三ノ二、映画

 王鬼親方が直接かけてくれた言葉で、鬼天の記憶に強く焼きついているものが、ふたつある。

 ひとつめは、鬼天が大関に昇進したときのことだ。部屋頭の勇王山とふたりで、師匠の部屋に呼ばれて、珍しく酒を勧められた。既に王鬼は酔っているらしかった。


「武雄とおまえは、本当によく俺の相撲の精神を身に着けてくれているよ」


 そう言いながらふたりの弟子の杯に酒を注いでくれた。オヤジは大関になる弟子がいるといつもこうなんだ、と勇王山に教わって、そういうものかと鬼天は納得した。たしかに王鬼親方の現役時代の最高位は、大関のひとつ下の関和気だったから、それも原因のひとつだったかもしれない。


「いやあ、実に嬉しいね。ほら、呑め、食え」


 自分もぐいぐいと呷りながら、弟子たちにも酒もつまみもどんどん勧めてくれた。まだ元気だったときのことだ。王鬼親方の笑った赤ら顔も、鬼天はよく覚えている。つまみが師匠の好きな裂きイカだったことも覚えているし、そのあと師匠がトイレで戻していたことも覚えている。夕食後から始まった三人きりの宴会は、深夜にまで続いた。

 ふたつめは、それからずいぶん後のことだ。鬼天は夜虚綱で、部屋頭を務めてもいた。けれど王鬼と勇王山のやりとりを覗いてしまったために、ずっと師匠との間に壁のようなものを感じてもいた。変わらず接し続けてくれている王鬼親方に、自分も以前と変わらずに応対しようとはしていたけれど、やはりどこかギクシャクとしてしまっていたのだろう。徐々に親方との間に齟齬が生まれることが増えていた。

 そのとき何があったのかを実はあまり覚えていない。たぶん弟弟子に鬼天が言ったアドバイスが、以前にその理器士が師匠から言われたことと矛盾してたとか、そういうことだったと思う。


「おまえの目指している相撲は、俺たちの求めているものとは違うらしい。お互い、分かりあえないだろうな」


 稽古場の隅に鬼天を呼んで、王鬼師匠はそう言った。失望している風ではなかったが、言葉に熱はなく、目も合わなかった。そのころにはもう、王鬼の身体はボロボロだったのだろう。顔色は青白く、頬はこけて目の下に隈が濃かった。

 それ以降は、事務的な会話しか交わさなかったように思う。とくに印象に残る言葉もなく、ある日、師匠は姿を消して、協会から死んだと伝えられた。ぽかんとするうちに葬儀まで終わってしまったような気もする。悲しみよりも不可解さが強かったのは、自分が師匠とうまくいっていなかったからだろうか。そして、鬼天は半霊半人という言葉を耳にすることになる――。

 洗いなおしていた資料の上に、ため息を落として大きく伸びをした鬼天は、自分の事務所で師の言葉を思い出していた。あの頃からずっと、仕事の合間を縫って、勇王山武雄と王鬼孝之について調べ続けてきた。もちろん市間内郎についてもだったが、彼に関する資料はとても少なく、いつも調査が途切れがちだった。

 机の上に視線を落とせば、電子ペーパーが三枚ある。一人について一枚、その人の情報を詰め込んである。生い立ちも親類も、大まかには調べた。相撲の取組みについては対戦を収めた動画も入っている。王鬼の死の前後や、勇王山が失踪して以降については、なによりも詳しく、どんな些細な情報でも記録しようとしてきた。

 そして、円根宗に行き着いた。事象予報士仲間の話でも噂には聞いていたくらい、円根宗はその道では名の知れた事象予報教団ではあった。だがその教祖が勇王山だと知ったのは、かなり遅れてのことだった。それから鬼天は円根宗について詳しく調べ始め、やがて市間内郎の影が見え隠れしていた矢先に、桜大海からの依頼があった。なぜ市間なんかと組もうとするのか、その理由が分からず、兄弟子が心配でもあって、前の晩に酒を呑み過ぎてしまった翌昼だった。


「お師匠さま、あの」


 鬼天の事象予報士事務所には、仕事用の机が二つ横に並んでいる。ひとつは鬼天が事務処理などで使う普通の事務机で、その隣にあるのが宗太用の学習机だった。そこに座っている弟子に呼びかけられて鬼天がそちらを向くと、宗太は正面の棚に並べた教科書の間に置いた小さな立体投影装置を指差していた。


「これ、見てください」


 言われて鬼天は首を伸ばすようにして、それが見える位置に移動する。そこには普段から宗太がネットのニュース映像をランダムで表示していたはずだ。勉強の邪魔になるからと音声は切っている。鬼天の視界に映像が届くのに合わせて、宗太がボリュームを上げると、最初に聞こえてきたのは悲鳴だった。


「いつの映像だ?」

「えっと、協定世界時で今日の昼だから、日本時間だと今朝未明くらいですね」


 張り詰めた鬼天の問いに、弟子は慌てたように返事をする。事務所の壁掛け時計を見上げると時刻は夕方も終わる頃、映像を見るに現地時間は昼下がりといったところか。時差からすると東欧かアラブ、中央アジアの西側あたりであろう。日干し煉瓦の街路に、人が溢れている。映像の中で話されている言葉は分からないが、機械翻訳の字幕がついているので、だいたいの内容はそれで把握できた。

 緊急生中継といった様子の画面で、リポーターらしき声がしきりに言っている。


『これは映画ではありません。現実の生中継です』


 映像の中を駆けて行く人々の顔は恐怖と必死さで覆われていて、口々に怒号を発しては逃げ道の情報を交換しているようだった。よいしょ、などという呑気な字幕があって画面が横に移動したので、リポーターがカメラも回していると知れた。ぐっと群集の末尾へとズームインされると、そこには次々と襲われて引き倒されてゆく人たちがいる。


『ご覧ください。ゾンビ映画ではありません。現実の生中継です』


 リポーター自身が信じられない気持ちなのだろう。何度も繰り返して生中継だということを強調していた。それから逃げ惑う人々にインタビューしようとするが、誰にも取り合われず、逆にあんたも早く逃げろだとか食われるぞだとか言われていた。


「こういうのって、それこそゾンビ映画にありますよね」

「こういうの?」

「ゾンビ映画じゃないんだって映画の中で言ってたりするやつですよ」


 どこか宗太が呑気なのは、彼が半霊半人について知らないからでもあるし、やはり映像に現実感がないからでもあるだろう。

 その映像はしばらく流れる群集を映していたが、ついに自分も逃げなくてはと観念したらしい。前を走る人々の後頭部ばかりが映され、かと思えばときどき左右を見回す。その中に、引き摺り下ろされる人が一瞬見えた。土気色に変色した皮膚の人間に腰から尻のあたりに組み付かれ、悲鳴とともに転倒して見えなくなった。リポーターの荒い吐息が聞こえた直後、カメラは空を映して動かなくなった。人々の足音と悲鳴が徐々に遠のいていく。そこで生中継は終わり、スタジオに戻った映像は、何度かリポーターの名前を呼びかけるキャスターの不安げな顔になった。彼は手元の紙を見て、読み上げる。


『こちらに入っている情報では、突然、何の前触れもなく人が暴れだし、腐ったようになって襲ってきたとのことです』


 そこで映像は終わっていた。


「さっきからずっと、こんなのばっかりなんです」


 宗太が言うのに合わせるように切り替わった次の映像もまた、半霊半人が人を襲うニュースだった。発生時刻もほぼひとつめの映像と同じ頃だが、場所は中米だ。

 みっつめの映像は北アフリカで、その次は動物の赤ん坊が産まれたというニュースを挟んで、また別の場所での半霊半人映像が流れる。中央アジアあたりのようだ。


「四ヶ所か」

「みたいです。何なんですかね、これ」


 訊ねる宗太に、鬼天は半霊半人について教えてやった。説明が進むにつれて、宗太の表情が真剣味を強めていく。最後に鬼天は推測を付け加える。


「たぶんこの四ヶ所は、質の悪い土俵が出回りやすくて、かつ事象予報が盛んに行われていて、稽古の足りない事象予報士が多い地域なんだろう」

「じゃあ、もしかして、日本でも……」


 言葉を濁した弟子の頭に優しく手を置いて、鬼天は安心させるように言う。


「幸い日本には理器士たちがいて、土俵も事象予報士の質も悪くない」

「でも禁土俵法が」

「そうだな。場所によっては日本国内でも可能性はある。けどここは大丈夫だ。それに、おまえには俺がいるだろ」


 そこまで言うと、宗太は素直に頷いた。鬼天が笑顔を見せると、少年も笑ってまた自分の机に向かう。鬼天も同じく椅子に腰掛け直しながら、自分の机に置いた三枚の電子ペーパーに視線を戻した。中のひとつ、市間内郎のものを手に取り、呟く。


「どこにいる市間。これもお前の仕業なのか」


 市間の経歴で分かっているのは、以前に土俵解放共同体オープン・ドヒョー・コミュニティに所属していたということだけだ。今は脱退しているらしいが、そのコミュニティは土俵を日本と協会が独占していることを批判し、誰でも正統な土俵を作ることができるように方法や材料などを公表するよう求めている。そうした団体はいくつかあるものの、世界規模であると同時に最も攻撃的なのが、そのコミュニティだった。

 そこに市間がまだ所属していたときの映像がある。何かの取引を行っている現場を監視カメラから捉えたものだ。映像は薄暗く粗く、遠くからの撮影で、注意して見なければそれと分からないが、たしかにそこに映っているのは市間だ。コミュニティのメンバーたちと、大きめのカバンを手にして立っている。そこに取引相手が現れて、市間たちは荷物を受け取りカバンを渡す。ただそれだけの映像だ。


「いや、これは……」


 取引相手は、どうやら女らしい。よく見ると、それは知っている顔に似ているような気がする。何と言ったか、名前は思い出せないが、あの、土俵ブローカーの女に。


  ■


 夜までかかって桜大海は松井江利の後をつけていた。夜虚綱はどうにも腑に落ちていなかった。自分の妹弟子たちをあんな目に合わせたばかりか、何人かは死体も残らない状態にされた。その親玉たる教祖の男を取り逃がしたことだ。しかも、自分が戦ったわけではない。鬼天の相撲にケチをつけるつもりなのではなく、ただ自分の力で、かの悪人にたっぷり土俵の土の味を教え込んでやらなければ気が済まないのだ。部屋頭である自分が、それをしなければ、あの黒い泥になってしまった妹弟子たちに、その墓標に、これからなんと声を掛けたらいいのか。たとえ全く歯が立たなかったとしても、仇をとってやらねばならない。報いを与えなければならない。

 だから桜大海は、松井が接触してきたときに、その土俵ブローカーに名前を訊ねた。その名前を頼りに松井を探り、その取引相手であるという円根宗との接触に利用しようというわけだ。普通に円根宗のどこかの道場に行っても、入信者として扱われるか、あるいは桜大海が道場破りのごとく争いを仕掛けることになるだろう。いくつもあるという円根宗の拠点をひとつずつ潰すのは時間がかかりすぎる。同じく入信して内部を探るのも、時間がかかりすぎる。今持っている、この怒りとも悲しみともつかない感情を、死霊計算力にしてぶつけなければならない。今のうちに、だ。その期限を桜大海は四十九日と定めた。仏教において死者の魂が、その行き場を決定されるまでの日数であるという。意地でも口にはしたくなかったけれど、桜大海は心の中では確かにこれは弔いなのだということを理解していた。

 人ひとりを調べるというのは、案外苦労するものだ。とくに松井のように真っ当ではない生き方をしている人間については。けれど桜大海が知らなければならなかったのは、松井がいつどこで円根宗に接触するのか、ということだけで、しかも夜虚綱には単独で十分な精度の予言を得られるだけの死霊計算力があった。事象予報を手掛かりにして、松井の行動確率から取引現場を推定し、その近辺で待ち伏せする日が続いた。鬼天に相談するとか、桜風部屋の姉妹弟子たちに協力を頼むという選択肢をとれば、もっと楽になったかもしれないが、それらは始めから選ばないと決めていた。部屋の面々を巻き込むわけにはいかないし、それは師匠にも叱られるだろう。妹弟子たちを担いで円根宗から帰ってきたあの日、予想していた通りに桜大海は正座させられて、懇々と桜風に説かれることとなった。いかにして桜風部屋をまとめていかねばならないか、夜虚綱とはどうあるべきか、そして桜大海という理器士はひとりで作り上げられたものではないということを。

 桜風部屋で日々の稽古を積んできたからこそ、今の桜大海がある。親方たちや姉妹弟子たちが居たからこそ、夜虚綱である今がある。それが分かっていたからこそ、あのときは鬼天に話を持っていったのではあった。だが今回は違う。自分で勇王山を倒す。そのためには、前と同じように自分ではなく鬼天が選ばれてしまう状況を作ってはいけない。だから桜大海は今、桜風部屋の誰にも、鬼天にも黙ったまま、松井が車から降りるのを物陰から見ている。倉庫街の一角で、ヘッドライトに照らされた女の影が、威勢を張るように大きく紫煙を吐き出した。


「今日はずいぶん早いじゃないか。いつも遅れてくるってのにさ」


 呼びかけた松井の相手は、ひょろっとした印象の変な男だった。桜大海の見たことがある勇王山とは、およそ真逆といってもいいような人間だ。どうやら今夜はハズレらしい。相手が誰かだけ確かめてから帰ろうと思いながら桜大海は軽い気持ちで会話を盗み見ていた。


「いやはははっ。なにかと準備ってものがあるのですよお。よく来てくれましたね、松井さん」

「アタイの倉庫の中身を全部買いたいってのは本気なんだろうね、市間さん」

「もっちろんですとも。ちゃあんと運び出す手はずも整えてきてるんですよお」


 そのための準備がですね、などと長広舌をふるうその男の名前を聞いて、桜大海は目眩のような感覚に陥った。その名はついこの前に聞いたばかりだ。しかも、師匠の行った事象予報を鬼天が受け取るときに、たまたま小耳に挟むことになった名前だ。その一瞬に居合わせなかったら、今この機会を桜大海は無駄にしてしまっただろう。まるで天の導きみたいだ、いや、妹弟子たちの魂が巡り合わせてくれたに違いない。市間内郎、奴こそが円根宗をして勇王山に妹弟子たちを弄ばせた元凶だ。松井の言っていた客とは、円根宗そのものではなく、市間のことだったのだ。もしかしたら松井は、市間が円根宗の購買担当かなにかと勘違いしているのかもしれない。だがどちらにせよ、桜大海には興味のないことだ。ただ、市間を捕らえて餌にすれば勇王山を引き出せるに違いない、ということのみに関心は絞り込まれている。

 市間の捕獲。それを実行するに最適なタイミングとは、最も逃れにくく、最も抵抗されにくい瞬間だ。やはりそれは取引が成立して、金と物を交換するときだろう。市間も松井も、相手のものを手にすることに集中するだろうし、何も得られなければ自分が一方的に手放して終わりになってしまうからだ。

 勝手知ったる間柄とみえて、喋り続けていた市間に向かって松井は無言で手を差し出して対価を要求する。


「いいですねえ。そうこなくっちゃ。やっぱりビジネスは、くぅーるに、すまぁーとに、ですものねえ。大変気に入っていますよ私、松井さんのそういうところ」


 言いながら市間は、手にしていたカバンを自分の正面に掲げてみせる。松井がその把手を掴んでも、彼は手を離さなかった。

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