二ノ四、計算資源の管理者

 桜風が先に立ち上がり、それを追って鬼天も同様にし、ふたりとも蹲踞の姿勢を解く。振り向いた鬼天の視界の中に、ふらつく靖実を支える桜大海と、夢でも見ているかのように覚束ない足取りでよろけている宗太があった。まだ桜風の相撲の影響が抜けず、森の中の幻視に囚われているのだろう。鬼天や桜大海ともなれば、何事もなく現実へと戻ってこれるが、幕下の靖実でさえも幻視からの脱出でかなり疲弊している。


「ああ。宗太は少し、死霊過敏の傾向があって」


 言い訳をするように説明しながら、鬼天は弟子に歩み寄ると、片手で宗太の両目を覆うように持ち、膝を払って自分のもう片腕の中へと倒れ込ませた。ゆっくりともがく手足を避けて、顔から離した手でジャケットのポケットを探り、塩の入った小袋を取り出すと、歯を使って封を切る。それを服の上から宗太の鳩尾あたりに振り掛け、平手をかざしてひと呼吸に活を入れてから、塩を払い落とす。その頃には弟子の力は抜けてぐったりとなり、寝息のような深い呼吸を繰り返している。疲労が取れるまで眠れば、あとは元通りになるだろう。

 鬼天が弟子に霊下しれいくだしを行っている間に、靖実を連れて出て行った桜大海は別の妹弟子を伴って戻って来ている。その娘に桜風親方の着替えの手伝いを任せて、桜大海は鬼天を送り出す案内に立ってくれた。


「見送れなくて、すまんね。またおいでよ」


 そう言ってくれた桜風に、深々と鬼天は一礼して宗太を背負い、桜大海の後に続く。建物の出入口に至り、履物を自分の靴に替えて弟子のそれを手に持ったところで、桜大海の後ろから駆けて来る足音があった。


「あ、あのっ、鬼天さんですよね」

「あらイロハじゃないか。どうしたのさ」


 桜大海が声を掛けるのと重なって、鬼天の頷きも、やってきた少女に返される。白い着物に黒袴をつけ、伸ばした髪を背中でひとつに束ねている。典型的な下位の弟子の格好からしても、彼女が桜大海の妹弟子であると知れた。夜虚綱に一礼してから、鬼天に自分の名を名乗る。


「あの、わたし、石川いしかわイロハいろはって言います。桜風部屋の序二段です。その、このたびは、助けていただいて、ありがとうございました!」


 勢い良く言ってから、自分の股に自分の頭をくぐらせるかという勢いで頭を下げた。円根宗に集められていた取的たちのうち、ほとんどは桜風部屋の若い理器士たちで、他の部屋からも数人ずつ混ざっていたようだった。残念ながら半数ほどは死霊汚染によって泥の塊となってしまったが、幸いイロハは生き残る方に入っていたらしい。


「もう大丈夫なのか」


 鬼天が訊くと、下げた頭のまま、ひどく気合の入った声で、はいっ! と応じる。ちょいちょいと肩をつついてきた桜大海の方を見ると、小声で、かわいいだろ、などと囁いた後に、紹介してくれた。


「ほら、靖実が言ってたろ。円根宗にハマって、紙土俵が代わりになるんじゃないかって言って、のめり込んでたっていう。あれがこのイロハだよ」


 ああ、とぼんやりながら鬼天も思い出していた。協会の計管委員である餓蝶によって接収されてしまった桜風部屋の稽古用土俵、その代わりになるものを探して円根宗に行ってしまい、今回の件が発覚するきっかけになったのが、このイロハというわけだ。どちらかといえば被害者側なのだろうと思われるし、それに鬼天には過去の因縁もあるのだから、こうまで礼を述べられるのも気が引けた。


「ま、大丈夫ならいいさ。そんなに畏まらなくてもいいし。土俵のことなら親方なり、この」


 宗太を背負っているため、指差すことができずに鬼天は桜大海を顎で示す。


「立派な夜虚綱さんが、なんとかしてくれるから、心配するなよ」


 はい、ありがとうございますっ! という声を自分の脚に向かって発してから、そろりとイロハは顔を上げる。垂れ落ちた自分の髪に目や口を邪魔されて、慌ててそれを背後へ払い飛ばした。軽く鬼天を睨み返す桜大海と、悪戯交じりの笑みでそれに応じる鬼天とを交互に見比べつつ、イロハは言いにくそうに話し始める。胸の前で指先を合わせた両手で、掌中のポンプを押すような仕草をしながら、迷う言葉を押し出して。


「あのう。円根宗なんですけど、元はといえば靖実姉さんが勧めてくれたんです。土俵のことも、靖実姉さんが、きっと代わりになるって教えてくれて。あ、わたしはもう円根宗なんかに関わったりしませんから、絶対です」


 聞かされたふたりは目を見合わせて、不可解さを互いの表情に見出していた。イロハの言うとおりだとすれば、谷村靖実という娘は何をしたかったのだろうか。はじめは期待していた円根宗が思いがけない悪影響を及ぼしたために、それをつい妹弟子のせいにしてしまったということか。いずれにしろ、そのあたりは桜風部屋の内部事情だろう。そう判断した鬼天が、自分の関わることではないと目顔で桜大海に示すと、夜虚綱の頷きが返ってきた。同じ推測をしたのだろう。イロハの頭を撫でるように手を置いて、桜大海は優しく妹弟子に言い聞かせる。


「そうだね。あまりあたしに心配かけるんじゃないよ。靖実のことも、あたしが預かるから、あんたはもう忘れて、稽古に励みなさい」

「はい! あたし頑張ります! 頑張って、いつか姉さんみたいになります!」


 別人かと思うほどに目を輝かせて桜大海に宣言してから、イロハはまたふたりに深々とした一礼を置いて駆け去っていく。いい子なんだけどちょっと粗忽でねえ、などという姉弟子の感想を聞きながら、鬼天は桜風部屋を辞した。外はまだ降り続けている。


  ■


 歴史のいつの時点で協会が結成されたのかは、判然としない。ただずっと、この組織は具体的な名前を冠することなく、単に協会と呼ばれ、内部の人間たちも同じく名乗っている。理器士になるには協会に弟子として所属することが、公式でもあり最短でもある道ではあるけれど、事象予報の業が協会を脱退したら行えなくなるわけではない。それに、弟子を辞めた後には、脱退せずに親方として協会に残る選択肢もある。そうした親方たちによって運営が担われていることにより、弟子たちは理器士の修行に専念できることになっていた。

 協会にあるたったひとつの会合は、各相撲部屋の師匠が集まる師匠会である。年に四回程度の集まりであるため、ここで普段の細かい運営内容が決定されるわけではない。そのため協会は、部屋付きではあるが師匠として部屋の代表になってはいない親方たちに、係を割り当てて、係ごとに委員会を組織している。計算資源管理委員会も、そうした協会の下部会合であった。通称、計管委員会、もしくは計管とだけ呼ばれる集まりは、今も車座に並んだ座布団の上に親方衆を据えている。

 現実に集合した親方たちが七割ほど、他は座の中央に正方形に区切られた空間で燃える炎の形をした仮想囲炉裏バーチャル・イロリに接続して、遠方からネットワーク越しに参加していた。仮想囲炉裏の上で、炎にかけられた鉄瓶がしゅんしゅんと沸騰した音を立てている。


「では、みなさんは」


 苛立ちを隠そうともしない声が、一座に向けて放たれた。餓蝶麻子が身を乗り出し、自身の座布団の前に、ずんと右手の拳を突き立てて、問いの形で主張を繰り返す。


「われわれの八百万の神々が宿る土俵を、唯一正統である方法を用いて構築し使用できる協会が、廻しを締めたこともなければ魔解もできないようなスーツ姿の連中に、ビジネスだのと言ってマネーゲームの具に供されるさまを、黙って見過ごす。そういうご意見か」


 語気の荒々しさを視線にも込めて、ぐるりと委員たちを眺め回した。そうした攻勢を、いちど軽くいなすように、親方たちは黙って間を取り、そのうちの一人が穏やかに応じて小さく挙手しながら押し返す。


「われわれが今、俎上にのせているのは、各部屋の稽古用の土俵のことだ。餓蝶委員が言うようなことは、すでに禁土俵法で対処されているのではないかね」

「それに、土俵に八百万が御宿りになるというのは、餓蝶委員個人の見解であろう」


 ついでというように別方向からも指摘が上がる。が、これは本日既に二回目のやりとりであり、餓蝶本人を除いては、呆れたり馬鹿馬鹿しく思っている者も多い。それがどちらの意見に与する者かは別として、だ。


「さきほどの話にもあったが、スカした弟子たちが土俵の情報を漏らしかねない、という懸念は確かにあるな」


 などと餓蝶を支持する声ももちろんある。だが今宵はもう閉会としようかという頃になって、話を蒸し返した餓蝶に対する一同は、み気味であった。彼らの気持ちを取り戻すべく、餓蝶は気勢を上げて同調者の言葉にのる。


「その通りです。理器士の修行は厳しく、下位の弟子たちにはとくにスカす者が後を絶たない。で、あれば、彼らが使用する稽古用の土俵にも、厳とした管理が行き届くようにするのが、われわれ計算資源管理委員会の務めではありませんか」

「餓蝶委員」


 名を呼ばれて、ため息をつかれて、そのうえで同じ返事をくらう。


「これも先ほどと同じだが、稽古に支障を来たすのでは、本末転倒。ゆえに稽古用土俵を接収するという餓蝶委員の行動は妥当とは言えない。よって三日の謹慎とする」

「処罰を免れようと話を蒸し返すのは、やめたまえ」


 侮辱まで付属した反撃にあって、これ以上の主張は無駄かと餓蝶もやむなく身を引くことにした。最後に一同の顔を見回して、自分の味方が三割ほどであることを記憶する。次の会合までに中立派を口説き落とし、味方を増やさなくてはならない。


「そこまで仰るなら結構。この程度では私は考えを翻したりはしない」


 餓蝶のその宣言をもって、会合は閉会となった。仮想囲炉裏の炎が消え、接続を断たれたネットワーク越しの委員たちの姿が消える。他の面々も、次々と立ち上がり、退室してゆく。餓蝶は最後まで、その場に座っていた。相撲を貶める行為を欠片たりとも見逃してはならないし決して許してもならない、という使命感が下火になるまで、心を整える時間が必要だったからだ。

 ようやく立ち上がり、振り返ったとき、開けっ放しにされていた出入口に、こちらを見る着物姿の人物がいることに気が付いた。襖を閉めたときに当たる脇柱に背を預け、その男は出入りを妨げるように斜めに投げ出した足で敷居を踏んでいる。そのせいで紺色の着物の裾がめくれて、茶色のハイソックスとよく繁った脛毛が丸見えになっていた。


「いやあ、玄関で待っていたんですがね。待ちくたびれちゃって、こちらまでお邪魔しちゃいました。餓蝶麻子さん?」

「たしかに私は餓蝶だけど、あなたは?」


 問い返すと男は、にっこり微笑んで歩み寄ってきた。握手を求める仕草で片手を差し出し、促すように餓蝶の顔と自分の手元とに交互に顔を向ける。応じるつもりは、餓蝶にはなく、代わりにふたつ教えてやることにした。それで、あとは関わらずに退室するつもりだった。


「合わせが逆。それと、敷居は踏んではならない。作法よ」


 畳の縁や敷居は踏まないのが礼儀作法ではある。そして、着物の合わせは右が肌に近い手前側で、その上に左を重ねる。逆の左前では死出の衣装だ。言葉の終わりに、男を避けるべく餓蝶は右へ一歩踏み出すが、その目の前に腕が差し出される。


「いやあ、慣れない服装なもんですからねえ。ほら、こういうところに来るには、やはりそれなりの格好というのが必要かと思いまして」


 なるほど、不適当ではあるが彼なりに礼儀を通そうという気持ちはあるらしい、と餓蝶は男のことを評価した。だがそれだけだ。関わる理由などはない。歩みを妨げられる必要など、さらにない。じり、と前に出るが腕がどけられる様子はなく、ならば男よりも速く動いて通り抜ければ良いだけだ、などと心に思う必要すらなく、餓蝶は身についた理器士の体さばきをもって、男の背後に移動した。


「おや、さすがですねえ。ですが今、あなたは少ぉしだけ損をしましたよ。なぜなら、この私はあなたの考えを大いに賞賛する人間だからです。あ」


 べらべらと喋る声が背中の向こうに遠くなってゆくのは、餓蝶が廊下に出て玄関に向かっているからで、それに気付いた男が慌てて追いかけながら、着物の裾がまとわりつくことへ垂れている文句と、どたばたと子供の立てるような足音で廊下を騒がせているのは、呼び止めようとしているからだ。


「いやいやいやいや、餓蝶さん餓蝶さん。それはいけないですよ、いけない態度ですよ。世に氾濫する土俵を一手にまとめようというお考え、私は大賛成なんですから。なんなら如何ですか、密造土俵の取引場所、知りたくありませんかー?」

「なんて言ったのかしら」


 聞こえた言葉に餓蝶は立ち止まった。廊下の中央に仁王立ちになった理器士に、曲がり角の向こうから転がり込むように駆けて来た男は、壁にぶつかるように勢いを止めて、ようやく追いつくことができた。ふう、とわざとらしく焦らすように大きな吐息をついて、さしてこだわりもないはずの着物を直すような衣擦れや呟きを漏らしている。


「もう一度、言いなさい」

「おやあ。餓蝶さん、興味持ちました。私に、興味持ちましたか?」

「おまえではない、おまえの情報だ」

「同じことですよお。いいですねえ。では取引成立ですね。密造土俵の取り締まり、お手伝いしますよお」


 すたすたと餓蝶の前に回りこんできた男は、相変わらず握手を求めてきたときと同じ満面の笑みを見せている。情報の信憑性には難があるとは思う。だが計算資源を管理するという自分の務めの重要性は、そのような情報でも活用すべきものだ。相撲を、そして神事を崇高なものに保たねばならない。長い沈黙を挟んで、餓蝶はようやく頷いた。


「……いいわ」

「ぐぅぅーっど。では、こちら、よろしくお願いしますよお」


 言って男は懐から小さな紙を二枚取り出して手渡してくる。大きめの方には密造土俵取引の時刻と場所であろう数字と記号の文字が並び、小さめの方の紙には、男の名前が記されていた。市間内郎、と。

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