一ノ二、夜虚綱

 地下二階の扉の前で足を止めたとき、桜大海が楽しげに言ってきた。


「昔のあたしだったら、ひとりで突っ込んで行ってただろうねえ」

「いつの話だよ」

「兄さんがまだ綱を張ってた頃さ」


 鬼天が現役の夜虚綱であったときは、遠い昔のような気がする。そのとき所属していた王鬼部屋おうきべやは、今はもう存在しない。部屋は親方から親方へと受け継がれていくものだが、まれに廃絶されることがある。王鬼部屋に所属していた部屋付き親方たちや弟子たちは、別の部屋に移籍したり、鬼天のように世方よかたになったりしていった。引退したあとに親方になるなどして協会に残ることなく、世間に戻って行った者たちを世方と呼ぶ。中でも懲罰などで排斥された者をとくに、穢方えかたと呼んで忌避する慣わしがあった。

 過去を思っても、どうにもならない。ふっ、と笑みの呼気を漏らして鬼天は言い返す。


「十人以上の妹弟子いもうとたちを担いで帰るのは、骨が折れそうだって気付いたなら、夕も成長してるようだな」

「いけるさ、そのくらいは」


 犬歯を見せ付けるように笑んで、桜大海は髪留めを解く。椿油の馴染んだ長い黒髪が、地下階段の薄暗い明かりを吸って赤黒く艶めいた。淀んだ空気に広がった理器士の匂いに笑みを深めながら、鬼天は地下一階でやったのと同じように片足を上げて、扉を蹴り開けた。

 階段を下りていたとき既に、声も聞こえていた。匂いも感じられていた。温度さえも。

 だが部屋の天井も壁も床も余さず白で塗りつぶされている眩しさに、驚かなかったといえば嘘になる。あ? と正直な疑問符が鬼天の口から漏れ、誰の耳に届くこともなくかき消された。部屋の中に満ちる嬌声の合唱が侵入者ふたりの耳を圧する。

 床と天井には目一杯に黒で円が描かれていて、その中で何人もの少女が廻しまわし姿で絡み合っていた。腰と股とに巻き付ける廻しの色は、幕下以下の、死呼名を持たない理器士は黒と決められている。彼女たちの白い肌で、頭髪とそれだけが目立ってぶつかり合っていた。だが、相撲のぶつかりではない。抱き合うように何人も、何人もが、描かれた円の中で悶えている。苦しみなのか、悦楽なのか、悩ましい声を漏らしながら。

 室内の熱気は彼女たちから発していた。潤んだ目と半開きの口の、どちらからも透明な液体が垂れ落ち、互いを舐め、撫でるように相手の乳房、腹、尻と手を滑らせる中に、見たことのある顔がいくつかあった。

 背後で衣擦れの音がして、桜大海が上半身を肌けたのを知る。前に出てくる気配を察して、鬼天は夜虚綱に道をゆずるついでに、床の円の外周を辿るように移動してゆく。視界に桜大海の姿が映り、やや前かがみになって着物の足元を払い上げて脚をさらした彼女が身を起こし、豊かな乳房の鬨を上げるような弾みを目にする。長い髪が逆立ち、蠢き始めていた。

 土俵は女人禁制と言われている。だが正確には女人不入はいれず。誤解無く言葉を補うならば、女人として入ることはできない、ということだ。

 油断無く部屋全体を見回しながら鬼天は歩み、悶える少女たちの隙間から、円の中心に座る人物の姿を発見した。思い耽るように目を閉じ、不動にして静寂。その一点のみ別空間のようであった。だが今、その目が開かれる。

 桜大海が円を踏んだ。たとえ幕下以下では機能しないような土俵であっても、夜虚綱ともなれば、それだけでも十分に意味はある。意味を引き出せる。踏んだ脚のふくらはぎが、むくむくと筋肉で盛り上がるのが見て取れた。怒りで薄紅に染まった腿も、女性の柔らかさを失う代わりに力強い曲線が現れる。夜虚綱が完全に円の中へ踏み込む頃には、変化は上半身にも及び、帯の上に突き出した腹は丸いが、背には脊椎を挟んで山脈のごとき背筋が脈打ち、豊かに柔和を描いていた乳房は厚みを増した皮膚で艶やかさを無くしつつ縮んで、肩と首を結ぶ筋肉が壁のように盛り上がった。両の腕は元より三倍は太くなって力を波打たせている。その姿は全く男性のそれであった。鬼天は確認したことはないが、聞いた話では廻しの中で男性器すら形成されているという。これが女人禁制の真実であった。

 そして、髪だ。桜大海の逆立った長い髪は、自ら動くようにしてまとまりつつある。

 理器士として稽古を積み、修行を続けていくうちに、肉体は変化していく。相撲に死霊コンピュータと名を付けた研究において、この変化は死霊回路を形成する過程とされていた。人体が持ち得た新たな器官、それは土俵を通じて召喚した死霊の状態を保持するためのものであり、死霊器官とも呼ばれている。死霊回路が活性化すると、肉体に外見的な変化が起こる。土俵が死霊回路を起動することで女体の男性化が起こるのも、ひとつ。加えて多くの理器士に共通するのが、魔解まげの形成だ。

 桜大海の髪は後頭部で、背後に真っ直ぐ突き出した一本の尾のようにまとまっていた。その下部は緩く撓み、うなじを覆う裾のような膨らみを残している。そして尾は途中で、への字とは天地逆の形に折れ曲がり、先端を夜虚綱の頭頂に安置した。死呼名のない理器士でも、ここまではできる。だが高い計算力の証は、その髪の先を半円状に広げて示される。それは、正面から見た形状に由来して、大畏弔おおいちょうと呼ばれる魔解の究極形態でもある。

 土俵上の少女たちが女体のままであったのは、彼女たちの死霊回路がまだ未熟であったからだ。そのような娘たちを、このような粗雑な土俵に上げては、死霊に酔うしかない。それは愚かな行為であるばかりでなく、死霊の穢れに感染して理器士としてのみならず人としての存在をも失いかねないことだ。


妹弟子いもうとたちを返してもらおう」


 口調からは気負いなど感じられなかった。桜大海の全身が、それを発していた。夜の虚ろである。部屋の白を押し退けて広がる夜虚よこの気を、人の形に留めて置くための綱、太古の昔に用いられていた夜虚綱の語義である。解き放たれた桜大海によって、周囲の少女たちが次々と失神して倒れてゆく。


「相変わらず、加減を知らない奴だな」


 ぼやいて鬼天は、部屋の隅にまとめて置かれていた少女たちの着物を手にとって、床に伏した順に円から引き出しては、それを掛けてやる。どうやら桜風部屋以外からも数人が来ていたらしい。二十人ほどを軽い身のこなしで壁際へと寄せ終えるころには、円の中心にいた人物は立ち上がっていた。

 そして部屋の奥にもう一人。一段高くなったそこに座っている着物姿の男は、鬼天の記憶に影があった。


「弟よ」


 高みから掛けられた声に、隙無く警戒した視線で鬼天は応じる。かつての王鬼部屋での兄弟子、勇王山ゆうおうざん――。

 ぐらり、揺れた。桜大海が両脚を開いて腰を落とし、その体勢から片足立ちになるように、大きく上げたもう片足が、スローモーションのごとき穏やかさで床に戻った。それだけの動作が部屋を激しく揺さぶった。死呼しこである。続けて第二震。左右の脚で根の国を呼び出すと、水平に広げた両腕から体の正面で掌を打ち合わせて柏手かしわでを響かせ、音波で土俵上の空気を浄化する。桜大海の身体に死霊が満ちつつある。その間もずっと夜虚綱の目は、土俵中央の人物を捉えて離さずにいる。その視界で口が開かれた。


「名乗りは無しかい。尤も、当代最強を知らないあたしじゃあない」


 数歩後退し、円の中心点をふたりの衝突の場に空けた。その声は外見の男性的筋肉質とは異なり、女の音域である。かの人物もまた、女理器士であった。


「あたしは勇疾風ゆうはやて勇王山オヤジの最後の弟子さ」


 鼻先で背後の壇上に座る男を示しながら、誇らしげに自らの死呼名を声で掲げる。既に準備は整っているのだろう。死呼もなく勇疾風は腰を落とし、両膝の間に両肘を入れ、握った両拳で桜大海に狙いをつけた。他方、柏手を打ち鳴らした両腕を、再び広げて夜虚綱は薄い笑みで応じる。


「来な」


 ひとことだけ。桜大海が伝えた瞬間に勇疾風の姿は掻き消えた。速い。だが夜虚綱の体内に充満した死霊たちが未来の確率を囁く。分かっている。迷いなく桜大海は頭から突進した。その先に過たず勇疾風は移動してきてしまい、まともに夜虚綱のぶちかましを正面から受け止めることになってしまった。

 まるで嵐だ。なんとか勇疾風が組み止めるまで、一秒もかかっていない。その間の二人の理器士の動きに圧倒されて、室内の空気が乱流となって鬼天や、土俵を挟んだ反対側の勇王山にも襲い掛かる。だが二人の髪と衣服しか、その風に弄ばれることはなかった。

 次に訪れた無風の瞬間には、土俵上の二人の鋭い呼気と、摺り足が土を噛む音が混在する。勇疾風の廻しに手を掛けて投げようと、その腰に腕を伸ばす桜大海から、相手は逃れるべく夜虚綱の脇の下に差し込んだ手で、肩ごと押し退けて遠ざけようとしていた。しかしそれは、むしろ勇疾風のその手が夜虚綱の腕と胸の肉に挟み込まれて、自身の動きを封じてしまってもいる。加えて勇疾風は上体を低く、額を桜大海の胸骨に当てるようにして、腰を引き、相手から廻しを離しながら左右に足を滑らせて振り、狙ってくる手に空を切らせていた。とはいえ勇疾風のそれは逃げではない。桜大海によって間違いなく土俵際へと押し込まれているが、それはじりじりとしたものでしかなく、一気に持っていかれるような柔な足腰をしてはいなかった。背後に土俵の端を感じながらも、勇疾風は逆転のチャンスを見出すべく粘り続けている。

 土俵から出てしまえば、理器士に死霊計算は行えなくなる。または、土俵上であっても根の国に向かって伏してしまった理器士からは、死霊たちが離れてゆく。そのような計算途中の死霊ビットは、土俵に残った理器士に取り込まれて最終結果に寄与する。計算結果を自ら予言として口にするには、相撲に勝たねばならない。勝者、敬白す。ゆえに勝てば白星を得て、負ければ逆に黒星を背負う。相撲の心技体に卓越することで、人々からも死霊たちからも、計算力の高さを認められることになる。すなわち死霊計算において、計算力とは相撲の心であり、計算力とは相撲の技であり、計算力とは相撲の体であるのだ。

 全ての面において、勇疾風のそれを桜大海は明らかに上回っていた。死霊たちは徐々に、より計算に適した器を求めて、夜虚綱の身体へと移動してゆく。そのぶん勇疾風の相撲は力を失ってゆく。だがこの計算には意味がない。なぜなら断ち相たちあいをしていないからだ。

 理器士によって断ち相が行われることで、死霊ビットの位相が、それまでとの連続性を断たれ、計算のために準備された状態に整えられる。この前提がなければ、どのような計算処理を実行しようとも、その結果が有用な状態になることは、まずない。とはいえ結果に関わらず、勝負に勝つことはより高い計算力を示すことであり、それにより死霊回路はさらに強力になる。ゆえに、神の理を求める理器士にとって、勝利は定めであった。

 なんとしても負けられない。土俵に上がった以上は、どんなに相手が格上だとしても、たとえ追い詰められたとしても、その最後の瞬間まで決して諦めることは許されない。己自身に対する理器士としての向上心が、勇疾風を最後の最後で踏み止まらせている。

 しかし、桜大海ほどの夜虚綱が詰めを誤るはずもない。土俵際のセオリー通り、腰を浮かさないことで全身の力をかけて着実に前進してゆく。相手の腰を正面に置き続けるべく、しっかり開いた両膝が勇疾風の左右の動きを夜虚綱の手中に収め切っている。惜しむらくは廻しを掴めていなかったことか。

 がくん、と桜大海が小さく沈んだのは、勇疾風が差し手を抜いたからだ。その瞬間にはもう、脇から抜いた手を同じ肩の上へと置き直している。追い詰められた発汗の飛沫が、勇疾風の手や額から散り注いだ。会心の笑み。ぐっと喉の奥から鳴らした声とともに勇疾風は、桜大海の肩に置いた手を支点に跳躍し、宙から夜虚綱を越える。


「ほう、八艘か」


 八艘跳びはっそうとびを繰り出した勇疾風に、鬼天は感心して声を漏らした。夜虚綱の前進する力と低い体勢を利用して、蹴り上げた勇疾風自身が、逆立ちをするように高々と振り上げられる。


「甘い」


 決まるかに見えたその技に、冷徹な声が掛けられる。驚愕とともに勇疾風が声の主を見ると、見上げてきた桜大海の鬼の形相と瞳がぶつかった。ぞっとした。そのせいで技が鈍ったこともあろう。まさに相手を飛び越えようという頂点に達した空中で、勇疾風は突き上げる爆風に全身を打ち付けられた。夜虚綱の対応力が、左右に突進できるだけであるはずがない。当然ながら跳躍力で易々と当代最強を超えられる理器士があろうはずもない。

 重力を引きちぎるかのごとく天に向けた桜大海のぶちかましは、そのまま勇疾風を天井へと深く突き入れた。亀裂が走り、天井に描かれた黒円は元の形を失う。

 羽毛かというほど静かに着地した桜大海は、基本姿勢を崩さず、肩幅に開いた脚の間に腰をやや落として、隙無く待ち構えるが、勇疾風が下りてくる様子はない。代わりに土俵の中に紅点がふたつ、みっつと現れる。それを根拠に完全に技が決まったと判断した桜大海は、構えは解かないまま摺り足で土俵際まで後退すると、かかとに尻を乗せるように座り蹲踞そんきょの姿勢をとると、手刀で天地に一線を引いた。立ち上がり、一歩で土俵を出ると、姿は元の美女に戻る。着物を直し、魔解の束縛がなくなった髪を左右に振ってから背でひとつにまとめる。ようやくそのとき、天井から滴る血を追うように勇疾風の身体は根の国へと墜落した。


「気が済んだか」


 声をかけた鬼天にいちど目を向けた桜大海だったが、その視線は止まらず勇王山に向かう。応じるように、壇上の男はゆらりと立ち上がると、宙を歩くがごとく優雅に床へと降り立った。


「夜虚綱よ。大畏弔も開かぬ格下が相手では、物足りなかろうな」


 たしかに勇疾風の魔解は常魔解じょうまげであった。束ねられた毛先は大畏弔に開くことはなく、そのまま頭にのっていた。だから鬼天も安心して見ていただけだったのだ。けれど勇王山と桜大海がぶつかるとなれば、看過できない。

 勇王山の現役での最高位は夜虚綱のひとつ下である大関であったが、短期間の理器士生活の後に、まだ力を十分に残したまま引退してしまった。それから如何なる修行を積んできたのか、鬼天も知らない。ましてや円根宗などという外道を主導しているならば、今の兄弟子の実力は推し量りようもなかった。


「あんたが、このバカげた宗教の元締めかい」

「いかにも。我輩こそが円根宗は開闢の祖、勇王山である」


 桜大海による確認の問いに、倒れ伏した弟子に歩み寄りながら勇王山は挨拶をするときのような気軽さで回答する。そのまま片手で石ころでも拾うように弟子の体を掴み上げると、背を向けた。


「待ちな!」


 桜大海の荒ぶった声が響いたが、それは何も起こさずに立ち消える。浮き上がるように勇王山は弟子とともに再び壇上に登り、そのまま奥へと歩んでゆく。そこには通路があるらしい。けれど、黒く塗られているのか暗がりゆえか、ふたりの位置からは目視できなかった。


「夜虚綱よ。我輩と予言を成そうなど、叶わぬと知れ」


 言い捨ててから、勇王山は通路の向こうへ姿を消す直前になって、じっと鬼天に目を向けた。暗がりで爛々と輝く鋭利な視線が以前の弟弟子に突き刺さる。それを正面から鬼天は見返した。呼んでいる。

 理器士が死霊を呼ぶとき、死霊もまた理器士を呼んでいるという。そのどちらでもあるような招きが、勇王山の目から鬼天の目へと伝えられている。逃れる術も、その必要もない。なぜなら鬼天は勇王山ゆうおうざん武雄たけおの行方を追ってきたがゆえに、この数日の円根宗に関する調査に至っていたからだ。


「良かろう。来るがいい、じん


 昔馴染みの呼び名で勇王山は弟弟子に声を残して、今度こそ姿を消した。それに続くべく一歩踏み出した鬼天を、桜大海が引き止める。


「兄さん。あれはあたしの獲物だよ」

「いいや、夕。おまえはアレを始末して帰れ」


 鬼天が肩越しに親指で示した先で、意識を失っていたはずの少女たちが、半数ほど起き上がっていた。だがその様子はまだ夢の中にあるような、ゆらゆらと力ないものだ。それらの顔が、桜大海の向けた注意に反応して、一斉にこちらを見る。血走った白目たちが。

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