一ノ三、死んでいる生命
牙を剥いた少女たちが襲い掛かるのと同時に、鬼天は同じく跳躍して部屋の奥へと逃れる。それには一拍遅れた桜大海ではあったが、無駄のない対応を見せて次々と跳び来る少女たちを突き手で撃ち落していく。しかし床に叩きつけられた少女たちは痛みなど知らぬかのごとく即座に全身のバネで跳ね起きると、再び桜大海を襲う。その中には桜風部屋の妹弟子たちも混じっているせいか、夜虚綱の反撃も必殺の鋭さを欠いていた。
「なんなの、これ!」
珍しく困惑の色がついた桜大海の声を聞いて、鬼天は小さく笑む。夜虚綱ならば問題なくあしらえるだろうという信頼感もあってのことだ。だから技を鈍らせている心の乱れを取り除いてやるべく、疑問への答えを置いて、勇王山を追って壇上の奥へと向かった。
「死霊感染だ。未熟な死霊回路は本人の魂をも死霊にする。半霊半人の、
「バカなことを!」
否定したい気持ちで叫びながら、桜大海は襲撃者の一本の腕を取り、放り投げるべく力を加える。すると――ずぐり、湿ったものが引き裂かれる音がして、少女の片腕は肩から肘にかけて骨を露わにした。筋に絡んだ一部の肉が骨にこびりついて残っている。流れる血がやけに黒い。呼び出した死霊たちが死霊回路から溢れ出てしまえば、それは生者の魂を蝕む。心は平常の感情を失い、身は急速に腐敗してゆく。
驚きは油断を呼び、夜虚綱は肩に狂少女の鋭い爪を受けてしまった。土俵外の桜大海には筋肉と脂肪の鎧はない。むしろ細身とすらいえるその華奢な肩は、狂獣のような遠慮のない握力の中にあって、今にも千切れそうに見えた。
「グガアアアッ!」
喉元から獣の呻るような咆哮を迸らせ、獲物に喰らい付かんとまた別の少女が、動きの止まった桜大海へと飛び掛る。八方から迫る先鋭の爪牙を突き立てられるよりも早く、夜虚綱の掌底は彼女たちの顔や胸、腹などに、視認不可能なほどの速度で打ち込まれていく。
柔らかい肉の感触。少女だからではない。腐肉のそれだ。手応えの気持ち悪さに加えて、襲撃者の全細胞へと行き渡った衝撃は、少女を黒い泥のように変えて、桜大海の袖を濡らしながら床へと流れ落ちていった。
「半霊、半人、だって?」
呟きの怒りと、瞳の悲しみ。次々と若い取的の理器士たちを泥にしながら、桜大海はいまだ失神している残りの少女たちまでもが起きてこないことを祈っていた。その願いのとおり、全ての襲撃者を床にぶち撒き終えると、残りは静かな呼吸音のみとなった。自身の荒れた吐息を除いては平穏であることを確かめて、鬼天の去った部屋の奥に目をやる。
「まだそんなバカげたものを追ってたっていうの、兄さんは」
王鬼部屋が協会によって廃絶された過去を、桜大海は人づてにしか知らない。ただその原因が王鬼親方の死にあると聞いていた。半霊半人になった、という噂とともに。
■
まだ鬼天が大関から夜虚綱になったばかりのことだ。つい先日に協会から、夜虚綱に昇進させる旨の通知があり、それまで兄弟子の勇王山が担っていた
だから、王鬼師匠との付き合いは勇王山の方が長く、先に部屋頭であった分、弟子たちの中では鬼天よりも彼の方がまだ師匠の近くにいるという感覚がある。これからはそれも少しずつ変わっていくのだろうか。そんな予感と向き合いながら、そのときの鬼天仁太郎は、王鬼師匠と勇王山の会話を覗き見ていた。
偶然のことではあった。便所から自室に戻ろうとしたとか、そういう些細な理由で廊下を歩いていたとき、襖の向こうにある師匠の部屋から、兄弟子との話し声が聞こえてきた。それ自体は特に珍しいことでもない。
「身体のことはいいんです。自分でも分かっています」
勇王山の荒げた声など、年に数回もあるかどうか。聞き慣れない感情に、鬼天は兄弟子の身体になにか起きているのかと気になって、つい襖の隙間から覗き込んでしまっていた。
室内には王鬼と座卓に向かい合う勇王山の背が見えた。
「おまえが焦っているのは分かる」
師匠に言われ、勇王山は俯く。理器士として熟達を目指すのは当然だ。まして弟弟子に先を越されてしまったとなれば、なおさら。けれど鬼天の心には、申し訳ないというような気持ちは一切浮かんでこなかった。勇王山ならすぐにまた追いつき、そして追い越し返されてしまうだろう。むしろそんな切迫感に支配され、額に冷や汗が珠を結んだ。入門からずっと、自分の前にいた兄弟子が、これからは背後に迫ってくる。
「仁のことは、納得しています」
そうは応じていたが、師匠への勇王山のその言葉が、どこまで本心なのかは鬼天には推し測れずにいた。程度こそ違えど、王鬼もそうであったようだ。だがな、と返してから、このまま正面から訊ねていっても余計に頑なにさせてしまうだけか、と思い直したらしい。大きめにひと呼吸してから、座卓の上に身を乗り出して弟子の肩に片手を置いた。
「
怨動山も、所属部屋は異なっていたが、そのとき同じく大関であった。入門時期も大関昇進の時期も、勇王山とほぼ同じであった両者は、自他共に認めるライバル同士として、これまでに何度も土俵の上でぶつかり合ってきている。その勝敗もほぼ五分だ。
しばらくの間、師弟の前に沈黙が積み上げられていった。廊下の鬼天としては、自分の呼吸が聞こえてしまわないか心配になる頃になって、低く小さく勇王山が声を出した。
「
「いつもの薬だろ。知ってるだろ、俺が心臓悪いのは」
勇王山の肩に置いた手で軽く何度かたたいて、王鬼はそれを自分の元へ引き戻した。
「あんなに周りを気にして受け取るような物なんですか」
「そんなに気にしてたか」
「じゃあなぜ、あんなことを市間さんに言ってたんですか」
「あんなこと?」
問い返されて、勇王山は顔を上げた。正面から王鬼の顔を見て、過去に師匠の口から発せられた言葉をそのまま師匠の耳に入れた。
「弟子たちや他の親方たちには見られなかっただろうな」
そう言ってましたよね、と悲しげに勇王山は続けてから、口を閉ざした。
再びの沈黙は短かった。それから何があったか、鬼天は今もまだ記憶している。勇王山が引退を宣言したのは、ほどなく後のこと。そして間もなく王鬼親方が死亡し、王鬼部屋は協会によって廃絶され、それを機に鬼天は理器士を引退したのだった。
■
円根宗の地下二階、その奥の部屋は、前室とは打って変わって壁も天井も床も剥き出しのコンクリートのままだった。教義を表しているはずの、円を墨書した紙は見当たらず、代わりに四本のポールが立ち、それらの間に荒縄が張り巡らされている。ポールの上中下と三段にされた荒縄には
「方形土俵は珍しいか、仁」
「これが土俵?」
その空間を眺めていた鬼天に、楽しげに勇王山は話しかける。部屋の隅に弟子の身体を放り捨てるように片付けて、自身は注連縄の一段目を持ち上げ、二段目を跨いでその中に入った。片手をポールの頭に置いて鬼天に向けた頭には、それまではまとめた長髪であったものが魔解と成っている。猛々しく広がった大畏弔だ。着物をはだけると、隆々とした筋肉がうねる腕と、たっぷりと張った胸と腹が露わになる。
「土俵だ。
「
「来い。本当の死霊の使い方を教えてやる」
「その前に、なんだって円根宗なんてものを始めたのか、教えてもらいたいね」
鬼天には、勇王山が引退後しばらくどうしていたかの情報が無い。そのあと王鬼師匠の葬儀に参列した鬼天は、遠くから棺を眺める兄弟子を久しぶりに見たが、その姿はすぐに消えてしまった。まるでその態度は、師匠の棺が空だということを知っているかのようだと鬼天には思えた。それからほどなくして、引退して事象予報士になることを決めた鬼天は、事務所の開設のために知人などと話す際に、勇王山についても訊ねてみるようにしていた。やはりというべきか、市間内郎と一緒に居るのを見かけたという話があった。
「俺は見たんだよ、武兄さん。あんたが
「何の話だ」
「市間内郎の話さ。奴から何を貰っているのかと訊いたあんたに、
「そのことか。あれは未完成のものだった」
「未完成? だから兄さんは引退したのか?」
王鬼は、市間から貰っていた薬について秘密にする代わりに、勇王山にもそれを渡すことを約束していた。それからあと、勇王山は土俵では負けることが無くなり、夜中には安眠することが無くなった。毎晩、呻り声が聞こえ、それから何事か呟きながら廊下を歩き回る。外に出て行くこともあった。そういうときはいつも、手や顔を泥で汚して帰ってきていた。睡眠の不調はやがて、昼にも影響を及ぼし、体調の悪化を理由に勇王山を引退させることになった。大関にまでなった男だ、親方になって協会に残る選択もあっただろうけれど、そのまま兄弟子は協会を抜けて、行方をくらました。
「昔の話だ。今となっては、あの苦しみにも懐かしささえある」
「それから何をしていたんだ? ずっと気になっていたんだ。
「それで?」
勇王山は自らの横腹を叩いて、ばすんと鳴らしながら退屈そうに聞き返した。
「我輩はここだ」
もうひとつ、ばすん。自己の存在を誇示するように。
「問いたければ、来ればいい」
長い長いため息が鬼天の口から零れ落ちた。細身の黒スーツ、そのジャケットを脱いで足元に落とす。何年ぶりになるか、勇王山と同じ土俵に立つのは。歩み寄り、兄弟子と同じようにして注連縄をくぐり、その中に入った。
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