リキシ・オブ・ザ・デッド
古都村律広
序、土俵において計算を執り行うこと
禁土俵法が施行されて、たった半年で世界は荒れ果ててしまった。
「ここか」
鬼天の隣で、やけに妖艶な女が、桜色の着物に青の帯をつけ、背でまとめた長い髪を揺らして天を見上げる。夏も終わりの空は青く、鮮やかに白い雲が流れゆく。だが、この路地はそこから切り取られたように薄暗かった。灰色のビルの下、小さく開いた地下への入口。その先に彼女の妹弟子たちがいるはずだ。左右の袂に手を入れて腕組みした彼女の名が
「いくぞ」
鬼天の声に視線を戻して桜大海は頷き、ええ、とだけ応えてスーツ姿の背に続く。ふたりの足音が簡素な鉄の階段を鳴らして、カコ、カコ、と下ってゆく。
人類の近現代史は、工業の発展の歴史といってもいいだろう。時代を下るにつれて、産業革命や工場の機械化を経て、
電子によるコンピュータの密度が増すにつれて、限界が露わになってきた。数ナノメートルという1ミリの100万分の1という世界では、電子が半導体をすり抜けるトンネル効果が起こり、電子回路が正常には動作しなくなる。その代わりに、そうした微細な世界に相応しい、電子よりも細かい粒子を使おうとして、量子コンピュータが提案された。
「居ないか」
動きの悪い扉を蹴り開け、軋む音が去ったあと、鬼天は地下一階の室内に視線を走らせる。階段の途中、無用心にも半開きになっていたそこは、どうやら事務所として使われているらしい。扉の近くに簡素は応接セットがあり、その向こうにはパーティションで隔てられて事務机がいくつか並んでいるようだ。机の角と椅子が隙間から見て取れた。人の気配は無い。人でない者の気配もまた、無い。
階段の続きを降り始めた鬼天と交代するように、桜大海が扉の隙間に首を入れて、切れ長の目で鋭く室内を一瞥する。壁に大きな白い紙が貼ってある。そこに太く黒い墨筆で大書された
薄暗い地下の階段に影を沈殿させる蛍光灯の、今にも力尽きそうな煤けた光が、消えかけて何度か瞬いた。埃っぽい空気が二人の闖入者を受け止めて、ぐにゃりと蠢く。
量子コンピュータが一般的にならなかったのは、実用に足る規模の設備を整えるためにはコストがかかりすぎたからだ。量子を量子ビットとして制御するためには、通常の地球上の空間よりも、むしろ宇宙空間に近いような状態をコンピュータの中に用意しなければならなかった。もちろん歴史は技術を革新させ、当初よりも量子コンピュータは安くなった。だがそれは、誰もが手にできるような価格にはならなかった。
そのうちに、コンピュータでできる予測という行為が、古来から行われ続けていることに注目する者が現れ始めた。世界各地で行われている神事や占術がそれである。神託工学と名付けられて始まったこの学問分野は、その究極を日本で発見した。相撲である。
理器士は、死霊コンピュータの中核を担う人々である。神の
「匂うわね」
後頭部の向こうから聞こえてきた桜大海の声に、ああ、とだけ鬼天は応える。そのあと数歩、足音は彼のものだけになった。彼ら理器士たちには知覚できる。この先に死霊の気配があることが。だがそれは身に馴染んだ感覚でもある。
「どうした」
振り向くというよりも、横顔を見せる程度に頭を巡らせて、鬼天は立ち止まった夜虚綱に声をかける。二人の足が止まり、ひととき地下階段は静かになった。間を置かず、彼女の長い髪が着物に擦れる音が数度して、桜大海が左右に首を振ったのが知れた。
「悪かったね、兄さん」
ふたりに血縁関係は無い。ただ鬼天仁太郎が、桜大海夕の一代前の夜虚綱であった、というだけだ。こうした呼び方は相撲を行う理器士たちの慣習ではある。とはいえ既に引退している鬼天にとっては、過去の話だ。
黙ったままだった鬼天から、何のことを謝っているのか問う気配を察したのだろう。
「ウチの妹弟子たちが、手間かけさせてしまうことになりそうだから」
桜大海のいうウチとは、彼女の所属する相撲部屋のことである。理器士たちは通常、部屋に所属する。桜大海の
「今さらさ。協会に言えることでもないだろうしな」
現役の理器士と親方たちで構成される組織、それが協会である。今この場に、鬼天のような引退して事象予報士を開業している男が来ているのは、この先にあるはずのものが桜風部屋の失態として協会から非難されかねないだろうからだ。ゆえに協会外部の人間として鬼天は桜大海からの依頼を引き受けた。
「そうね。頼めそうな姉さんたちは、みんな親方になってるから」
桜風部屋に所属して引退した理器士たちのほとんどは、今もまだ親方として協会に留まっている。鬼天の現役時代の部屋は、桜大海の桜風部屋ではなかったが、彼女が彼に話を持って来たのには、そういった事情もあった。
顔を前に戻して、鬼天は歩みを再開する。
「気にするな。今回は俺だけで解決しなくても良さそうだしな」
「もちろん、あたしも腕を揮うさ」
応じて桜大海は腕組みを強くし、その上に乗っている豊かな膨らみを歪めた。僅かに上がった片方の口角で不敵な笑みを浮かべながら、彼女は鬼天に続く。
神託工学の研究が盛り上がるにつれて、相撲という神事についての情報を公開せよという、日本に対する意見は増大していった。当初は興行や国技といった面からの説明に終始していた政府だったが、あまりの気運の高まりを受けてようやく、日本政府と皇室との連名で、両国国技館が世界最大にして最強のスーパー死霊コンピュータ施設であることを認め、その神事が事象予報を齎すことを国際社会に公表した。
神事を執行する理器士たちが計算力を行使するために利用するのが、土俵である。伝統的な土俵は、盛り固めた土の天面を水平にし、そこに小さな俵を円形に並べた結界として構築される。根の国との接続を確立して死霊を理器士に供給するゲートであるとともに、計算結果を決定付ける役割をも担っている。土俵作りの専門家を古くは
死霊コンピュータとしての相撲が認知され、広く知られるようになるにつれ、黄泉出しではない者の手による土俵を用いた事象予報が行われることも増えていった。それらの中には、日本が公表した理想的な土俵ゲートとは異なる設計のものもあり、そのため事象予報の精度にも大きな差があった。また、正式な理器士ではない者や、理器士の中でも修行が不十分で死呼名を持たない者などによって死霊計算が実行されることも多かった。その場合には事象予報の誤差拡大のみに留まらず、計算の実行者が魂を死霊に侵されることさえあった。
とはいえ、理器士として死呼名を与えられるほどの存在、つまり
急ピッチで事象予報士の国際標準が制定され、日本でもそれを元に国家資格として認定試験が実施されたが、残念ながらその合格基準は理器士における死呼名付与の基準よりも遥かに簡易であり、正式な土俵を用いる前提での試験だった。だが、事象予報士の人数が世界中で増加することで、人類の生活のあらゆる面において事象予報、すなわち未来予知が当たり前となった。事象予報の結果を元にして政策が決定され、事象予報の結果を元にして投資が行われ、事象予報の結果を元にして製品が作られ、事象予報の結果を元にして雇用が実施された。そしてまた多くの人々が、その結果を日々の服装、就寝や起床の時刻、毎日の食事メニューにまで適用するようになった。人々の生活は、算出された未来に対する行動として営まれるようになった。
そうするうちに、事象予報の誤差が問題として世論に取り上げられるようになる。各国の事象予報精度が比較されてランキングが作成され、ニュースサイトや新聞紙面を賑わせた。そうした順位で常に一位だったのは日本である。なぜなら死霊計算に用いる土俵のうち、最適なものを製作できる黄泉出しのほとんどが日本にしか居なかったからだ。輸出された土俵はごく僅かのみであり、日本国外で土俵作りを行う黄泉出しは、さらに僅かであった。そして、世界中で杜撰な事象予報や事象予報詐欺が頻発するようになった。
事象予報に対する不信は、神の領域と人のそれを分けておこうとする宗教的な思想と結び付き、あっという間に反発へと発展した。禁相撲派を名乗るそうした人々は、自らをクロウスドと称して死霊コンピュータの廃止を叫び、対立する反禁相撲派をネイキッドと蔑んだ。クロウスドたちは事象予報によって起こった不幸な事例をいくつも取り上げ、人類と信仰の清廉にとってそれは害悪であると断じ、不幸を齎すものはもはや犯罪であると語気を強めていった。
やがて日本国外でのクロウスドたちに感化された人々による反相撲運動が、国内でも盛り上がりを見せ始めてきた。各国政府からも、土俵輸出の増加や黄泉出しの移住などが数多く持ちかけられていたらしい。だが日本政府は初めから神事を広めるつもりなどは無かったのだ。研究資料としてのみ公表したことが、論文を元にして事象予報士資格が作られ、いつの間にか世界中で死霊計算が行われるようになってしまった。世に遍く存在する日本の神々にとって、そのこと自体は良いことであろう。けれど神事が詐欺などの犯罪に利用されるようになり、あまつさえそのことで神事のみならず、一神教の神との比較において八百万の神々さえもが貶されている現状を、日本政府は決して許容しなかった。やはり神事を公表してはならなかったのだ。土俵の輸出を停止し、国内においても政府管理下の数拠点を除いて土俵を製造し運搬し使用することを禁じるべきだ。そう気付いた行政は、ついに禁土俵法を施行するに至る。
それからというもの、世界は荒れ果ててしまった。偽造土俵の横行、理器士として十分な力を持たない者による死霊計算の実行、それによる事象予報への信頼度の低下。それらは、事象予報によって支えられ始めていた政治や投資を、光の無い空中へ放り出し、世界経済に深刻なダメージを与えた。行政や金融の揺らぎは、個人の生活でその波動を最も苛烈にする。日々の安定への不信感を強くした人々を保守的にし、今や疑惑に渦を巻かせて争いごとの種にたっぷりと栄養を補給しつつある。
そうした人々の不安につけ込むように新興宗教がいくつも発生し、事象予報の代わりに未来を予言するとして人心を集めてもいる。
円根宗の本部、その地下二階にあるという修行場へと、鬼天と桜大海は降りて行く。根の国に近付くがごとく、一段ごとに死霊の気配が濃くなってゆくのが分かる。ふたりの足音がくぐもるほどに息苦しさを感じる。混ざって、女の喘ぐような吐息交じりの声が、いくつもいくつも連続して響いて聞こえてくる。蒸し暑いような空気に、若者の汗の匂いが漂い始める。秋も近いこの季節、今日のような乾いた天気では気温もさほど高くはない。だが地下二階の目的地からは、逃げ出した夏がそこに押し込められているかのごとく、高濃度に圧縮された空気が漏れ出している。
舌打ちをひとつ、鬼天は知らずのうちに、眉間に寄せた皺の下から吐いていた。あんな紙に書いただけのものが、土俵としてまともに機能するはずがないのだ。それに呼応するように、後ろでは桜大海がまた鼻を鳴らす。
無人であった事務所とは異なり、地下二階の扉はぴったりと閉ざされていた。
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