三、神事に傾倒すること
三ノ一、師弟
生前の王鬼親方は実に指導に熱心であった。それはときには厳しい言葉や、きつい攻撃となって心身の両面から弟子たちに与えられたが、教わる誰もが王鬼を怖いだとか嫌いだとかという感情の対象にしないでいられた。師匠の指導は穏やかに始まる。弟子たちは、まだ体力に余裕がある始めのうちならば、乱暴にもとれるほど激しく動きを矯正されることで、押されない腕の使い方や、投げられない足腰のさばき方を考えさせられることができていた。繰り返し稽古をしていくとやがて、弟子たちの体力は限界に近付いてくる。そうなると王鬼は、弟子の心が折れたり萎えたりしそうになっていることを的確に見抜いて、それらを闘志で乗り越えさせるべく言葉で挑発する。土俵の上で相手の気持ちに負けないためだ。そうして続けていくと、思考する余裕がなくなってくる頃には、殴る蹴るといったことはなくなり、無意識であるがゆえに生まれた最も効率の良い動きを弟子の身体に覚えさせるべく、また稽古を繰り返させた。毎日、そうした体力と気力の限界に挑戦する日々が、理器士として力をつけていく日常であった。弟子の誰もが、王鬼師匠は強くなる方法を伝授してくれていると強く信じていられた。
事実、王鬼部屋からは次々と幕内になる理器士が出ていて、一時期には弟子の中の関取と取的の割合が同程度だったこともある。普通は上の階級にいくほど人数が減るピラミッド型になるものだ。鬼天仁太郎が入門したのは、そんな全盛期といっていい頃だった。
同じ年に入門した同期が三人。鬼天と合わせて四人だから多い方だろう。そのうち、鬼天が取的の間に二人が姿を消した。スカしたのだ。残ったひとりも、鬼天が十両に昇進したのを見とどけてから、引退すると言って故郷に帰って行った。その代は、まだ良かった方だろう。鬼天よりも上の代となると、勇王山まで遡ることになる。その間の入門者は全て居なくなっていた。毎日、限界まで追い込まれた状態で、砂粒ほどの光明を掴んだり、掴んだと思ったものが幻だと思い知ったりしながら生きていく。ただ、強くなっていると信じることのみが、許された自由であった。その自由を手放したとき、理器士は協会から去っていくのかもしれない。
「仁、おまえが残るとは思ってなかったぞ」
冗談交じりに勇王山に言われたことがあった。夕食後に、弟子たちが寝起きする大部屋で寛いでいたときのことだ。最後まで残っていたもうひとりの同期の名を上げて、あいつの方がバカだったからな、と呵呵大笑していた。バカの方が信仰心は強いだろう我輩みたいにな、とも。何についての信仰心かは訊かなかった。
「武兄さん」
鬼天が十両になって間もないときで、そのとき勇王山は既に小産巣日だったはずだ。普段から、すぐ下の弟弟子として良くしてくれている誼も手伝って、鬼天は遠慮なく問いかけてみた。
「今日、負けてましたけど、なぜなんですか」
「そりゃ、おまえ」
言ってから、自分の取組みを思い返すように勇王山はしばらく黙り込んだ。今日の勇王山の相手は、自他共に認める長年のライバルである
「一度、振られたときは凌いだのに」
自分のことのような悔しさ交じりに鬼天が言うと、そうだな、と勇王山は頷きを返す。
次々と突き立つ勇王山の左右の腕を、怨動山は自らの腕でテンポを合わせて払っていた。勇王山が低く突けば上から、高く突けば下からと、器用に対応してきた。それでもまだ、攻めている勇王山に有利な展開に思えたが、不意に怨動山が体を開く。突いて伸ばした腕が、払われずに掴み取られていた。押していた勇王山は前進する力を利用され、怨動山が避けた空間へと腕を引かれて落とされそうになった。
「あの手繰りは前にもあった。予想してはいたんだ」
だからか、勇王山は大きく踏み出して自分のバランスを支えることができた。それがもう少し遅ければ、怨動山に完全に横に着かれていただろう。幸い、勇王山は身体を捻るだけで、再びライバルに向き合えた。けれど、その一瞬のうちに攻守は入れ替わっている。手繰っただけでは勇王山を落とすことはできないと怨動山も予想していたらしく、すぐに廻しを取られていた。
「まあ、諦めるのが遅すぎたからだろうな」
「早すぎた、じゃなくて?」
敗因を述べる勇王山に、鬼天は問いかける。勝負が決まる瞬間まで、早々に諦めたりせず、気持ちを保ち続ける。それができる理器士であり続けるための稽古を重ねている。だというのに、もっと早く諦めておけば良かったとでも言うような兄弟子の意図が、鬼天にはよく分からなかった。
「ああ、遅かった。廻しを掴まれても気にしないでいられたらいいが、我輩はいまだに、どうやって切るかとか、そのタイミングとかに意識が向いてしまう。稽古なら廻しを取られたことに気付かずに突き続けられることもあるが、どうしても気にしてしまうのであれば、せめて早く廻しは諦めて、我輩のこの突きのみを最後まで信じ続けてやれば良かったのだろう」
それがゆえに、勇王山が再びの攻勢に移るよりも速く、怨動山にしっかりと掴まれた廻しによって投げ落とされたのだった。けれど、あの場面を詳細に思い出しながら鬼天は、もうひとつ問いかける。
「あの体勢から、押していけたでしょうか?」
「おまえはそういうところがバカじゃないから、おまえはバカだな」
強くなれないぞ、と言われているような気がして、鬼天は僅かな不満とともに問い直す。
「じゃあどうだって言うんですか。腕で振られたから、直前まで突いていた間合いより、かなり両者は近付いていて、あれは廻しを取っていた怨動山兄さんに有利な間隔だったはずです。突くための腕の動きには少し狭いんじゃないですか」
「そうかもしれんが、そうではないかもしれん。稽古が我輩の突き押しを鍛えてくれているように、怨動山との相撲でも、あの場で何か新しいことを掴んで、あの体勢でも有効な突き技を会得できていたかもしれん。そうだろ」
言いながら勇王山は折りたたんだ腕を前に伸ばす動きをしていた。カエルの脚ではないのだし、そんな動きで力を込めた突きになるとも思えなかったが、頷けるところもあった。
「まあ、稽古は裏切らないってやつですよね」
王鬼師匠が口癖のように言っていた言葉だ。それを聞いた勇王山は、嫌がる鬼天の頭を無理やり抱え込んで、力任せに撫でながら褒める。
「おまえはそういう生意気なところがバカで良いぞ」
言われている身としては褒められているのか貶されているのか、よくは分からなかったが、ともあれそういう時間は悪くなかった。実に悪くなかった。
■
桜風部屋の稽古は賑やかに進んでゆく。土俵は接収されてしまったものの、そのぶん広くなった空間を利用して、スポーツジムにあるようなトレーニング器械をレンタルして使ってみたり、みんなでヨガを試してみたりしている。きちんと身体を動かしている最中にも、少女たちのお喋りは止まらずに続き、それを桜風親方が許容しているために、部屋付きの他の親方たちもそれに倣っていた。いつも通り、細かい指導は他の親方や高位の弟子たちに任せて、稽古部屋の端に座って桜風親方は全体を眺めながらニコニコしている。服装が少々派手なことを除いては、その様は観音菩薩とでもいうような穏やかで優しげに見受けられた。よく見れば片耳からイヤホンのコードが手元のポータブルプレーヤーに伸びているのが分かっただろうけれど。
ちょうど曲の切れ目になったところで、桜風は再生を停めて、手近にいた弟子のひとりを手招いて呼び寄せた。
「はい
もちろんそんなに近付いたら桜風のイヤホンもバッチリ見えるわけだけれど、それはこの部屋の面々にとっては周知の事実であり、弟子の少女はとくに気にすることもなく御用伺いをする。一方で親方は、たしか、と弟子の名前を思い出そうとして分からなかったので、早々に考えるのをやめた。大所帯の桜風部屋で、師匠に名前を覚えてもらえるようになるには、少なくとも幕下くらいにはならなければならない。
「どうね。順調かしらね」
「はい
どんな弟子でも、まずは稽古の様子や、なにか困ってはいないかと訊ねるという、師匠として最低限の問答を経てから、桜風は本題に入る。
「ウチの部屋頭ちゃんは、今日も見ないね」
問われて、その弟子は稽古場をぐるりと見回して桜大海の不在を確認し、さきほどと同じ答えを返す。
「はい
「どこかしらね」
重ねて訊ねられ、えっと、と言い淀んだ少女を見て、桜風は彼女が知らないのだと理解した。
「あんたは知らんのね。誰か知ってる
「あ、じゃあイロハを」
即答があったことには、さして驚きはなかった。部屋頭の人望というべきか、桜大海に強い憧憬を抱いている妹弟子たちは片手の指よりは多く、その情報の詳しさといったら誕生日や出身地や家族の名前などの基本的なパーソナルデータから、昨日の食事内容といった日々更新される内容まで多岐にわたっている。ファンクラブに似ているかもしれない。なので無作為に弟子のひとりを選べば、ファンの誰かか、ファンの誰かに近い弟子に必ず当たるという、桜風にとっては大変便利な部屋頭スパイシステムが出来上がっていた。
呼びに行った弟子と入れ違いに、石川イロハが師匠の下へやってきて、伺いを立てる。
「はい
「やかましい
「はい! 勉強させていただいてます!」
ひょっとしてババアだから耳が遠いとか思われているのかね、などという思案が過ぎるが、同時に、そういえばやたら声のでかい弟子がいた気がする、などとも思い出す。まあいいか、と疑念を投げ捨てて、さきほどと同じく本題を問いかけた。
「部屋頭ちゃん、どうしたね?」
「はい! 桜大海姉さんは、お出かけになりました!」
「そうかい。珍しいね、あの
「はい! どこに行ったかは分かりません! あと最近わりと頻繁です!」
「おやまあ」
叱ったほうがいいのかしらね、とか本気が二割くらいで思いながら桜風は、あとの二割で、男かしら、とか思いつつも、結局のところ六割では、まあいいか、といった気分だった。特に桜大海に用事があったわけではなく、単に見慣れない稽古風景の原因が部屋頭の不在だったので気になったという程度のことだったからだ。
「分かったよ。戻っていいよ」
「はい
なんて押しの強い発声の娘だろうね、と思いながら石川イロハの名前を覚えそうになって、慌てて桜風はその記憶を否定した。なんでも噂に聞く限りでは、弟子たちの間で、同期の中で一番に師匠に名前を覚えてもらえるのは誰かと競っているらしい。こんなことで覚えてしまったら公平性を欠くことになるだろう。それにやっぱり、上位に上がれば覚えてもらえるということが、少しでも彼女たちの励みになれば、というのが桜風の偽らざる親心であった。
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