいちゃん相手に土下座して黒沢部長の交際を認めて貰おうとしている。

「やらん」

「お前には絶対にやらんだとよ」

 そして速攻で拒否するおじいちゃん、そしてその言葉の棘を加えて翻訳する八手。

「なんで駄目なんですか?」

「いや、なんだろうか。チャラチャラして将来が不安な男だからと言えばいいのか。すまないが孫娘は諦めてくれ」

「お前みたいな将来が破滅的な奴に孫何てやる奴がこの世のどこにいるんだよって言ってるぞ」

 八手、ちょっと元の言葉を悪意ある編集で作り変えるの止めて。実は一善のこと嫌いなの?

「ちくしょぉおおー」

 そして土下座したまま言葉の暴力を受け叫ぶ一善。何とも哀れなので背中をポンポン叩いて慰めてやる。

「う、うう。夏穂ちゃん……ありがとう」

「どういたしまして……」

「お礼って訳じゃないけど外で一緒に花火やろう……黒沢先輩もどうっすか?」

 八手に打ちひしがれてもまだ心は折れてないのか、黒沢先輩を遊びに誘う一善。そんな粘り強さが面白かったのかクスリと人差し指で唇を隠しながら笑ってみせる黒沢先輩、何というかお嬢様っぽい色気のある笑みに一善が目を丸くしていた。

「ふ、ふふ、ふふふ」

 まぁー、このぎこちない笑い方が無ければだが……あれどうにかならないのだろうか? あれさえなければ完璧なお嬢様なのに。

「誘ってくれたのは嬉しいのだけれど、ごめんなさい。少しお爺様と話したいことがあるの。一善君は夏穂ちゃんと遊んできてあげて」

「う、うっす!」

 うーむ、なんだが込み入った話をするらしく。八手も目でどこかに行けと私に告げている。さて、お許しも出たし私は一善と一緒に庭に出て夏の風物詩を楽しむとしよう。

 ふと昔、優一とその友人に囲まれて花火をした風景が蘇った。あの時から私は花火が好きになった。また今度、優一と八手や蓬たちと一緒に花火したいなぁ。

 私は新しい夢を思い描きながら一善と一緒に部屋を出るのだった。



 俺は今、黒沢部長とその亡くなった祖父と一緒の部屋にいる。

 先ほど祖父と話があるという理由で一善と夏穂の二人を退室させた黒沢部長だったが、あれから自分の荷物から本を取り出し一向に祖父と話をしようとしない。祖父も祖父で飾ってある絵の鑑賞を始めた。なので俺はどうしていいのかもわからなかったので、取りあえず家から持ってきた美大の課題である絵に手を付け始めた。

 課題は鉛筆一本で描くデッサン画。題材は自由、色遣いが下手な俺の得意分野なのだが、いつもと違うことに挑戦しているので少し苦戦していた。

「あら、人物画? いつもは風景画なのに」

「たまには新しいことに挑戦しないといけませんしね。いい刺激になりますし……」

 そう言いつつ放っておいたら勝手に消えるスマホの画面を何度も見ながら鉛筆を忙しく動かしていく。と、黒沢部長が俺のスマホの画面を見ていつもの意地悪な笑顔を作った。

「……あら、八手君。その子。確か、前言っていた意中の子? なのかしら」

 その一言で俺の手が止まった。

「ええ……そうですよ」

「あら、正直ね」

 実は少し前、蓬にお前の似顔絵を描きたいからメールに写真を付けて送ってこいと頼んでいたのだ。まぁその写真付きメールが来たのが十日後だった訳だが……単に俺の頼みを蔑ろにしていた訳ではなくメールに写真を付けて送るという作業にそれはもう悪戦苦闘したのだろう……何度か「後もう少し出遅れますから」と締め切りが迫っている小説家みたいな言い訳メールが何通か来てたのがその証拠だ。しかし、あいつ機械に弱すぎる。

「それで、人物画を描くという建前を使ってその子の写真ゲットって訳かしら?」

「……見当違いですよ」

「あら、嘘つきね」

 ち、ちちちちち違いますよ黒沢部長、あはははは。と心の中は同様でどんちゃん騒ぎなのだが何とか表情に出さずにすんだ。この人の前ではクールにしてないとすぐに玩具にされるのだ。

「ところで、祖父と話があると仰っていましたが、俺も退室した方がいいんでしょうか?」

「いえ、八手君には仲介役としてここにいて欲しいわ。でもちょっと、心の準備が必要で、ごめんなさい。時間を掛けてしまったわ」

 そう言ってぱたんと本を閉じる黒沢部長。あの唐突な読書は心を落ち着ける為の儀式だったらしい。それを合図に俺も課題の制作を止め、黒沢部長の祖父も絵の鑑賞を止めて俺たち二人に顔を向けた。

「お爺様の未練。今から、私が家族から受けている処遇について話すわ……そうね、簡潔に言って、忌子(いみご)と言えばいいのかしらね」

 忌子、望まれることなく生まれた子供。黒沢部長は自分のことをそう断じた。それからは淡々と自分の人生を語っていく黒沢部長。

「歴史だけはある家でね。古い考えを持っていて母と父はというより一族は男の子を望んだのだけれど、生まれたのは女。男じゃなければ人権は無いと言われて育てられたわ。それに加えて昔から見えちゃいけない者まで見えるって口にしてたから気味が悪いって邪見にされて、それで、見えることを隠すようになったわ」

「私にもそう言ったな。麗子」

「嘘を付いたことは謝まります。でも、そうするしかなかったんです」

「責めてはいないさ。あの時は麗子、痣が酷かったからな」

「……ばれていたのですね」

「それで息子夫婦と大層喧嘩したことがあったが、その時興奮しすぎたのがいけなかったのか、倒れてな」

「……唯一良くして下さったお爺様が亡くなった後は、一応世間体もあって虐待が徐々に減ったのだけれど、家を追い出されてね。家族に用意されたアパートで一人暮らし……はぁ、何とも中身の無い人生ね、私。簡潔に言えばこれが私の現状よ」

 中身が無い、ではないのだろう。ただ人に言えないような部分を間引いたら短くなっただけだ。

「警察には?」

「証拠が無いわ。それにもう虐待は無くなったし、訴えても得なんて無いわよ。ましてあれらとやり直す気なんてないわ」

 家族のことを“あれら”と言う黒沢部長。そういう認識か。

「……その、延次郎さん。あなたはお孫さんがどうなればいいと思っていますか?」

「そう、ですなぁ。私も家族との関係を再築(さいちく)して欲しいなどと思っておりません。ただ、麗子はこのまま行けば十中八九政略結婚をさせられるでしょう」

「政略結婚ですか!? 今時に?」

 思わず驚いてしまう。古い考えを持つ家だと黒沢部長は言っていたが、まさか今時そんなことをするとは、いやまぁ財閥の事情にそこまで詳しい訳ではないが、流石に政略結婚は時代錯誤に感じられる。

「言ったでしょ? 女に人権は無いって。最近、実家の使用人が私のアパートにご機嫌伺いに来るのよ。黒沢の家の経営が下がり始めた時から、昔の関係に戻れないかってしつこくね。物心ついた時から冷たくされてたのに、笑えるわ」

「やはりか、あの馬鹿息子……詐欺まがいのことや不祥事のもみ消しばかりしとるから経営がおろそかになるんだ」

 おっと、さっきのは聞かなかったことにしよう。

「では、政略結婚を阻止したいと……と、その前に延次郎さんに少し確認したいことがあるのですが?」

「なんですかな?」

 些細なことだが一つだけ確認しておきたい情報がある。俺は咳払いをしてから延次郎さんに質問を投げかけた。

「こほん。貴方は何故悪霊になっていたのか、ご存知でしょうか?」

「いや……見当も付きません。気づいたらこんなことに」

 気づいたらか……長年自我を持たずない魂がこの屋敷の地縛霊になっていて何等かが原因で悪霊となったのか? いや、過ぎたことを推測していても仕方がない。

「では、どうすればお孫さんが政略結婚をせずに済むか考えましょうか。黒沢部長はどうすればいいか考えていますか?」

「ええ、まずは将来自分で稼げるかどうかということで、海外の有名な画家とのコネクションを作っているわ。すでに大学卒業後あっちに来ないか何て誘いもあってね」

「……マジですか?」

「何を驚いているの? 私、八手君と同じ美大の学生なのだけれど、画家を志していても別段変ではないでしょう?」

 そりゃあ俺と同じ美大の学生ですけど、そんな繋がり学生が簡単に築けるものではないし……やはりこの人はただ者じゃないな。

 しかし稼ぐ当てがあるならば話は早い。それにこのまま海外に住んでしまえば黒沢家の実家も簡単に彼女に手を出すのはできない。

「もう解決したも同然じゃないですか」

「そうでもないのよ。住む場所なのだけど、今私が今住んでるアパートは黒沢系列の物でね。住所を移せないようにされているの」

「もう黒沢部長は成人しているんですから法的に親の許可が無くても住居を移せるのでは? 保証人は要るでしょうが」

「ええ、八手君の言う通りよ。私もそこら辺はもう調べてあるのだけれど……今私は違法にアパートに閉じ込められているという認識でいいわ。警察に話しても無駄だけれどね」

 家には置きたくないが、政略結婚の為完全には手放さず自由を与えない、か。

「……なら、ここに住んでみてはいかがですか?」

「はい?」

「黒沢家は毎年ここにある遺産探しをしているんですよね? でもそれはこの屋敷の所有権が、黒沢家の誰も持っていないことになります」

 屋敷の所有権があればそこにある遺産もその人物となるはず、ならばこの屋敷の所有権を有しいる人物は今はいないはずだ。確か相澤さんがそんなを話をしていた気がする。

「そう言えば、遺書に遺産を見つければこの屋敷の譲渡の権限も有りと書きました」

 なんと、それは実に運がいい。遺書を書いた本人がそう言うならば間違いないだろう。遺産を見つければ黒沢先輩は実家の支配から逃れられるし、延次郎さんならば遺産の隠し場所を知ってるだろう。

「黒沢家の名ではありますが黒沢家の誰も所有していない物件。あの弁護士の相澤さんに話を通して色々と力になってもらえることは可能でしょうか?」

「相澤か、あいつは信用できる男だ。それに会社の不祥事を多く知るあのバカ息子もあいつには強く出られん。きっと力になってくれる」

 えーと、あの、そういうヤバそうなこと、第三者の前で言うの止めてほしい。

 だが取りあえず作戦の目途は立った。遺産探し、それとやることがもう一つある。

「決まりです。では相澤さんに確認と保証人になってもらう約束を取りましょうか。善は急げと言いますし、すぐに行動しましょう」

「……八手君に今回手伝ってもらって正解だったわ。八手君はやっぱり頭の回転が速いですわ」

「幽霊退治もですが、こういった法的問題も依頼において少なくないですからね。では俺は相澤さんの所に行きますけど、黒沢部長も着いてきますよね?」

「もちろん。では行きましょう」

 長い話が終わり。思わず背伸びをする。ふと遠くから花火の音が聞こえた。窓を覗くが黒い空に咲く火の華はどこにもない。きっと遠いどこかで祭りでもあるのだろう。

「花火か、話が終わったら夏穂たちと合流して一緒にやりますか?」

「いいわね。そのままバーベキューもしましょうか?」

 はは、少し気が緩みすぎと思うがそれもいいかもしれない。外から聞こえる一善と夏穂の楽しそうな声を聞きながら、俺と黒沢先輩は相澤弁護士の元へと向かった。



 私は今、小さく弾ける閃光花火を眺めている。

 一善が持ってきた花火を赤蜻蛉屋敷の庭で一通り消化して、最後の締めで閃光花火に火をつけその儚い煌めきをただ眺めていた。

 少し離れた場所では一善が持っている花火をさっき来た麗子部長に見せて何とか気を引こうとして……それを睨む様に八手の後ろから見ている黒沢部長のおじいちゃん。孫に悪い虫が寄り付くのは相当嫌らしい。と、黒沢部長と一緒に外に出て来た八手が話しかけてきた。

「夏も終わりか」

「うん」

 何をしていたのかは不明だが、何か八手、いいことがあったらしく表情が晴れ晴れとしている。

「やること、決まったの?」

「遺産探して見つかれば全部丸く収まる形になった」

「そう、わかった」

 八手が難しいことを考えてくれて、私は実行係、なのだが物探しかぁ。あまり自信ないなぁ。

「安心しろ。遺産の場所は黒沢先輩の祖父が知っている」

「いや、それが、その、遺産の場所なのですが、三十の時からこの別荘には足を運んではおらず……覚えておらんのです」

 え……おい、八手。お前の後ろで何か黒沢部長のおじいちゃんが言いにくそうにしながらも、勇気出して重大発表してるんだけど。

「……遺産の場所は不明だが……どうにかする」

「が、頑張って探そう」

 これも仕事だ。八手は強がって見せたものの頭を押さえて「覚えてないのか……」落ち込みながらぼそぼそと言ってるけど前向きに物事を考えないとな、これ楽しく生きるコツ。

「黒沢部長のおじいちゃん。遺産って何なのかは覚えてるの?」

「ええ、それは覚えております。遺産とは地下にあるアトリエなのです。そこには私が書いた絵がありましてね」

「おじいちゃんの絵……売ったら凄いの?」

「まさか、私にそんな世に誇れる画才はございませんよ。ただ、大切な品なので昔から画家の道に関心があった麗子にでも託そうと遺書の隅に思い付きで書いていたのですが、まさか価値の無い絵一枚に遺族が躍起(やっき)になるとは、詳しく書いておくべきでした」

 何と、じゃああのヒステリックなおばさんはお金にならない絵を必死に探しているのか……でも本当のことを離しても「そんな出鱈目を言っても私は騙されません! 価値のある者がこの別荘に必ず眠ってます!」とか言いそうだなぁ。黙っとこ。口は災いの門なのである。

「まぁそれが見つかればこの屋敷と土地が手に入るんですからそこそこの儲けにはなるでしょう」

「そんな大したものでは……」

「いや、でもこの山は私有地と聞きましたし、山一つの所有権は黒沢家の物なのでしょ?」

「確かにそのはずですが、松茸などが自生している訳でもありませんしただの山ですから。高くはないですよ」

「いやそれでも山一つ――ああ……そうか。金銭感覚が違うのか」

 八手がなんかそんなことを言ってる。山一つを所有していて別荘一つ建てるだけってかなり贅沢なのではなかろうか。

「失礼、話を戻しますが地下室だとわかっていれば簡単に見つけられるのでは? 一階を隈なく地下室への入り口を見つければ良いだけですし」

「それが、その、私の昔の趣味で隠し扉を別荘を建設する時に腕の良い大工に頼みまして……そうやすやすとは見つけられないはずです」

「まぁ、簡単に見つけれるならばとっくに黒沢の家の誰かが見つけていますか……しかし探す場所を一階に絞れたのは大きいですね」

 八手が顎を指で触りながら何やら考え始めた。そして屋敷をじっと見つめる。きっと難しいことを考えているんだろう。

 すると花火に飽きたのか、ゴミを入れる為の火薬臭いバケツを重たそうにがり股で持ちながら一善がこっちにやって来た。麗子部長は……あれ、どこに行ったんだろ? すると私に変わり八手が質問をした。

「一善、黒沢部長はどこに行ったんだ?」

「ちょっと近くにある川に行きたいと言ってどっかに行った。ついて行こうとしたんだけどさ、何か一人になりたいらしくて」

「そうか……遺産の件で話したいことがあったんだが」

「何? 俺に協力できることはあるか?」

「さっきの話なんだが、黒沢部長とその祖父と相談してな。それで政略結婚させられそうになっているらしくて、今住んでいる黒沢系列のアパートを出て、家との繋がりを薄くする為にここに住もうという話になったんだ。その為には遺産を見つけないといけないんだが……実は黒沢部長の祖父は遺産の場所を覚えていないらしくてな。それを伝えたかったんだが、まぁ後でいいだろう」

「あー、政略結婚とかいきなり言われて驚いて色々と聞きたいことがあるんだけど、取りあえず一番聞きたいこと一つ聞いていい?」

「なんだ?」

「遺産見つけたらこの屋敷貰えるって……なんで?」

「さっき弁護士の相澤さんにそういう風に話を通したら、案外すんなり承諾してくれてな。なんでも祖父が死んだ時、遺産相続の時、子供と孫関係なく全員に均等に配分されるように書かれていたらしいんだが、一族が勝手に黒沢部長の分を無くして自分たちで分けてたんだと、その埋め合わせということで二つ返事で承諾してくれた。それに元々遺書には遺産を見つけた者には屋敷と土地を壌土すると書いていたことが大きいな。まぁそれでも親族から反対意見はでそうだと言っていたが……」

「はぁ、色々と腐ってなぁ……まぁそれは置いといてここって黒沢家の別荘なんだろ? 関係が薄くなるって変じゃね?」

「それはだな。今黒沢先輩が住んでいるアパートが黒沢系列で、政略結婚をさせたい為、黒沢部長を手元に置いておく為に圧力をかけて自由に住所変更できないらしいんだ。だがここに住めば土地、屋敷の権利が黒沢先輩になるから――」

 駄目だ。難しい話はわからない。取りあえず黒沢部長の家族はあまり人道的に宜しくない方々で、今住んでる場所を変える為に遺産を見つけると……うん。まぁ大体こんな感じかな?

 私が頭の中でそんな風に意見をまとめ終っても、八手と一善は難しい話を続けている。八手の口から出てくる黒沢部長が幼い頃から受けていた虐待に、一善は反吐が出るといった表情で聞いていた。と言っても本人がこの場にいる訳ではないので、詳しくは話さない八手、これ以上は本人の口からということだ。こういう律儀なところは優一の奴に似ている。

「うーしわかった! この一善全力でこの屋敷に隠されたお宝を見つけだーす!」

「意気込みは買うが。隠し扉何てお前見つけられるのか?」

「おうよ!」

「ああ後一つ忠告な。遺産探しの時屋敷の壁とか壊したら反則になるからな。そう言う決まりらしい」

「まぁ屋敷全部ぶち壊してしまえば地下室何て簡単に見つけられるけど、黒沢部長の新しい住居に傷何てつけたくねぇし当たり前だろ」

 鼻息を荒くしてやる気を出している一善。すると一善の肩が、後ろから二回叩かれる?

「お?」

「ふふ、ありがとう一善君」

「く、黒沢部長!? い、いや、ひ、人として当然のことですし! ていうか俺黒沢部長の為なら命懸けますし! てか結婚します!?」

「命はいらないわ、重いもの。それと、プロポーズはもう少しムードを作って欲しいわね一善君?」

「あっそうすか……」

 一善の肩を叩いたのはいつの間にか戻っていた黒沢部長だった。さっきの話を途中から聞いていたらしい。というか一善、驚いた勢いでプロポーズするって……。

 すると八手が例の話を切り出した。

「黒沢部長、実は遺産の場所なんですが……」

「覚えてないでしょう? お爺様、仕事が忙しくて生前この別荘には戻れなかったと聞いていますから、薄々そうと思っていたの」

「ご存知でしたか」

「ええ。でもまぁ、私には心強い味方がこんなにいるもの。心配してはいないわよ」

 にたりと不敵に笑いながら、背伸びをしながらそういう黒沢部長。すると一善の目線が背伸びで服が引っ張られラインがくっきりした胸に吸い込まれていく。それを見て呆れている八手、そして少し怒っている様子の黒沢部長のおじいちゃん。まぁなんだ、これはこれでいいパーティだと思う。

 それから私たちはまずは腹ごしらえということで涼しく薄暗い山の上で、赤い彼岸花に囲まれながらバーべキュウを始めた。材料は一善が持ってきた豚肉、牛肉、ソーセージ、八手は野菜も買ってこいと怒っていたが私はこの方がいい。あとご飯も有れば完璧だったんだけどなぁ。

 そしてひとしきりはしゃいだ後、遅いこともあり赤蜻蛉屋敷でお泊りすることとなった。さぁ、明日から宝探しだ。



 俺は今見慣れない部屋に混乱している。

 さっきまでいい夢を見て、確か幼い頃蓬と遊んだ夢を見ていて……いやそれはいい。目覚めたばかりで状況が理解できない。いや、だんだんと意識が覚醒してきた。ああそうか、ここは黒沢部長の家が管理する別荘か。それで遺産探しをすることになって……。

「ふぁ、さて、遺産探し頑張るか」

「見つけたぞ」

「……は?」

 隣からそんな声が聞こえてきた。見ればすでにパジャマから雑誌に載っていた物をそのままかったであろういつもの私服に着替えた一善の姿がある。

「早いな」

「まぁ何時もはまだ寝ている時間だけどなぁ。ねみぃ」

 そう言われて充電しながら枕元に置いていたスマホの電源を入れ時間を確認する。七時十二分、いつも朝支度をしている時間帯だ。

「お前の家、俺より遠いはずだろ?」

「いつも一限は遅れて来てるだろ俺?」

「ああ、そうだったな。で、見つけたってなんだ? 黒沢先輩の下着でもかっぱらってきたのか?」

「馬鹿、俺にそんな度胸ないからな」

 ああ、こいつ意外に小心者だったな。酒に酔わせて女をラブホに連れ込むなんて真似は絶対にできないチキンだ。

「遺産に決まってんだろうがぁ」

「……は?」

「いやその反応はもういい」

「……へ?」

「へってなんだよ。だからなんか別の反応しろよ!」

 いや待て、遺産を見つけただと?

「お前一人でか!」

「まぁ、昨日徹夜でな」

「にしては元気だな」

「夜型なんだよ。黒沢部長と夏穂ちゃん呼んできてくれるか? ああちゃんと着替えてからな。俺は相澤さん起こして……いやあの人もう起きてたなそういや、難しい書類とにらめっこしてたんだった」

「弁護士は多忙だからな。しかしお手柄だ一善。よくやった」

「それは黒沢部長に言って貰いたいんだけどなぁ。てか昨日、お前が屋敷の造りから大体地下室があると思うめぼしい場所を俺に教えてくれたから見つけれただけなんだけだぜ?」

 そう言えばそうだったか? 途中こいつが缶ビールを進めてきて、結構なアルコールが入ったからそこら辺の記憶はさっぱりだ。

「しかしお前そこまでするとはな。お前、もしかして黒沢部長のこと、本気なのか」

「は? 気づいてなかったのか? とか昨日の俺の一世一代のプロポーズ聞いてなかったのお前?」

「いや、あれで本気とか思わねぇだろ普通、でも考えてみればお前見た目の割に色恋沙汰にチキンだしな。プロポ―ズ何て冗談でしないか……そうか、そうだったのか」

「あーあーそうですかー。どうせ俺は軽い男ですよー」

 少しへそを曲げた様子の一善、そのままつかつかと歩いて行き部屋を出て行く。相澤さんの元に行ったのだろう。

「しかし、あいつ本当にチキンだな。俺に相澤さんを呼ぶように頼めば寝起きの黒沢部長を拝めたのに」

 あいつのことだ。それも考えはしたんだろうがやっぱり無理とか考えて俺にその役目を託したんだろう。

「さて、朗報を持っていくか」

 まずは一善に言われた通り着替えてから部屋を出る。しかし地下室への隠し扉か。どこにあったんだ?

 歩きながら予想を立てながら隣にある黒沢部長と夏穂が寝てる部屋の前に着く。そして二回ノックをする。すると中から黒沢部長の声が聞こえてきた。

「はい?」

「黒沢部長、俺です」

「あら、八手君かしら? 夜這い?」

「もう朝ですよ」

「男性は朝に局部が大変らしいわね」

「そういう下ネタはいいですから、朗報です。遺産の場所がある地下室が判明しました」

 そう言ってから暫くして、静かにドアが開く。慌ただしくドアを開けない辺りお嬢様なんだなぁと感心するが、ドアから覗かした黒沢部長の顔はそれはもう驚いたといった表情だ。

「……それは本当かしら?」

「昨晩一善が黒沢部長の為に探し回ってくれたみたいで、見つけたらしいです」

「……」

 その言葉に息を飲む黒沢部長。まぁ、一善の好感度を上げる為にこれぐらいはしてもいいだろう。

「すぐ行くわ」

「慌てなくてもいいですよ。まずは着替えてください」

「……私ったら」

 そう言ってパジャマ姿の黒沢部長は少し早くドアを閉める。一善、やっぱりお前が呼びに方が良かっただろこれ。役得だぞ?

 十五秒ほど後、夏穂の「マジか! 一善ナイス」という大声が聞こえてきた。どうやら珍しく朝早くから起きていたらしい。黒沢部長と何か話していたんだろうか?

「……トンボか?」

 待っている間、窓を見ると一匹の赤蜻蛉が視界を横切った。

「妻は、この季節の夕暮れに、自分の部屋からよく外を見ておりました。その姿を見た時、私は初めて妻に恋心を抱いたのです」

 いつの間にか延次郎さんが隣に立って、そんなことを教えてくれた。一晩中ここにいて、遠い日、もう会えない人を想っているのだろう。

「ということは結婚前にはもうこの屋敷はあったんですね?」

「いえ、結婚後です。私と妻は政略結婚でした。そして私は、結婚をしてから初めて妻を愛し始めたのです。何ともお恥ずかしい話ですがね」

「……そうだったんですか」

「時々、疑問に思うのです。私は結婚した後に妻に惚れました。しかし妻は、私に好意を抱いてくれていたのかと、ついぞその答えを聞くことなく妻には先立たれてしまいました……麗子が心配で成仏できないのではと言いつつ、私はただ自分勝手に、その答えを知りたくてまだ現世に留まっているのかもしれません」

「……まだ奥さんを?」

「ええ、悪霊化した時のことを思い出しました。自我が曖昧の霊魂の時、思い出の地であるこの場にいたのですが、ある日一族がここにやってきてこの屋敷を荒らし回ったのです。それを見て私は……」

「そうですか……」

「八手さん、もしまた私が悪霊と化した時、その時は私を力づくでもいい。止めてはくれませんか? ああなると自制が効かなくなる。麗子にまで危害を加えがけない」

「言われなくとも」

「はは、強い方だ」

「残酷なだけですよ。生者と死人、どちらかを大切にするかと問われた時、迷いなく生者を選ぶように自分に言い聞かせた結果です。ただ、仕事を擦る為にそう機械的に判断しているだけです」

「……私は生前仕事ばかりで、それで妻をおろそかにしてしまった。どうか、貴方はそうでないように」

「ええ、その忠告、心に刻んでおきます」

 人生の大先輩の言葉を、俺は蓬のことを思い浮かべながらその言葉を心に刻む。

 すると乱暴に後ろのドアが開いて夏穂が俺に体当たりしてきた。

「八手―! 遺産見つかったのかぁあああ!」

「ぐは! お前なんでそんなテンション高いんだよ!」

「だって嬉しんじゃないか!」

 いやまぁ、俺ももう少し喜こぶべきなんだろうが、一番の立役者である一善が朝やたら冷静だったのを見た後ではなんだかはしゃげないのだ。

 すると丁度、階段から一善と相澤さんが姿を現した。

「お、準備万端っすね」

「一善一善、ナイス!」

「おうよ」

 グッドサインを出す夏穂に一善が手を軽く上げて答える。いつもより大人しい。やはり徹夜明けなのでテンションが低いと見える。

「ありがとう。一善君。八手君も」

「う、うっす。黒沢部長が喜んでくれるなら俺も報われるっす」

 と、黒沢部長に褒められて顔を赤くする一善。ああ、俺も蓬の前ではあんなのだろうか?

「八手より恋愛経験値あるな、一善」

 夏穂がそんなことを言う……もしかして俺、あれより酷いのか?

「じゃあ、地下室への入り口に案内しますね」

 そう言って一階に降りる階段とは逆方向に歩き出す一善。

「一階に降りないのか?」

「ああ、二階にあったんだ」

 二階だと? 二階に地下への入り口があったのか。

「てっきり一階にあったと予測していたが……お前良く見つけたな」

「お前が予測した一階の場所はただの壁だったからまぁ、なら二階かなって……そういやあんまり変に思わなかったな。眠たかったから思考が変になっていたのかもしれねぇ」

 成程、眠気で思考が鈍くなっていたのが吉と出たのか。すると二階の長い長い廊下を歩き続けて、最奥にある一室へとたどり着いた。

「……ああ、妻の部屋か。ああ、そうか。成程」

 すると延次郎さんが何かを思い出したのか合点がいった様子。ここで間違いないらしい。

「何か、この部屋だけ生活臭があって調べずらかったんすけど、まぁ八手の予想した場所ですし調べてたら偶然見つけたんです」

「あれ、この部屋鍵が掛かっていませんでしたか? それで無理やりこじ開けるのは屋敷の破壊行為とみなすと相澤さんが仰って遺族関係者は他の部屋を探していたはずなのですが」

「そうなんですか。俺が来た時は鍵が掛かっていなかったっすよ?」

 そう言われ相澤さんが俺たちの前に出て例の部屋の鍵穴を調べ始める。

「はい、普通に開錠されていますね。無理やりこじ開けた後は無い為、反則行為とはみなしません」

「なんで開いてたんっすかね?」

「さて、それは私にも……」

 相澤さんが首を傾げる。しかし、鍵の破損でも反則行為とみなされていたのか……結構厳しいな。ならあの麗子部長の叔母が絵をやたらに捨てていくのも反則行為な気がするが……まぁ、もうそれはいいか。

「祖母の部屋らしいのですが、黒沢部長、心当たりありませんか?」

「……そうね、お婆様が私たちを助けてくれたのね」

 そう言う黒沢部長。まぁ、そういった感動話にしておいてもいいだろう。

「しかし八手様、よくここが朱美様の部屋だとわかりましたね。あなたには伝えてはいないはずなのですが」

「ああいえ、その、実は今この場に延次郎さんがおられるので……」

 俺からそんな事実を聞き目を丸くする相澤さん。まぁ驚くのも無理はないだろう。

「その、失礼ですが延次郎様と初めて会った時のことを教えて貰えますか?」

 本当にいるかどうかの確認か、相澤さんがそんなをことを聞いてきた。

「あの、延次郎さん、教えて貰えませんか?」

「あー……銀座のキャバクラで……」

 孫である麗子さんを眺めながら言いにくそうにそう話す延次郎さん。まぁ仕事の付き合いだろうし、キャバクラぐらいなら麗子部長も許して……いや、黒沢部長の目つきが少し鋭くなっている。

 怖い、他人事とはわかっていても俺の背筋に冷や汗が流れた。

「銀座のキャバクラで会ったと、孫の前なので言いにくそうにしておりますが」

 延次郎さんにこれ以上詳しい情報を語らせるのも酷なので、そう付け加えておく。しかしそれで十分だったのか、相澤さんの目にうっすらと涙が浮かべられた。

「延次郎様……大変、お世話になりました」

 深く深く、見えない延次郎さんにお辞儀をする相澤さん。二人に何があったかは知らないが、彼は延次郎さんには大恩があるらしい。

「まったく、それは生前聞いた。私に恩を感じるならば、相澤、弁護士の仕事でそれを世間に返すといい」

「延次郎さんに恩を感じるなら、弁護士として世間にそれを返せと言っておられます」

 耳に届かない言葉を俺の口通して伝える。相澤さんはあの人らしいと小さく笑い何度も頷いた。

「失礼、私事で時間を取らせました。では一善様、案内を」

「はい、この部屋の大鏡なんですけど」

 そう言いながら一善は部屋を開け、入って行った。それに続いて黒沢部長は何やら胸元を片手で押さえ部屋に入って行く。何か、思うところがあるのだろうか?

「……ここが、お婆様の部屋」

 室内には一善が行っていた大鏡と少し大きなベッド。そして花柄の模様が刺繍された絨毯があった。だがそれよりも、一際俺の目を吸い寄せたのは一枚の絵だ。

「……麗子部長にそっくりですね」

 一善が相澤さんにドアになっていた大鏡の説明をしている間、俺は部屋に飾られていた一枚の絵に釘付けになった。無数の赤蜻蛉が飛んでいる様子を窓から愁(うれ)いを感じられる表情で眺める黒髪の女性の絵。一見、長髪のこの女性は黒沢部長に見えたが、不思議とそうではないとすぐに理解できた。

「赤蜻蛉を眺める女(ひと)と名付けた絵です」

「延次郎さんがこれを?」

「はい。生前、妻の誕生日に書いて送った絵です。実はこの部屋で描いた絵なので、そこの窓に、妻がいましてね。私がせっせと……」

「ああ、成程……しかし、素晴らしい絵ですね」

「ありがとうございます。妻もこの絵をやたらと褒めてくれました。妻は……私より絵が上手いはずなのが」

「奥さんも絵を?」

「はい。妻に影響され私も絵を始めたのです。初めは同じ趣味を持てば会話も弾むだろうという動機だったのですが……いつの間にか、私も描くことが楽しくなっておりました」

 そう言いながら自ら仕上げた絵を眺める延次郎さん。妻の顔を心に焼き付けているのだろう。

「おーい、八手ぇー」

 と、呑気に夏穂が隠し扉の前で俺の名前を呼んできた。

「名残惜しいですが、行きましょうか」

「はい、そうですね。人を待たせるのは失礼ですから――」

 そう自分に言い聞かせて、絵に背を向けて地下へとつながる入り口がある大鏡へと向かう延次郎さん。絵を一度見てから、俺もそれに続く。しかし、いい絵だったな。ただ、そんな言葉しか浮かべられないほどに。



 私は今螺旋階段を下へ下へと降りている。

 何の臭いかまではわからないけど、古臭い空気を吸いつつ、主のいない蜘蛛の巣に気を付けながら遺産があるという地下を目指しているのだ。

「何かゲームみたいだ」

「そうね。時代が違うみたい。ケルト神話を書いた本にこんな石造りの地下への入り口が出てきて……こういう所、少しワクワクするわね」

 冒険チックなこの雰囲気を感じて真っ先にゲームという単語が出てくる私と、本という単語が出てくる黒沢部長。これが育ちの違いというものか。私は優一が中学生の頃、よく健史の家でゲームで遊んでいた時、黒沢部長は本を読み漁っていたのだろう。ところでケルトって何?

「あ、扉」

 長い螺旋階段を下りるとこの屋敷のあちこちにあった木製のドアが現れた。そしてその前で立ち止まり振り向く相澤さんと一善、一番最初にこの場所に入るのは孫である黒沢部長に譲るらしい。

「ありがとうございます」

 ぺこりと小さくお辞儀をして扉を開ける黒沢部長、そして真っ暗闇な室内に入り、わかっていたように部屋の明かりを付ける為のスイッチを押す。

「……まぁ」

 小さく、そんな言葉しか発しない黒沢部長。まるで小さな子供が大事にしていた宝物を見つけた様な、そんな声だった。

「八手君を呼んできて、お爺様も」

「うん。わかった」

 中にある物が何かは気になったが、取りあえず言われた通り八手と黒沢のおじいちゃんを呼びに行く。すると相澤さんも私についてきた。

「ん?」

「いえ、少し弁護士の勘と言いましょうか。厄介なことになっていないかと」

 厄介なこと? うーむ、弁護士という仕事ととは勘が鍛えられるものなのだろうか。

「ん……」

 と、弁護士さんの言う通りなんだかトラブルが起きているようで、怒鳴り散らす声が聞こえてきた。

「ヒステリック叔母さんか!」

 うーむ、私たちが一か所に集まっているのを察知してか、黒沢部長の叔母であるあの人がこの部屋の前まで来ていたらしい。今部屋の前で八手が対応に当たっているらしく、あいつに対する罵声が何度も聞こえてきた。

 案の定、部屋の前では八手とあの叔母さんと、ただ黙ってみている黒沢のおじいちゃんの姿があった。

「ああ、まったくあの方は」

 弁護士さんの心底疲れたような言葉が口から漏れる。あの叔母さんには普段から相当苦労を掛けられているのだろうか。

「そこを退きなさいあなた! 遺産は私が見つけたの!」

「いや、見つけたって、ならなんで相澤さんに言わなかったんですか?」

「それは……急な仕事が入って電話をしてて、用事が入ったのよ!」

「なら、遺産への隠し扉がなんだったのか俺に教えて貰えますか? 貴方の言う通り俺の友人が貴方を騙して遺産を見つけた成果を横取りしたのならば、答えてください。遺産を見つけたのならばわかっている筈ですよ」

「か、隠し扉? そ、そんなの、絵の裏にでもあったんでしょ!」

「はぁ……はずれです。嘘は良くないですよ。子供じゃないんですから」

「五月蠅いわねそこを退きなさい!」

「五月蠅いのはあんただ、それにさっき、俺の友人に騙されたって、嘘ついたよな。ああ?」

「いや、だ、でも、あの」

 と、なんだか八手の奴の声色が低くなって叔母さんを圧倒し始めた。どうやらあの叔母さん、一善のことを悪く言ったらしい。八手本気で怒るとマジで怖いからなぁ……。

「あんた、言っとくけどここにある遺産ってのは金にはならないからな?」

「嘘言わないでよ! あ、そうだ。私は今までこの遺産を見つける為に屋敷中いろんな場所探したの! その労力、あなたどう責任を取ってくれるつもりなのかしら! この茶番に浪費した時間でいくら儲けれたと思っているの! ほら、責任取りなさいよ」

「なら茶番に付き合わずその“儲けられる仕事”に専念しときゃ良かったろ」

「あなたね! 侮辱罪で訴えるわよ!」

「侮辱罪はあんたの方だ。今の会話スマホのボイスレコーダーに前部入ったぜ。さっきから俺への罵声、黒沢部長への侮辱、自分の利益の為に俺の友人に騙された何て虚言。全部だ」

「な……な、何、勝手に……あ、あの子がこの先どうなってもいいの? ねぇ? 殺し屋とか暴力団とか案外簡単に雇えるのよ」

「あんたなぁ、言ったろボイスレコーダー仕掛けてあるって。さっきの世迷言も録音されたからな……もし黒沢部長の身に何かあればあんたも終わりだ。だから、これ以上俺と、あの人に関わらないでくれ。黒沢部長を嫌うなら、嫌ったままどっか、遠い所で勝手に生きててくれよ。なぁ……頼むから!」

 最後、怒りとかそんなんじゃない感情を言葉に込めて、八手が叔母さんにそう頼んだ。だがそんな気持ち汲み取る気など無いといった感じで、八手の顔を爪で引っ掻こうと叔母さんが腕を振り上げた。

「そこまでにしてください。光子様、自己中心的にも程があります」

 その腕を、弁護士さんの静かな怒りを込められた声がピタリと止めさせた。

「何よ。あんた黒沢の味方でしょう!」

「ええ、延次郎様には大恩があります。故に黒沢家を生涯支え、導きますが、それは人形の様に何もかも言うことを聞くという傀儡になるという決心ではありません。人道を逸れれば諫(いさ)めましょう。道理を違えれば咎(とが)めましょう。そして、法を犯せば裁(さば)きましょう。私はそうして……あのお方に恩を返します」

「こ、この役立たずが!」

 そう言い残し去っていく叔母さん。すると今まで黙ってみていた黒沢のおじいちゃんが口を開いた。

「やれやれ、あれも昔はああでは無かったんだが、黒沢では女は道具、それに反発して自分で会社を経営し始めたのだが……才は無く苦労して、あなってしまった。申し訳ないな、八手さん」

「いえ」

 本当に申し訳なさそうに謝るおじいちゃんに、八手は短く答えるのみだった。

 すると弁護士さんがぺこりと会釈してどこかに行く。あのおばちゃんを追いかけに行ったのだろう。

「それより、地下室にある遺産を見に行きましょうか」

「ええ、そう言えば、生前妻のアトリエに入ったのはいつだったでしょうか……」

「地下室にあるアトリエは奥さんが所有していたのですか?」

「一応共同での所有権は有りましたが、まぁ、妻はあそこで絵をかいて私は外の庭で絵を描くのでいつの間にか妻のアトリエという認識なっておりました。とは言っても絵を置くスペースとしては二人の空間でして、あそこには私の下手な絵と妻のできの良い絵が乱雑に置いてあります」

「成程……そうだったんですか」

 ふむふむ、つまり地下にも絵がいっぱいあるのか。じゃあこの屋敷に飾ってある絵もほとんどが黒沢先輩のおじいちゃんとおばあちゃんが描いた絵なのだろうか?

「じゃあこの屋敷は二人の美術館なんだ」

「ははは、美術館ですか。まぁ、屋敷に飾ってある絵は妻の知り合いから譲り受けた物がほとんどですがね」

 譲り受けた物? じゃあこの屋敷の絵は色々な人が描いた物だったのか。

「いい絵ですし高かったんじゃないんですか?」

「そうでもないですよ。妻は生前、黒沢家で芸術家を支援する事業をしておりまして、その恩返しにと絵が毎日送られてきたのです。ですがまぁ、そうですねぇ――」

 と、地下へと降りる階段歩きながらおじいちゃんがやたらと長い外国人の名前を口にする。すると面白いように、どんどん八手の顔が青白くなっていく。何? 何なの?

「八手どうした?」

「いや、さっきお前が言った美術館って例え、マジだわ。この屋敷の絵、今ほとんど美術界で成功している人で、一番いいので軽く臆を越してるかもしれない」

 奥? じゃないよな。おく……おくって数字の桁の臆……億!?

「……あのおばちゃん、私達がここに到着した時に、絵を乱暴に扱ってたよね」

「何とまぁ……遺産よりそこら辺に飾ってある絵の方があのおばさんが欲しがってたものだったとは。皮肉なもんだな」

 八手と二人で乾いた笑いを出しながら階段を降り切ると、一善が呑気に欠伸をしながら私たちを待っていた。と、八手の顔色を見て一善が驚いた様子。すると八手が何か耳打ちをすると一善がもう一度驚く。まぁ、億を超える絵がそこら辺に会ったのだから驚くのも無理はない。

「ま、まぁなんだ。さっさとおじいちゃん連れて入れよ。そこにいるんだろ? 中で黒沢部長が待ってるぞ」

「あ、ああ。そうだな」

 何ともぎこちないやりとりをしてから部屋に入って行く八手とおじいちゃん。私もそれに続いて部屋に入って行く。

「壁が石でいっぱいだ」

 アトリエの中はかなり広く、コンクリートに大小様々な石がふりかけの様にさされており、おしゃれな雰囲気だった。そしてその壁を覆い隠す様に、本当にたくさんの壁が飾られていた。

「お爺様、来たのですね」

「麗子。遅くなった」

「構いませんわ。叔母様が来たのでしょう?」

「……ああ、ところでその絵は何かね?」

 孫と短い会話をした後、部屋の中央に主役と言わんばかりに飾られてあった絵におじいちゃんが歩み寄って行く。

 絵は、黒沢部長の体に隠れていて見えなかったが、それを見て黒沢部長はすっと身を引いたことによりその姿を見ることができた。

 それは、一人の男が描かれた絵だった。若いけど、多分黒沢部長のおじいちゃんがモデルなのだろう。

「……朱美。こんな絵を描いていたのか」

 その絵を鑑賞深く見るおじいちゃん。何か、愛する人からの想いでも感じ取ったのだろうか?

「愛していたのですね」

「ああ、私は妻を愛していたさ」

「そうではありません。お婆様がお爺様を愛していたということです」

「この絵を見てそう、思うのか?」

「……ああ、気づいていないのですね。絵の隅にある題を見てくださいまし、お爺様」

「……ああ、そうか、そうか。そうだったのか……朱美。お前も、私を好いていてくれたのか」

 おじいちゃんが目頭を押さえる。私も気になって絵の隅に書かれた字を呼んだ。

 そこには絵を描き上げた朱美という女の人の名前と、題として『最愛の男(ひと)』と書かれていた。

「……両想いだったんだ」

「はは、そうか。まったく、素直に想いを言葉にできないのは、夫婦揃ってのことだったか」

「お爺様……」

「ありがとう麗子、一善君。それと八手君に夏穂さん。この場を探し出してくれて、それと、この絵を私に見せてくれて」

「お爺様? 体が」

 うっすらと涙を流しながら感謝を述べて、微笑むおじいちゃん。そしてその体はだんだんと蛍の様な光を出しながら、薄くなっていった。

「お爺様、行かれるのですね」

「すまない麗子、お前のことが心配だなんて言っておきながら、私の心残りは妻の想いを知りたかったことらしい」

「構いません。それに、私は強くなりました。加えて、こんなに心強い友達もできましたし、安心してお婆様に会いに行ってください」

「そうか……なら、安心だな」

 そう言って成仏しきる前に、お爺さんが八手と一善がいるこちらを向いた。

「麗子を、頼みます」

「ええ、よき友人でありますよ」

「はは、娶(めと)ってはくれませんか」

「その、すでに想い人が」

「ああ成る程、失敬。うーむ。八手君ならば許したのだが……貴方は正直そうだ。嘘を付く男には娘はやれませんからな」

「いや、俺も嘘ぐらいは付きますよ」

「そうですか? 伴侶に対しては誠実な方と見受けたのですがね」

「あ、いえ、その、それは」

「ははは、どそこら辺はまだ青いのですな」

「あの、最後の最後でからかわないでください」

 八手がやり辛そうにそう言う。するともう自分の体がこの場から消えるのだと察したのか、最後、顔だけになって黒沢部長の方におじいちゃんは向いた。最後、この人が見たのは孫の顔になったのだ。

「麗子、ではな。良い絵を描きなさい」

「ええ、お婆様に負けない絵を描きあげます」

 それが別れの言葉。妻の想いを知りたくて、この世に止まっていた男が、最後に孫に託す応援だった。

 四人になって、耳が痛いぐらいの静寂が襲ってくる。唐突な別れだったが心が状況に追い付かず、悲しくはない。いいや、むしろ喜ぶべきことなのだろう。だって、あんな幸せな顔で黒沢先輩のおじいちゃんは成仏したのだから。

「……」

 最後、無言のまま、後ろに遺された一枚の男の絵を見る黒沢部長。その姿は儚さと力強さという矛盾した魅力を秘めていた。

 こうして今回の一件は終わった。私たちは暫く無言でアトリエの絵を見て回ってから、光(未来)を求めて螺旋階段を昇り始めた。



 今俺は黒沢部長から事の顛末を聞かされている。

 黒沢部長の祖父である延次郎さんが成仏した翌日、黒沢部長がお礼を兼ねてオカルト研究会の部室で寿司をふるまってくれたのだが、そこであの後どうなったかを聞いたのだ。因みに俺と一善は勿論、普段は家で留守番している夏穂も今日ここに来て寿司をもぐもぐとほうばっていた。

「それでは黒沢部長はもう晴れて自由の身という訳ですね」

「まだ不安は残るけど、相澤さんが味方になってくれたのが大きいわね。黒沢の人間はあの人に守られてきたゆえにあの人には勝てないもの。あの別荘に移り住むのも特に問題なくできたわ」

「昨日の今日でもう住所を移したんですか?」

「ええ、私って普段は読書ばかりしてるけど、案外行動派なのよ?」

「そうでしたね。家の住所をすぐに特定したり、家の近くでお化けみたいな恰好で待ち伏せたり……」

「あら? そんなこともあったかしら?」

 ははは、そんな簡単に忘れないで欲しい。あの行為で毎日近所の奥さん方から口元を隠してひそひそと陰口を言われているのに……。

 まぁそれはさて置き一件落着、報酬として俺は目の前にある寿司を食べようと手を伸ばすが、驚きでその手が止まってしまった。

「おい、ペース早すぎだろお前ら」

 なんで黒沢部長と俺が話している十分そこらで二人で大きな寿司桶を一つ消化してんだよ。夏穂はわかる。こいつの胃袋はブラックホールだから。だが一善の奴もこんなに食ったのか?

「一善、お前早食いしてんじゃないんだから落ち着いて食えよ」

「うるせぇ。やけ食いだ!」

 何かあったんだろうか。昨日一番の功労者はやけ食いをしている。財布でも落としたのだろうか?

「ふんふんふーん」

 そして子供舌な我が相棒は、一善とは対照的に機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、山葵(わさび)を箸で取ってから寿司をポンポン口に放り込んでいく。行儀が悪いので注意だ。

「夏穂、山葵も食べ物だ。きちんと自然の恵みに感謝して食べろ。というか奢ってくださった黒沢部長に感謝して食べろ」

「あら、違うわよ」

 と、すぐさま黒沢部長が否定する。え、割り勘ですか……。あのお財布がぁー、その、今月厳しいんです、はい。

「それは教授が奢ってくださった物ですよ」

「教授が、どうして?」

「現代美術の先生がいらっしゃるでしょ? その方に私の家を今日の朝招いてあの絵を見せたのよ。そしたら感涙の涙を流しながらお礼を言ってきたわ」

 ああ、成程、そりゃあ現代美術の巨匠たちがこの世に発表していない作品を見返り無しに拝ませてくれたのだ。そりゃあ寿司ぐらい奢りたくもなるだろう。

「あの絵、どうするんですか? 売ればお金になりますが」

「売るなんて勿体ない。今後の勉学の資料として手元に置いておくに決まっているわ。でもまぁ、見たい人がいれば今朝の教授同様、無料で公開するつもりよ。それと、お婆様の生前の仕事の関係で色々な画家とのコネクションもできそうだし、そんな絵を売るなんて失礼だとは思わない?」

 まぁ、それもそうか。しかし黒沢部長、今日からあの別荘に一人で住むのか。お化けの心配とかはもうないが。一つ問題がある。

「黒沢部長。交通の便とかは大丈夫なんですか?」

「ああ、心配いらないわ。今日、車を買う予定よ。そうね。適当に買うわ。可愛いのがいいわね」

 わーお、お金持ってる人ってすごーい。車を適当に買うなんて信じられないです。こういうのはネットで口コミとか調べて……て、まぁいいか。一々驚いてたらきりがない。

「そう言えば家とは絶縁状態なのにお金が入ってくるんですね」

「そんな訳ないじゃない。自分で稼いでるのよ。株で」

 あ、この人すげぇはマジで。遺伝子レベルで優秀なんだろうなぁ。

「まぁ、その、問題が無くて何よりです」

「うふふ、ありがとう」

 ……いや、最後の最後で本当に驚いた。

「黒沢部長、普通に笑えましたね」

「……」

 って一善、見とれて寿司を口から落とすな汚い。まぁなんだ。これがこいつにとっての今回の最大の報酬になったなら幸いだ。これで先ほどの不機嫌も吹き飛んだだろう。

「あら本当、昔から家のせいでぎこちなくしか笑えなかったのに。ふふ、これもあなたたちのおかげかもね」

 黒沢部長は優しく微笑んでいつもの椅子で、いつもの分厚い本を取り出した。では最後に一番聞きたかったことを聞こう。

「そう言えば黒沢部長はどうして絵を描き始めたんですか?」

「あら、言って無かったかしら? 些細なことよ。昔ね。私がつまらないことで落ち込んでいた時、お爺様が似顔絵を描いてくれたのよ。それが嬉しくてね。感激してたらお爺様がお婆様はこれより上手く書けるんだぞって自慢げに教えてくださって。なら私はいつかお婆様より上手く描けるようになるって言ったのよ」

「成程、子供の頃の約束ですか」

「ええ、お爺様もそれを覚えていたのには驚いたわ。最後、あんなことを言われるとは思わなかったわ」

 そう説明してから、本を読み始める黒沢部長。

 しかし絵、か。俺は将来家業を継ぐし、趣味の延長線でこの大学に通っているが、そんな俺にもいつか赤蜻蛉を眺めていた妻を描いたあの絵と同じ、素晴らしい絵画を描けるのだろうか?

 俺はタイトルだけが決まっていない蓬の絵を鞄から取り出して眺めながら、そんなことを考えていた。


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