第6話
今から時計を30分戻した午前9時。
十字路の中心に建つ喫茶店から3キロ離れたところに公園がある。
青々としげる木々は互いの手をおそるおそる触れあえるほどの距離で植えられている。風になびき、隣同士の木々の枝と枝が戯れ、耳心地のよう音を鳴らす。仲の良い木々に囲まれる形で中心には噴水があり、そのなかで二人の子供が高価なお召し物など気にもしないようにきゃっきゃっと遊んでいた。
「木には木の友達が。人には人の友達が。仲好きことはよきかな、よきかな」
一人の女性が目の前の光景に対し、そう呟いた。
彼女の目の前には白紙のキャンバスがある。これから絵を描くらしい。
「ほっほっ、子供たちが遊ぶさまは見ていて心が躍るのう」
女性はふりかえる。
背後には長いヒゲをたくわえた老人が自分のヒゲをさすりながら愛嬌のある笑みを浮かべていた。
「そうですね。見ていて、ホッとします」
ふと見せた笑顔に、老人はドキっとする。
可憐な娘だ、と老人は思った。
髪型は黒のショート、前髪に銀色のメッシュ。頭には紺色のベレー帽。黒いセーターのなかで強調される確かな巨乳。
GOOD! まさにGOODじゃ!
DかGのはざまでゆれるふたつのO! まさにGOD! サイコウじゃのぉぉぉ!
と、老人は考えた。
この老人、名をヒッバス・トェウスという。
この辺に住む芸術家で、やたらと理由をつけて裸婦絵を描きたがる。ようはこの世界にもいる変態である。
ヒッバスはグヘヘェ、と心中で気持ち悪い笑みを浮かべながらも、表面上はだれからも親しみを持ちそうな好々爺を装って、後ろから彼女が描こうとする絵を眺めていた。
ほぅ! ほぅ! いいのぉ! いいのぉ! 地味目の服のなかに隠しきれぬエロスゥ! エロスゥ! 無褒美な背からのうなじ! うなじ! まさに至高じゃ、と、思考を張り巡らせるヒッバス。
どんな絵ぇえがくのかのぉ。どんな絵でも褒めてやろ、褒めてやろ。じつはわしわし芸術家ってやろ。どんな顔するかの。どんな顔するかの。内弟子にでもできんかのぉ。グヘェヘェヘヘヘ! ゲフェ!
と、ある意味、別の期待の目で、ヒッバスは彼女が絵を描くのを今か今かと待っていた。
噴水で遊ぶ子供たち。風でゆれる木々。朝の光でまどろむ影。
目の前の光景に目を通すと、彼女は意を決したようにカバンからペンを取り出す。
「なんだ、それは?」
おもわず、ヒッバスはつぶやく。
彼女が持つペンはヒッバスにとっては見たこともないものだった。
黒い漆で塗られた木の先には銀色のペン先がつけられている。膝の上には、黒い液体のつまったインク。ヒッバスにはわからないが、これはGペン、漫画家の道具である。
ペン先をインクにつけ、キャンバスに描きだす。
「ほう、そうやってペン先にインクをつけるんじゃな。しかも一定の太さをたもった綺麗な線こりゃベン……ドヒェェェェェ!」
ヒッバスも思わず驚く。
なんだこれは! なんだこれは! 初めてのことに思わずヒッバスも驚いた。
「はっ速い!」
そう、速い! ヒッバスの目でやっと追うことができるほどそのスピードは速いのだ。
「しかも、速いだけじゃない! なんて精確な描写力なんだ。葉っぱの一枚一枚、子供たちの柔和な笑みっ! 見た瞬間に、鼓動が止まったんじゃないかと感じるほどの衝撃! 止まった世界のなかに引きずり込まれそうだ。絵が! 時間を止めている!」
この世界に、カメラはまだあまり普及していないが、この絵は、まさに写真よりも精密な絵であった。
絵を描く瞬間! 筆が止まる。
「完成か! いや、ワシにはわかるっ! ここで筆を止めるほどこの子はアマな甘ちゃんじゃぁぁない! プロだっ! プロの絵だ。プロはここで描くのをやめない、とワシにはわかる!」
突如! 彼女はGペンを投げた。
「なっ! あんな大事な道具を投げるだとぅぅぅ!」
切っ先のするどいGペンはそのまま噴水で遊ぶ子供たちの方向へと飛んでいく。
「なっ! なんて非道な! このままだと子供たちに刺さるじゃないか! なにをしているんだ!」
ヒッバスの叫びに、顔色も変えずに、女性はまたGペンをカバンから取り出し投げる。
「えっ! なぜに二本目ェ!」
二本のGペンが子供たちに向かって飛んでいく!
「グッピャァァァァァァァァァァ!」
公園に二人の断末魔が響いた。
叫んだのは、子供ではなく。二人の黒服の男!
「なっなんだと! さっきまでこんなヤツらいなかったはず!」
「なぜだ! なぜ気づいたァァァァァ!」
黒服の二人が叫ぶ。
「気づく? そりゃ気づくに決まってるさ」
女性は立ち上がり、黒服に近づく。右手にはキャンバスを持っている。
「目の前の光景に一部の歪みがあったら、そりゃ気づくさ! ボクの邪魔をしやがって! 見てみろ! せっかくの絵が台無しじゃないか!」
絵を見てみると、確かに子供たちのそばがもやがかかったように歪んでいる。
「なっ! 気にもとめなかったが。たしかに絵が歪んでいる。そうか! あの子はちゃんと見ていたのか。二人の子供の傍に彼らが潜んでいることに気づいていたのか! なんてヤツだ。あの子なら、遠くに飛ぶ蚊さえも精確に描写できるだろう! なんて目だ!」
ヒッバスの言葉など気にもとめぬように。彼女は黒服の二人に近づく。
「おおかた、透明化の魔法でも使って、二人のガキに近づき、誘拐しようってはなしなんだろうが。そんなことはどうでもいい! 問題は絵なのだ! ボクの絵にケチをつけたと言うのがゆるせんのだよ!」
「チクショウ!」
叫び、黒服たちはナイフを取り出し、女性に向ける。
だが無理だ!
彼女はふた方向から来る刃物をヒョイッと避けて、一人の脇腹に蹴りを食らわせ、もう一人のみぞおちを殴る。
「ゲフォラァァ!」
二人はうめき声をあげて倒れた。
「すっ素晴らしい!」
拍手、喝采、大喝采! ヒッバスのなかの歓喜のコーラスはとまらない。
思わず、彼は叫んでしまった。素晴らしい、と。
「なんて才能だ。久々に若いころの情熱がよみがえったよ」
そう、あの頃! ソプラノティ画家に師事し、ガムシャラに絵を描き続けたあの頃、今なら、あの頃以上の絵が描ける! ヒッバスにはそんな情熱が燃えていた。
そんな彼を優しく見下ろして、彼女は老人に近づく。
一歩、また一歩、笑顔で。
「いや、いい絵だ。いつもどこで描いているんだい。よかったら今度わしのアトリエで――」
言う前に、顔に蹴りが飛んだ。
「アボリダァァァァ!」
突然のことに思わずうめく。子どもたちはもう噴水から逃げていた。
ヒッバスの鼻からたらたらと鼻血が地面に池のようにひろがった。
「なんでぇぇ……蹴るのなんでぇぇぇ!」
「なにがなんでだ。テメェ、さっきからいやらしい目でボクをみてたじゃないか」
「いや、あれは……そんなこと……なぜわかったのでぇぇ……」
「みりゃぁぁ! わかんだよぉぉぉぉ!」
「ヒィェェェェェェェ!」
公園に老人の断末魔が響き渡った。
「あら、おそかったじゃない」
10分後、ようやくイソノたちの待ち人がやってきた。
黒いショートに銀色のメッシュ、頭に小さな紺色のベレー帽。黒いセーターで、高身長の女性が店のなかにやってきた。
彼女はやれやれと言いたげに、
「ちょっと、公園の近くで絵を描いていたら変態に絡まれてね。ボコボコにのしてやってたらおくれた」と、言った。
「なにやってんのよ……まあ、いいわ。じゃっ、ニャンタロウ、フレイヤ、紹介するわ。彼女は私の元クラスメイトにして、ファンティックワールド初の漫画家、九条空よ」
「九条空だ。よろしく」
ソラは淡々とした様子でつぶやいた。
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