暴食

 私はかつて少食だった。

だった、と言うのも今は違うからだ。

以前は一日の食事を菓子パン一つで済ませたり、マグカップ一杯のシリアルで満腹感を得ていた。学生時代の給食も他の生徒ほど食べられず、予め少なくしてもらっていた程だ。

 そんな私があろうことか、ほんの数週間で食べる量が段々と増え続けている。それも止めどなく毎時間増していくもので、季節柄の食欲どころの騒ぎではないほど。

異変があった始めの一日は三食しっかり食べた上に間食を二度し、その次の日は朝食を食べたにも関わらず通勤途中でコンビニに寄ってパンを買って食べた。そんな感じでどんどん食べる量も回数も増えていったのだ。

 当然ながら、これまで胃が小さかったのにかつてない程に食べれば、それを消化出来る筈もなく口から溢れ出る。未消化のまま胃液を交えながら飛び出る吐瀉物を堪え、トイレに駆け込む回数が増えている。

 明らかに異常状態なので医者にも診てもらったが、原因は不明。ただ単に私が異常に食べて吐いているだけなのだと言う。

こうなるきっかけを探ろうにも自分には覚えがなく、診察中も食べ物のことを考えていた。そんな状態ではまともな診断も出来ないと突っぱねられ、精神面での異変ということで精神科を勧められた。

 それからは病院をたらい回しにされ方々で診察を受け、特に異常もないとして帰される。何かしらの薬が処方されることは一度もなく、どの病院でも結果は同じだった。

原因は不明、ただの食べ過ぎ。

 こんな状態では日常生活に支障が出るのは当然で、これまで続けていた仕事も辞めざるを得なかった。

特に親しい友人もおらず、実家から離れた独り身には誰かから心配されることはない。寂しくはあるが、気兼ねなく吐き出せるから今では気にならなくなった。

 頻繁に吐くようになってから喉の調子が悪くなり、無理に喋ろうとも思えなくなっていた。意識して口を開くのは食べる時と吐き出す時くらいだろう。

寝ていても途中で起きて吐いてしまう為、歯磨きも億劫になり水で口を濯ぐだけにしてしまっている。不衛生ではあるが改善する気力もない。

 幸いにもまだ貯金はあるし、この状態が一時的なものであればと希望的に捉えている。いつかは元に戻れる。その内治まる。

でもそれはいつになる?


「喉が渇いた、腹が減った、口が寂しい」


あぁ、まただ。私のすぐ近くから誰かが語り掛けてくる声が聞こえる。

まるで不満を漏らすように訴えてくるこの声が一度でも聞こえれば、何か食べるまで声が止むことはない。


「まだ足りない。足りない。足りない」


渇ききって精気も感じられない声。酸味のある臭いが鼻につく。嫌だ、もう食べたくない。

もう十分に足りている筈だ。私のはらわたは拒否の声を上げている。

しかし、私の耳に語り掛けてくるそいつはそれを否定する。


「もっと、もっと、もっと。食え、食え、喰え」


耳を塞いでも聞こえてくるその声に気がおかしくなりそうだ。


───いや、既におかしくなっているからこの声が聞こえているのか。

あぁそうか、そうなのか。そうだったのか。

既におかしくなっているのなら無理に正気を保たせることもない。いっその事、この声に従ってしまえば良いのか。

今ある地獄から抜け出す為の救済はそこにしかない。私は早く楽になりたいんだ。


腹の虫が鳴いた。


そうだ、食べなきゃ。もっと。

腹が鳴いてる。それは腹が空いている証拠。

「もっと、食べないと」

聞き慣れた掠れた声が自分の口から漏れた。







 ───以前、診察に来た患者が再び自分のもとへ訪れるのにいい気分はしない。特に緊急搬送された場合は。

前回も正常とは言い難い状態だったが、今回はそれよりも更に悪化している。医者でなくとも一目見るだけで十分にわかった。

 まず目を引くのは体の細さだ。元々食が細かったらしく健康診断では痩せ過ぎていると警告が出ていたが、今の体重はその時の半分ほどしかないだろう。骨の輪郭をなぞるように薄い皮膚が張りつき、血管が脈打つのが見える。

 顔も同様に肉が痩けているが、頬はまだ肉が残っているらしい。恐らく食べ物をきちんと噛んでいたからだろう。

その一方で目元の隈は同僚や部下にも見たことがないほど深く、眠れない状態がかなり長く続いた事が窺える。

 次に目を引くのは腫れた喉元と所々欠けている歯だ。どちらも頻繁に嘔吐を繰り返す状態が続いた場合に現れる症状で、なぜここまで痩せているのかの証明とも言える。

 これらの状態から検査するまでもなく過食症だと判断出来るだろう。無論、後ほど送られてくる検査結果を見るまでは断定してはいけないが、一刻を争う病なだけに判断は早急に行わなければならない。

 この患者が何を抱えてこうなったのかは不明だが、それらしい要因は数えきれないほどある。

育った環境や職場での人間関係や与えられた仕事内容等に難ありだと思っていたが、それは改善に至らなかったのかもしれない。患者が意識混迷状態ではいずれもはっきりしない。

家で倒れていた患者を見つけたのはマンションの管理人らしく、家賃滞納の催促で訪ねたらしい。

 どれを取ってもストレスの要因になるものばかりだが、以前の診察で本人はそれを自覚していなかった。だからこそここまで進行したのだが……。


 自分や周囲の人間が絶対にこうならないとは断定出来ないが、気を付けることや相手の変化に気づく事くらいは出来るだろうか。

とりあえず今はこの患者の回復を手助けする事に専念しようと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る