第9話
この時、ソラの脳はフルスロットルで回転していた。
「クソが! だからボクは嫌だったんだ」
彼女はイソノの前で悪態をつくと、また海の底をみつめた。
クソ、やっぱりアイツはそこにいる。
息切れのような深いため息が彼女の肺から漏れた。
身体をつたう汗が蛇に這われているようで気持ち悪い。
フラフラする。立っているのがつらい。
居心地が悪く、自分がこの世にいていいのか不安になる。
ようは動揺してるってわけだ、とソラは若干冷静になって自分を客観視する。
アイツを目の前にするといつもこうなんだ。ほとほとボクってキャラクターに嫌気がさすぜ。
チっと舌打ちした。口が乾いてて、舌先がピリリと痛む。
アイツってだれなんだ、とソラの背後でニャンタロウがまた叫んだ。
チクショウめ、と心中でソラはつぶやく。
アイツが嫌いだった。生理的に無理で、恐怖の対象だった。
その名を告げても誰も彼女の恐怖に共感はしないだろう。
彼女はそれを知っていた。
ボクは人とは変わっている。それは自分でもわかるんだ。いつもそうだった。
彼女は心中で述懐する。彼女は今、小学生時代を思い出していた。
一年生の時だった。昼休み、一人で給食の前に座っていた。
その日の献立は麦ごはん、シャケの塩焼き、味付け海苔、春野菜のゴマあえ、あさりの味噌汁。あさりの味噌汁、あさり、あさり……ダメだ。今のボクも、過去のわたしにもあれを食べる勇気はない。
あさりがキライ。あさりはイヤだ。あさりはこわい。
二枚貝はどいつも嫌いだ。あのみためが受けつけない。
「おまえはきらいなんだね……えっと、それが」
となりの男の子が、わたしをみてつぶやいた。
ボサボサの、伸びっぱなしに放置された黒い髪。ヘビのような鋭い眼。
彼こそが神宮寺未来。15年後、ファンティックワールドで学園を一人で占拠する理解不能な男。そんな彼はわたしのとなりの席でジャポニカ自由帳を取り出して何かを描いている。それは迷路だった。彼は暇な時はいつも迷路を描いていた。後から聞くと、幼稚園の頃から紙に迷路を描くのが好きで、部屋一面の大きな紙に一日中迷路を描いたこともあるらしい。
まっしろな紙が綺麗な黒い線で埋まっていくのに快感を感じるそうだ。
きっと、それが彼の本質なんだろう。
一度スイッチが入ると、ニンジンをぶら下げられた馬のように止まらない。一つのことにしか目がはいらない。今回の件も、なにかスイッチが入るようなことがあったに違いない。
「わるいかよ、きらいで……」
「べつに、ちょっと気になっただけだよ」
そう言って、未来はまた迷路を描く作業にもどった。
「よる、なんだかねむれなくて、キッチンに行ったんだ。そしたら、お吸い物があって、目があったんだよ」
「なにと?」
「えっと……ほらあさりと……」
「目なんてあるわけないだろ……そう、あさりに」
「目に見えたんだよ、貝がらが、半開きのまぶたに見えた……こわかった……それからだよ、あさりが食べれないの……へんかな」
わたしの問いかけにまゆ一つ変えずに、そもそもわたしの事など興味がないかのよう迷路をひたすら書き続けている。
「へんって、キミはきらいなの……キミが」
「きらい、そうかな……好きじゃないと思う」
「どうして? へんだと思っているから? えっと……あさりがきらいなことが?」
「それだけじゃない、わたしはらんぼうだ」
上の兄の影響で、男の子と外に遊んでキズだらけになることが多かった。
「わたしは女の子らしくない」
スカートを履くのがキライだ。幼稚園のころ、木から落ちてできた膝の傷跡を見られるのが嫌だから。
「少しへんなとこが……あると思う」
「ふ~ん」
どうでもよさそうに返事をした。そういえば、のちのちにこの話をむしかえした時、彼はそんなこと言ったっけ、ときょとんとしていた。忘れっぽい子だったんだろうか。
「べつにいいんじゃないか」
彼はハッキリとそう言った。えんぴつの芯がぽっきりと折れ。うんざりと、ためいきをついて削り機でえんぴつを削った。
「とてつもなくへんだ、まあ、そう、テレビのなかにいるひとたちはね。なぜ、へんでいてもいいのか、うん、彼らはそれを認められているからだ、キャラクターとしてね。キミもなれば……そう、キャラクターにね」
彼は小学生のころ、もしかしたら今も時々なのかもしれないが。長い文章を話しだすと、倒置法をやたらと多用していた。今思えば、あれは彼のキャラクター性ではなく、しゃべるスピードに思考が追いついてなかったのかもしれない。
「わたしにはアイドルんなんてムリだな」
わたしは自嘲気味につぶやく。
「ちがう……そういうことじゃなくて……ほら」
未来は上を向いて、ぼんやりと考えると、ふと、思い出したようにつぶやく。
「絵ぇ描いたりとか」
「なっ……」
一瞬で頬が熱くなり、おもわず立ちあがった。
「なんで知ってんだ!」
「ああいうの、よくないと思うよ、絵を描くのはさ、授業中に」
「さいあくだ……」
「いいじゃん、うまいとおもうよ。なっちゃえばいいと思う、えかきさんに」
そう言いながら、つむじを中指でぐりぐりとかきながら、未来はつづけた。
「キミがキミに悩むなら、キミはキミになればいい。知りたいと思うような……そう、みんなが、キミのことを知りたいと思うようになるような。そんなふうになればいい。ボクは好きなんだけどさ。漫画が。そういうのがいいと思うよ、キミは」
ふんわりとした話だった。思考がまとまってないような。何を話したいのか、わかるようなわからないようなはなしだった。だからだろうか、時々、ふとした時に、彼の言葉を思い出す時がある。こんな時に、ピンチの時に、太宰の短編のトカトントンのようにふいに浮かび上がるんだ。
そういえば、あの後、どうやってみそしるを飲んだったんだっけ。
わたしはあの後、あさりをどうやって食べたんだっけ。
「とりあえずさ」
記憶の底で、未来は言った。
迷路は描き終わったらしく、ノートを閉じて、カバンにしまって、まっすぐとわたしを、いや、ボクを見ている。
「キミはこわいわけなんだ。あさりの形が。貝を開いて、身をみせているあの姿が。それならさ。ボクにもあるかもしれない、手伝えることが」
ほら、あれだよ、未来はボクの箸をとって、言った。
「取っちゃえばいいんだよ、ほら……」
「……ああ、そうか」
ソラは思い出したようにつぶやくと、イソノから離れて、クルーザーから身を乗り出して海の底をみつめる。
ああチクショウ、やっぱこえぇ、と嫌悪感をあらわにしながら、ポケットからGペンを取り出す。
「なにがそうなの?」
イソノが不安げにソラに訊ねた。
「べつに、ただ、いいことを思いついただけさ。動揺してわるかったな。もう、だいじょうぶだ。ボクも腹をくくるよ」
そう言って、ソラは周囲を見回し、フレイヤをみつける。
「ねぇ、フレイヤちゃん」
「にゃっ! にゃんですか!」
ソラに呼ばれて、フレイヤはビックリしたように言った。
そんなフレイヤに対して、彼女はにっこりと笑って言った。
「ちょっと、モデルになってくれないか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます