一、死霊を用いて相撲を取ること

一ノ一、事象予報士の朝

 朝早く、といってもそれは鬼天にとってのことで、訪問者にとっては昼前の時間帯に、扉を叩く音で起こされた。呼び鈴は無い。頼りなげなアルミの扉は、上半分の曇りガラスに来客の姿を滲ませている。また二度、扉が鳴らされてその姿は揺らめいた。

 寝覚めは良くなかった。ソファでウィスキーを傾けながら、その途中で眠りに落ちてしまったらしい。いつもの黒スーツは、さすがに上着はハンガーに掛けてあったものの、スラックスと白ワイシャツは皺だらけになっていた。そのワイシャツの腹にウィスキーが染み込んでいる。辛うじてグラスの中に残ったらしい氷が、テーブル下のカーペットに存在証明の湿り気を残していた。ソファからだらしなく垂れた片手で湿りに触れた冷たさに気を取られ、そちらに目をやると、手の先にグラスが転がっている。


「馬鹿野郎が」


 酔う前の自分に呟いたはずが、別の方向から返事があった。


「ご、ごめんなさいっ」


 視線を巡らせた鬼天の視界には、その人物は入らなかった。だが声からだいたいの位置を把握して、そちらに「おまえじゃない」と声を放る。言われた足音が、とてとてと近付いてきて、ソファの背から覗き込まれて、ようやく目が合う。


「あの、お師匠さま、お酒には触るなって、言ってたから」


 顔を出したのは10歳くらいの少年で、師匠と呼ばれた鬼天は彼の頭を、杖にするかのごとく鷲掴みで支えにして上体を起こした。さして呑んでもいないが、やや頭痛がするような気がする。頭蓋骨の中で、がんがんと鳴っているような。


「いや、客か」


 鳴らしているのは酒ではなく客であるようだった。しょぼつく両目を、少年を掴んでいない手で拭うように擦って目を覚ます。テーブルに向き直りながら、手放した少年に指示した。


宗太そうた、客をここに。俺は顔を洗ってくる」

「はい! お師匠さま」


 立ち上がりつつ鬼天は、開けっ放しだったウィスキーのボトルに栓をして、それを片手に洗面台へと向かう。途中で戸棚にボトルを放り込んだ。

 伊藤いとう宗太そうた少年は、彼の師匠が立ち去るのと入れ違いにテーブルに近付いて、用意良く手にしていた布巾でその天板を拭い、それをエプロンの腹のポケットに押し込むと、扉の前に駆け寄った。振り向いて鬼天が入口からは見えなくなるのを確認すると、曇りガラス越しに来客を見て解錠する。どうやら来訪者は桜色の着物姿の女性であるらしい。扉を開けると、嗅ぎなれた理器士の匂いが流れ込んできた。整髪に椿油を用いるのが彼らの慣習であり、彼らの匂いの元でもある。

 入ってきたのはふたりの女たちだった。先に立つのは桜色の着物に青の帯を締めた若い女性であり、見た目の若さにしては大器を感じさせる貫禄を纏っていた。言わずと知れた桜大海夕である。それに付き従うようにして入ってきたのは、白い着物に黒袴をつけた、さらに若い少女だった。ふたりとも長い髪を背中でひとつにまとめている。


「あら。ええと、宗太だったかしら?」

「はい、お久しぶりです桜大海姉さん」


 最後に桜大海がこの場所を訪れたのは、まだ禁土俵法が施行される前だから、半年以上は間が空いている。それでも夜虚綱に覚えていてもらえたことが嬉しいのか、宗太は満面の笑顔でふたりをソファへ案内した。さっきまで鬼天が横になっていたものとはテーブルを挟んだ向かいにある席に、優雅に桜大海は腰を下ろした。従者の少女は背後に立つ。


「宗太、これはあたしの妹弟子の谷村たにむら靖実やすみ――幕下まくしただっけ?」


 言葉の始めは親指だけを従者に向けていた桜大海だったが、少女の名を呼んだ後にソファの背に肘をかけて振り向き、靖実の理器士としての階級を問いかけた。


「はい姉さん。――谷村です。よろしくお願いします」


 夜虚綱へ明快な返答をしたあと、宗太に向かって靖実は深々と礼をする。あわてて自らの名を名乗りながら少年は礼を返した。

 理器士の階級は大きく分けるとふたつある。死呼名を持つ関取か、持たぬ取的とりてきか。理器士になるとまず取的になり、修行の成果を認められて死呼名を与えられ、関取になることができる。

 取的には下から順に、序ノ口じょのくち序二段じょにだん三段目さんだんめ、幕下の四階級があり、靖実の理器士としての実力はその最上級である幕下と認定されていた。もうしばらく修行を続ければ、遠からず彼女にも死呼名が与えられて関取となれるだろう。

 関取になれば、まずは十両じゅうりょうという階級に属する。その上は幕内まくうちであり、幕内の最上位が夜虚綱である。夜虚綱の下に三役さんやくと総称される三つの階級があり、その他の幕内理器士は平幕ひらまくと呼ばれる。三役は上から、大関おおぜき関和気せきわけ小産巣日こむすひである。つまり桜大海は、若くしてこれらの階級を駆け上がってきたのだった。

 互いの紹介が済んだところで、桜大海は部屋の奥に向かって声をかけた。


「兄さん、お邪魔してるよ」


 姿の見えない鬼天に対する呼びかけに、応じる声がある。伴って新しいワイシャツを着る音だろうか、布が鋭く擦れて聞こえてきた。もし鬼天が不在なら宗太は客を中へ通したりしないだろうし、それに桜大海ともなれば気配を読むことは容易い。隠そうとしていない相手ならば、なおさらだ。


「待たせたな」


 ほどなくして寝起き感を綺麗さっぱりと払拭した鬼天が顔を出し、ついさっきまで寝転んでいたソファに着席した。女二人と向き合い、隙を見てお茶を淹れに離れていた宗太が、盆に茶菓子とともに載せて戻ってきたところで、鬼天は片手を上げて靖実を紹介しようとした桜大海を制する。


「聞こえてた。俺のことも聞いてるだろ」

「はい兄さん」


 即座に素直な答えを返す彼女に、鬼天は肩をすくめて見せた。おまえが兄さんなどと呼ぶからだぞ、という意味を込めて桜大海に半眼の視線を送ると、夜虚綱もまた肩をすくめる。鬼天の背後に立つ宗太が苦笑する気配が感じられた。


「あの、何か……」


 失礼なことでもしただろうか。心配そうに靖実が問いかけるのを、座っている二人は同時に片手を振って問題ないことを報せる。そうしながら、鬼天は話を進める。


「それで、今日はなんだ? いつも来るのは突然だが」

「うん。すまないんだけど、兄さんに頼みたいことがあってね」

「事象予報なら、ここ半年くらい休業中だぞ。人探しやら物探しやらは、やってるけどな」


 似合わない歯切れの悪さで切り出す桜大海を観察しながら、鬼天は事務的に応じた。言いにくそうにしているところを見ると、どうやら面倒な話のようだ。


「やっぱり兄さんのところも、禁土俵法で?」

「まあな。下手に事象予報なんぞしたら、土俵を隠し持ってるんだろうと疑われちまう」


 いやな世の中になったもんだ、とは言葉にせず吐息にして、鬼天はソファの背に身体を預ける。それで? と問うように両腕の肘から先を広げて話を促した。


「その、本当ならウチの問題なんだけどさ」


 ウチを発音する際に目玉だけが靖実の方を見たので、それが桜風部屋のことだと知れた。そんな話を鬼天のところに持ってくるからには、協会にも言えないことなのだろう。


「妹弟子たちが、かなりの数、居なくなっちまって」

「スカしたんじゃあないのか?」


 一応、鬼天は確認してみる。スカす、とは部屋から逃げ出すことである。理器士の修行は厳しく、下位の階級に所属する者たちは泊り込みで休み無く訓練するのが通例だった。もちろんそんな事なら桜大海がここに来るはずはないとは、鬼天も思っている。


「あたしも、最初はそうじゃないかと思ったわ。けど一度に十人以上は多すぎるし、それにこのが報せてくれてね」


 桜大海が顔を向けたのに合わせて、三人の視線が靖実に集まった。自分から説明すべきか迷った彼女の視線を受けて、桜大海が話を続ける。


「石川イロハっていう序ノ口の娘が、あたしと靖実の妹弟子にいるんだけどね」

「姉さん、イロハは序二段になりましたよ」

「ああ、そうだった。ここしばらくイロハの様子がおかしかったって、靖実が言うのよ」


 妹弟子の訂正を受け入れた桜大海は、どう思うか問うような横目の視線を鬼天に送りつけた。それに直接に応じはせずに、鬼天は靖実に向けて問いかける。


「いつから? どんな風に?」

「あの。気付いたのは一ヶ月くらい前なんですけど、稽古は真面目にこなしているし、大丈夫かなと思っていたんですが、たびたび外出して、それがだんだん多くなって、遊びに行っている風でもなくて、帰って来ると必ず土俵の話をするんです」


 よほど自分の口から伝えたかったのだろう。ひと息に言い切って、靖実は大きく呼吸した。会話を妹弟子に任せている間に、テーブルの上の茶に手を伸ばしていた桜大海は、音も無く数口飲み込んだあとの茶碗を手の中に置いたまま、その緑色の水面に話しかけるように呟いた。


「部屋の土俵も接収されちまったしねえ」


 相撲部屋には少なくともひとつは稽古用の土俵がある。禁土俵法の規定からすればグレーゾーンとなる稽古用土俵について、協会はどう扱うか決めかねていると鬼天は噂で聞き及んでいた。それが接収と決まったのならば、もっと大きい騒ぎが聞こえてきてもいいはずだが。


計管けいかんが、ね。どうも一部で先走ってんのがいるらしいのよ」


 鬼天の疑問を見通したように、桜大海が補足する。計管は正式名称を計算資源管理委員会といい、協会の内部組織のひとつだ。歴史は浅いが管轄範囲が広く、委員となる親方に先鋭的な思想の者が多いことで、たびたび協会内でも問題になる。


「あの、それで、よろしいでしょうか」


 控えめに続きを話そうとする靖実に、ソファのふたりは黙って頷いてみせる。


「イロハは、その、土俵が無くても稽古ができるかもしれないって言うんです。無くてもっていうか、これがあればって」


 そう言って靖実が袂から出した紙切れは、広げても片足ほどの大きさもなく、ただ黒く円が描かれていた。一瞥した鬼天の目が鋭い光を帯びたのを、桜大海は見逃さなかったが、素知らぬふりで変わらず茶碗を傾ける。


「わたし、一度心配になってイロハのあとをつけてみたんです。そしたら怪しい地下室に入っていって。もしかしたら他の娘たちも今そこに……」


 根拠のない推測を口にしようとして靖実は言葉を途切れさせた。理器士として積んできた修行が、彼女の惑乱に理性の蓋をしたから、という理由が半分。残りの黙った原因は、姉弟子の発する気がわずかに沈んだことを感じたからだった。


「兄さん」


 喋ってもらうよ、と言外で通知して、桜大海の口元だけの笑みが鬼天を襲う。受け取った男は、だがあっさりと降伏の仕草をとってから、靖実の手元を指差した。


「それを見たことがあるだけだ。円根宗という、最近できた宗教の配っている紙切れさ。奴らはそれを、土俵だと言っているらしいけどな」


 ここ数日、寝る間をも惜しんで円根宗について調べていたことは、黙っておいた。代わりに、指先で宗太を近くに呼ぶ。


「宗太、谷村を桜風部屋まで送っていけ。場所は分かるな」

「はい、お師匠さま」

「あの、わたしは」


 弟子の良い返事と、帰されそうになった幕下の嘆願がほぼ同時に返ってきたが、どちらも気にせずに鬼天は立ち上がる。追って腰を上げた桜大海に、おまえの役目だぞ、と妹弟子の説得を目で丸投げした。


「帰って師匠オフクロに報告しな」


 姉弟子に言いつけられたことを守らないわけにはいかない。見るからに肩を落とした靖実に、理器士としてやっていけるかという危惧を幾ばくか感じながらも鬼天は、自分の弟子である宗太への教育を兼ねて簡単に説明してやる。


「スカしたくらいなら、いつものことで済む。だが今回は人数も多いから部屋の失態として協会から責任を問われかねない。まして土俵が絡めば計管が余計な口を挟んでくる可能性もある。現役の理器士は協会員なんだから、これ以上かかわれば立場を危うくするだけだぞ。だから俺のところに来たんだろう」

「あたしは行くよ。その円根宗とやらのところにね」


 ぐい、と自らの胸を押し上げるように腕組みをして桜大海は猛々しく宣言した。鬼天も最初からそのつもりでいる。言っても聞かないだろうという諦め半分ではあるが。


「夕はまだいい。夜虚綱だから、うまく立ち回れるだろう。幸い円根宗の場所も俺が知っているから案内はいらない。あとは行って、連れ戻すだけだ」

「分かったね?」


 優しい声をひとつ桜大海は妹弟子に投げかけた。いいところだけ持っていくなよ、と鬼天は頷く靖実を見ながら思ったが、口にはせずにジャケットに袖を通して、出入口の扉に向かう。

 町の片隅、表札も無いこの部屋が、鬼天仁太郎の事象予報士事務所だった。四人の最後に出てきた宗太が施錠するドアノブの脇に、ノックしてください、と薄くなった文字で書かれたプレートが貼ってあるだけの、知る人ぞ知る雑居ビルの一室である。

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