フライドポテト

うにまる

フライドポテト

 「成功するって、どんな感じ?」

 美沙希は落ち着いた調子で言った。あまりに自然な口調だったため、質問が突飛であるということに、僕は遅れて気が付いた。

 「僕にはわからないよ。第一、僕は何かに成功しているかい?」

 僕が声を発した後、しばらく沈黙が続いた。なぜか時間がものすごくゆっくり進んでいるように感じた。僕は時計を見て時間の流れが正しいかを確かめようとしたが、腕時計をしておらず、周りのどこに時計があるのかもわからなかった。

 やがて、美沙希が先ほどと変わらない調子でしゃべり始めた。

「あなたは十分成功していると思うわ。高校では学年トップの成績しかとっていないし、そのまま航空大学校へ現役で合格。あの学校って倍率結構高いのよ? そして齢二十七にして大型旅客機の機長を任されている。あなたの経歴は成功と言わずになんと言うの?」

 「確かに経歴だけを抜粋したら、若手なのにエリートで、出世街道をひた走っている天才のような聞こえはするね。でも、天才には天才なりの苦労があって、そのことを考えると、とても成功したとは言えないよ」

 「自分で自分のこと天才って言っちゃうんだ」

 美沙希の声が、ほのかに明るさをともなった。僕はその明るさを耳で感じていた。

 「冗談だよ、冗談。でも、この前も話しただろ? 僕はパイロットに向いていないんだってことを。子どもの頃に抱く夢は慎重に選ばなきゃだめだね。僕みたいに、ライト兄弟の伝記を読んで、こんな素敵な内容を書けるようになるなんて! と思って目指す夢ほど短絡的なことはない。パイロットになってからだよ、伝記はライト兄弟本人が書いているんじゃないって知ったのは」

 「伝記を読んでいた達也少年が抱くべき夢は、パイロットではなく、伝記作家だったのよね」

 まるで子どもを宥めるような口ぶりで、美沙希は言った。あまりに当を得ていて、ぐうの音も出やしない。

 「しかも、自分が高所恐怖症だってことに気付いたのも、航空学校に入って実務訓練として初めて飛行機に乗った時だしね。うちの家庭は貧乏で、その時まで飛行機に乗ったことは一度もなかった。だから、憧れの飛行機に乗った達也少年の心は、『高所』という恐怖によってものの見事に打ち砕かれたのさ。まぁ、それでも、いまさら高所恐怖症だからって、親が苦心して入れてくれた学校を辞めるわけにもいかず、この年になっても、まだ慣れないまま操縦しているよ」

 「あなたはそういうところがあるのよね。操縦初めの頃は、あまりの恐ろしさで、教官に、もし墜落したら死ぬかもしれないのでヘルメットをかぶりながら操縦していいか、と尋ねたのよね?」

 「そうそう。で、教官はヘルメットして操縦なんてしたら、細かい操作パネルが見えなくなるからダメだって叱ったと。まあ、あたりまえだよね」

 「その話だけどさ、あなたも教官もかなりおかしいと思うわ。だって、普通の人なら、ヘルメットをかぶっていたって墜落したら死ぬにきまっている、と突っ込むはずよ。なんであなたも教官もそんな単純なことに気付かないのかしら」

 美沙希の声に柔らかい笑みが加わる。僕は急に恥ずかしさを覚えて、この話をさっさと終わらせたいとさえ思った。

 「まあ、でも今となってはこのエピソードに感謝すべきだよ」

 「そうね」

 僕と美沙希がいる場所は光がなくて、暗闇に近かった。きちんと部屋の中にいるが、電気をつけておらず、カーテンも閉め切っているからだ。僕は椅子に座っていて、美沙希はベッドの上に座っている。僕の目はだいぶこの暗闇に慣れてきて、美沙希のぼんやりとしたからだの輪郭を把握することができてきた。

 暗闇に慣れることは駄目かもしれない。僕は暗闇の中で自分の手のひらをちらりとみた。

 「僕が成功したというなら、美沙希も十分成功していると思うけど」

 僕はこの思いを言おうか黙ろうか迷ったが、結局言うことにした。

 「美沙希だって、高校時代の成績はトップクラスだったし、現代文のテストに関しては最高得点の地位を独り占めしていたでしょ。大学だって世間からみたら難関大学の部類に入る大学に入学しているし、就職先だって大手の広告代理店だ。とても失敗しているようには思えないけどね」

 「そうね、やっぱり天才の苦悩はだれにもわからないのかもしれないわね」

 美沙希はあからさまに僕の口調をまねていた。彼女の声が明るい。

 「大手広告代理店って、周りからの評価はいいかもしれないけど、実情はひどいものよ。上司がしたくない依頼内容はすべて部下の私に押し付けるし、だからといって、いざ私が案を提出すると、俺の方がもっとマシな案を考えられるって足蹴にされるし、しまいには私の案をめちゃくちゃだと言っていたのに、気づけばその案をさも自分が考えたかのようにクライアントに提出しているし。ああ、あとセクハラもひどいわね」

 「セクハラは許せないね」

 きっと、美沙希が抱えていた苦痛は、言葉では抱えられないほど、重く、つらいものだったのだろう。僕は、今だけでもその苦痛を和らげてあげたかった。

 「何言っているの、セクハラ以外も許せないわよ。でも、社会の一部として動く以上、ある程度の苦難っていうのはあらかじめ決まっている」

 僕はそのあとの語を継ぐことができなかった。彼女の性格をよく知っているからかもしれないし、あるいは彼女の扱いをよく知らないからかもしれない。

 僕は美沙希のほうをみた。彼女の体躯は普通の女性よりも少し華奢で、細い肩の上に白くて柔らかそうな顔がある。ただ僕の目には、その白い顔に熱い血がほとばしっているのがにじみ出るような赤が重なっているようにみえ、二色の混じった色が部屋全体の暗闇によって鮮明さを抑えられたようになっていた。

 僕は美沙希に、飲み物でも買ってこようかと尋ねたが、美沙希はいらないとやんわりとした声で応えた。

 「空を飛んでいるって、どんな感じ?」

 唐突に美沙希はこんな質問をしていた。僕はただひと言、怖いよ、と言うこともできたが、なぜか僕は美沙希との出会いを思い出していた。

 美沙希は高校の入学式で見かけて以来、ずっと僕をとりこにしてきた。入試で高い点数をとった一年生が、全校生徒の前で簡単な挨拶を行うことになっていて、その役をやっていたのが美沙希だった。僕はステージに近い位置に並んでいたため、その姿を間近で見ることができた。ステージに登壇する姿はとても凛々しく、長くのばされた黒髪はスローモーションが起きたかのようにゆっくりなびいていた。

 高校二年のとき、美沙希と同じクラスになり、僕は暇になるとすぐに彼女のことを見つめていた。彼女はクラスの中でも人気者で、誰からの声掛けにも笑顔で対応し、しかし八方美人といった態度でもない気さくさがよくみてとれた。さらに、誰もやらないような係を積極的に立候補したり、明らかに面倒な雑務を、彼女は一挙に受け入れていた。そのときもやはり笑顔だった。

 一方で、彼女には違う一面もあることに、僕は薄々勘づいていた。それは何気ないときにあらわれる。例えば、昼休みの終わる五分前や、掃除のときに使うバケツを取りに行くときなどだ。彼女は突然何かを思いつめたように硬直し、しばらくのあいだ、まるでこの世界が自分一人になったかのように微動だにしなくなる。やがて、はっとしたように動きを開始し、またいつもの笑顔に戻るのだ。しかし、僕の知る限り、そんな不審な行動をした次の日から二日か三日の間、必ず彼女は学校を休んでいた。彼女は友達に、風邪をひいてしまった、などの当たり障りのない理由を話していたが、僕は違うのではないかと思っていた。具体的な根拠もなければ、本人に直接聞いたこともないが、休んでいる間、彼女は自分の部屋で一人荒れ狂っているか、もしくは片隅で体育座りをしてただ一点を見つめているといった想像が浮かんでいた。

 高校三年のときも美沙希と同じクラスだったが、特に親しい友達になるわけでもなく、ろくな会話もしないまま月日が流れていった。大学受験が近づくと、クラスメイトの中では、お互いの勉強の良し悪しを気にするようになり、僕と彼女がクラスの中で頭が良い人として枠付けされていた。しかし僕も彼女もお互いをライバルだと感じることもなく、それゆえ接点もないままに時間は過ぎていった。

 彼女との本当の意味での出会いは意外な形で訪れた。そのとき僕はハンバーガー屋で勉強をしようと注文の列に並んでいて、やがて自分の番になり、フライドポテトのMサイズを頼んだ。会計を済ませると、店員に注文の品が出てくるまでレジの端で待っているよう促されたので、言うままに待っていると、自分の次に並んでいた客が美沙希だった。僕は思わず彼女をみつめてしまっていた。彼女は店員にフライドポテトのMサイズを注文し、会計を済ませ、自分と同じようにレジの端に行くことを促された。彼女は店員に軽くお辞儀をし、僕の方を向き、僕と目が合った。

 「小林君だよね? もしかして、私の頭の中、覗いた?」

 僕はしばらく彼女の言っている内容が頭に入らなかった。混じりけのない透明な白い肌と、決して大きくはないがそれでもはっきりとした両目を向けられ、薄い唇から発せられた言葉はもはや言葉としての機能を有していなかった。

 僕はやっとのことで、「糸井さんが後ろにいるとは思わなかった」と彼女の言葉に対応しているかどうかもわからない返事をすることができた。彼女は薄い唇を横に広げてほほ笑んだ。

 「私だって、ハンバーガー屋くらい行くわよ。私、フライドポテトが好きなんだよね。いや、正確に言うとMサイズが好き。S、M、Lがあるでしょ? 私はMが好きなの。ポテトを分けるとき、Sだと激しい喧嘩が起きちゃいそうだし、だからといってLはまったく喧嘩が起きなさそうだから面白くない。ちょっといじわるができて、すぐ仲直りができるMサイズがちょうどいいの。まぁ、ポテトは一人で食べる予定だったけどね。小林君もわかる?」

 「え、ああ、うん。僕にはMがちょうどいい量だから……」

 「たしかに、小林君はMだね」

 「糸井さん、それ学校で言わないでね。違う意味でとられるから」

 僕が注意をすると、美沙希はクルクルと笑い始めた。彼女の笑顔を近くで見るのはそれが初めてだった。

 「ごめんごめん、悪気はないの、これっぽっちもね。むしろ私は小林君のことが羨ましいのよ。Mサイズでいる小林君が。私には到底できないわ」

 Mサイズでいる僕? どういう意味かあのときはさっぱりわからなかった。というよりも、考える余裕なんてない。なにしろ、目の前に美沙希がいるのだから。

 彼女は一緒に座って少しお話をしようと僕を誘ってきた。僕は曖昧な返事のまま言われるままに彼女の行く方向へ足を運んだ。

 いわずもがな、僕はフライドポテトを持ったまま、気持ちが舞いあがっていた。その当時、飛行機なんて一度も乗ったことがない僕が、空を見た時にみえる飛行機を自分が操縦しているイメージした感覚とよく似ていた。

 「まぁ、舞いあがってる、って感じかな」

 「なによそれ、飛行機が飛ぶのは当たり前じゃないの」

 美沙希はクルクルと笑っていた。あのとき見た笑い方と、なにひとつ変わらない。

 「今日ね、いつも通り会社へ向かうために渋谷駅を降りた時に、ビルの最上階にある大きい看板が目に入ったの。俳優が栄養ドリンクを飲んでいる広告なんだけど、そこに書かれていたキャッチコピーが、どこかで見覚えがあって、よく考えたら私が以前提案したものだった。だけど、私は何も聞かされてなくて、混乱したまま会社に行ったら、上司が他の社員と軽快に話しているのが聞こえて、どうやらその上司がキャッチコピーを考えたってことになっていて。私はもはや、大声で怒鳴ってやろうだとか、おいおい泣いてやろうとは思わなくなっていた。ただ、あの看板から見える景色ってどんな風景なんだろうとは思った。高い場所へ自由に行けたら、どんな気持ちになるんだろうって思った。そしたら達也のことを思い出したの。パイロットとして空を飛んでいる達也。空を飛んでいる感覚ってどんな感覚なんだろうって考えた。もちろん、飛行機の乗客として窓から空を眺めるとか、パラシュートをつけた状態でのスカイダイビングとかそういうんじゃなくて。何からも縛られていない状態で空を飛んでいる状態になったとき、何を思うことができるんだろうって。空を飛んだら、私は何かに気付けるかもしれないって」

 「でも、本当に飛ぶことないじゃないか」

 「それもそうよね」

 美沙希は笑っている。僕はその笑顔が見たいと思った。

 暗闇の中では想像することしかできない。

 「電気をつけてもいい?」

 「うん」

 僕は立ち上がり、電気のスイッチを押した。瞬く間に視界いっぱいの白が目を覆い、僕はぎゅっと目をつぶってしまった。慣れたころにまぶたを開くと、白亜色を基調とした病室が広がっていた。無機質な電子音がずっと鳴っていることに気付く。美沙希の身体からは何本もの線がのびていて、生命感のない電子音を鳴らす機械と繋がっていた。

 桜色のパジャマを着た美沙希がベッドの上で、ちょうどまっすぐ足を伸ばした状態で座っている。正確には寝ているのだが、上半身がリクライニング式のベッドで、今は高くあがっているため、座っているように見えるのだ。

 「でも、飛んだと思えたのはほんの一瞬で、あとはなんにも感じられなかったわ。案外、空を飛ぶってのも退屈なものなのかもね」

 「美沙希の場合、それは飛んでいるんじゃなくて、落ちているんだ。ビルの屋上から飛び降りるなんて、ヘルメットをしていなかったら死んでいたかもしれない」

「まさかあなたの笑い話が私の命を救うとはね。私は死ぬ気はなかったし、空を飛びたいと思っただけなんだけど」

 たぶん、美沙希は死んでもかまわないと思っていたのではないか、と率直に感じた。結果的に美沙希の命は助かったが、ヘルメットをしていたとしても命の保証はどこにもない。

 「美沙希は隠していたかもしれないけど、僕は美沙希の色んな性格に気付いている。自分のことを犠牲にしてでも他人のことを一番に考える性格や、仕事を完璧にこなしたいと思う性格、その性格ゆえに自分のことを思いつめてひとりふさぎ込んでしまう癖。でも僕は、それらをすべて美沙希の一部だとして受け入れている。だから、そんな性格を改めて、もっと違う考え方をしろだとかは思っていない」

 僕は美沙希をみつめた。美沙希は両目を少し見開いて、僕の顔を瞬きもせずにみている。 

 「これはあくまで比喩だけど、僕は自分のことを飛行機だと思っている。そして、人生は空だと思うんだ。空はもちろん青空の日もあるし、そんな青空がずっと続けばいいなって思うのも普通だ。だけどどうしたって雨の日はあるし台風も来る。運動会を楽しみにしていたってやっぱり雨が降るときは雨なんだ。でね、僕は飛行機だから準備を万全にして、だれかもわからない乗客をのせて、青空の場合はひょいっとひとっとびするわけ。でも、さすがに雷雨のときは休まざるを得ないよね。乗客にも説得して受け入れてもらう。そして、そらが良くなればすーっとまた飛ぶのさ。人生も同じで、飛べないときはあって、そのときはとことんメンテナンスすればいいし、お客を満足させることができれば、どんな飛び方だって自由なんだ」

 美沙希は数回、まぶたをぱちくりさせ、やがて、口角をゆっくりとあげた。

 「ライト兄弟の伝記にはそんなことも書いてあるのね。私も読んでみようかな」

 美沙希はからかうことを忘れなかった。ただ、両頬はうっすらと赤くなっていて、ライトブラウンの瞳は潤んでいた。

 「今度持ってくるよ。しばらく病床生活は続くんだろ」

 美沙希はうん、とうなずき、必ず持ってきてねと言葉で念を押した。

 「私、広告代理店なんてやめて、全く別の空を飛んでみようかな」

 「例えばフライドポテト屋なんてどうだい? そしたら二人で飛んでいることになる」

 「案外ライト兄弟もつまらないことを言うのね」

 僕らは盛大に笑った。病室にいることなんてすっかり忘れて。ぼくらにまとわりつくすべての雲を吹き飛ばすように、大空に飛ぶための羽をのばすように。

 美沙希がのどが渇いたわと言ったので、僕は自販機で飲み物を買うために病室の外に出た。廊下はひどくひっそりとしていた。

 窓の外は真っ暗で、空と地上の境目がわからなかった。

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