第8話 告白ー由紀sideー①

「ちょっといいかな?」

放課後、ピアノを弾いていると、見たこともない女子が音楽室の扉から顔を覗き込んできた。

「はじめまして。私、2年5組の望月理央っていいます」

その女子は、俺が答える前に入ってきて勝手に自己紹介を始めた。

「え…?」

「あのね、君に相談があるんだ」

俺の戸惑いなどお構いなしにガンガンくるその女子を、『苦手』と感じるのにそう時間はかからなかった。

「瀬乃くんって高草木くんと仲良いよね?単刀直入に聞くんだけど、彼女…とか、いたりするのかな?知ってる?そ、そりゃいるよね!?あんなにかっこいいもん!いない方がおかしいっていうか!?あっ逆に高嶺の花すぎて誰も手が出せない的なこともありえるのかな!?ありえるね!遠くから見てるだけで照れるもん!」

ものすごいスピードで捲し立てられ、反論する隙もない。

「あっ!?ごめんなさい!私、すぐこうなんだ…心の声がだだ漏れっていうか…」

戸惑っている俺にやっと気づいたのか、その女子は黙ってうつむいた。顔を真っ赤にしている彼女を見ると、本当に桜が好きなんだとわかる。

「……えーっと…とりあえず、桜に彼女はいないと思うけど」

俺に好きとか言っちゃうくらいだし…。最初は何を言ってるんだと思った。怒りが湧いた。けど、そのあとは………

「えーーっ!!それって本当なの!?」

思い出している途中で、耳を劈くような大きな声を出される。無意識に顔を歪めてしまうと、慌てて謝ってきた。

「あ、ご、ごめんなさい……でも、本当に本当?」

泣きそうな顔をした女子は俺を縋るように見てくる。

「本当だよ」

「あ~!よかったあ…!」

女子は俺の言葉を聞いて、膝から崩れ落ちて床にへたり込んだ。そこまでか…?

「大丈夫?」

一応歩み寄ってしゃがみ、手を差し出す。

「教えてくれてありがとう…!でさ…もしよかったらなんだけど…」

女子は俺を無視してすぐ立ち上がって俺を見下ろし、真剣な表情のまま少し顔を赤らめた。

「協力…してくれないかな?」

「え………っと……」

行き場のない手を引っ込め、立ち上がって言葉を探す。意味はわかる。だけど、すぐに言葉が出てこない。何て言えばいいんだろう。この人は何て言ってほしいんだろう。俺は何て言いたいんだろう。

「い…いよ……」

この掠れた声が自分だと気づくのに時間がかかった。気づいた時にはもう、瞳を涙で潤ませながら喜ぶ女子が俺に抱きついていた。

「うわ!…やめっ」

「ありがとう!本当にありがとう!王子くんってとってもいい人だったんだね!好きになりそう!ならないけど!」

褒められたことより耳元で大声を上げられてうんざりしていると、なんだか心臓が痛む気がした。

というか…

「王子ってなに…?」

「え!?瀬乃くんのあだ名?」

「いや言われたことないけど」

「なるほど…女子が陰で呼んでるだけか…でもいいよね?王子ってかっこいいし」

「うわっ!誰だ!?」

かっこいいからいいよねの意味がわからないし、すぐにやめろと言う前に、いつの間に音楽室に来ていた桜が、俺ら二人を見て怪訝な顔をしている。

「きゃ!たたっ高草木くん!」

女子はパッと俺の身体から手を離して、俺の後ろに隠れる。

「はい高草木ですけど」

「ひゃ~!王子くん!高草木くんが来るなんて聞いてないよ~」

背中をバンバン叩かれる。あんまり痛くはないものの、腹は立つ。

「ああ俺も聞いてない。由紀に彼女がいるなんて」

怒った顔の桜が腕を組みながら、怒気の込もった声を出す。

「ちが」

「ちっがうよぉ!王子くんとはついさっき初会話を済ませたばっかりで、ただの顔見知りっていうか、協力者?とにかく付き合ってなんかないから!私の好きな人は別にいるから!誤解しないで!誰に誤解されても高草木くんだけにはされたくないっていうか…あ!これって大胆発言かな?」

俺の言葉を遮ってマシンガントークがはじまる。あんたが否定したって逆効果だろ。

「出てるよ」

小さい声でつぶやいてやる。

「あっ!?また出てた!?ご、ごめんなさい!今日は帰ります、さよなら!王子くんまた明日ね」

嵐のような人だった…。どっと疲れて椅子に座ると、桜が近づいてきた。

「なんだよ今の。由紀が一番苦手そうなタイプじゃん」

「よくわかったな…すこぶる苦手だ」

じゃあなんで?と眉根を寄せた桜にこっちが聞きたいよと言う。押しに負けたとでも言うべきか…。それにしても凄いことを口約束してしまった気がする。


次の日の放課後、音楽室に向かう途中でばったり会ってしまった。

「あ!王子くんおはよう!望月だよ!」

「………」

「朝でも夜でもおはようがイマドキのトレンドなんだよ!もう一回名乗ったのは忘れられてそうだったから!」

「はぁ……」

「もう!そんな顔しないでよー!」

どんな顔かは鏡を見なくてもわかる。出来れば会いたくない人に奇跡的なタイミングで会ってしまったときの顔だ。まあ正直名前は忘れていたけれど…。

「…また来るの?」

「あ、うん!行くつもりだった!いろいろ相談したいし」

ピアノを弾く時間を削ってまで昨日今日知り合った奴の相談に乗るなんて…。俺にはそんなお人好しな真似できない。

「悪いけど、俺やりたいことあるから」

「じゃあそれが終わったらは?なんなら土日でも!王子くんの都合に合わせるから~!お願い!」


「どうしてこうなった」

「それ俺のセリフなんだけど!部活後に聴く由紀のピアノが毎日の楽しみだったのに!なんで弾かないだけじゃなくこの知らん子までいるのさ!」

「あ!望月理央です!」

とりあえず自分が満足するまでピアノを弾いて、そのあと望月さんを音楽室に入れていざ相談をはじめようとした途端桜が来てしまった。そして今からピアノは弾かないから帰ってくれと言ったらこのザマだ。

「じゃあ適当に弾いてるから適当にしゃべっててよ」

もう考えるのも面倒になってピアノと向き合う。ホッとする。人間もピアノぐらい素直でホッとできるような存在だったらいいのになあ…。気を遣って少し小さめに弾いているのに話し声が聞こえない。たまに望月さんの声がするけれど、桜がそれに答える声が聞こえない。不思議な気持ちになりながら一曲弾き終えると、いつもの馬鹿みたいに大きい拍手が聞こえた。

「あ~!やっぱ最高だな!」

振り返ると桜が満面の笑みを浮かべている。その横で望月さんは顔を伏せて震えていた。

「ちょっと来て」

望月さんが立ち上がったと思うと俺の腕を掴んで部屋の外に連れ出した。

「私のライバルってあなたかもしれないね」

「え…?」

「高草木くん、ずっと瀬乃くんを見てたよ?真剣に。私の声なんて、全然届いてなかった」

震えていて、今にも泣きそうな掠れた声。目は潤んでいて、鼻が赤い。

「私のことからかってたの?2人はもうラブラブなのに、私に見せつけて笑ってたの?」

「違うよ!桜は俺の演奏が好きなだけだよ!大体男同士でラブラブって…意味わかんないだろ」

全部自分で言った言葉なのに、全部が重く突き刺さった。俺の胸の大事で繊細なところを、土足でぐちゃぐちゃに踏み荒らしてしまったような気がした。

桜は俺の演奏が好きなだけ。男同士なのに好きとかありえない。

ちょっと考えればすぐわかる簡単なことだ。俺は一体何を望んでいたんだ。

「そ…そうなの?」

「そうだよ。応援するから、桜を幸せにしてやって」

「そっか…そうだよね!男同士だもんね!ごめんね、勘違いしちゃって!気持ち悪いよね!」

「気持ち悪いから、もうやめてくれよな」

俺の中の何かが失くなった気がした。とても一言じゃ表せない何か。悲しいはずなのに涙は出ず、全ての表情が死んだみたいだ。俺は何をしているんだ…?

「おいおい2人で何話してたんだよ怪しいな~!」

部屋に戻ると、桜が俺を見ながら言ってくる。頭が働かずに何を言おうか考えられないでいると、望月さんが間に入って話し始めた。

「別に何でもないよ!それよりこれからなんか食べに行かない?3人で!」

「は?嫌だよ。俺あんたのこと知らないし」

「知るためにだよ!私も高草木くんのこともっと知りたいんだ」

「ごめん!俺、急用思い出したから帰る!」

桜の肩に手を置く望月さんを見た瞬間、頭が真っ白になって勝手に口が動いていた。2人ともきょとんとした顔でこっちを見ている。俺はそのまま荷物をすぐにまとめて音楽室を飛び出した。気づいてしまった。遅すぎた。気づきたくなかった。

校門を出たところで速度を緩める。苦しい。文化系の人間が全速力で走るなんて自殺行為だ。…苦しい。この苦しみが、本当は走ったせいだけじゃないことももうわかってしまったけれど、目を背けた。背けるしかなかった。

…苦しい。


「おはよ」

「うわ!なんで…」

翌日。学校に行くために家を出ると、不機嫌な桜がいた。

「なんなのさ、昨日の」

「……行ったの?2人で」

「行かないよ。一緒に帰りはしたけど。ていうかこっちの質問に答えてほしいんですけど」

モヤモヤする。自分が仕向けたのに。

「気ぃ遣ってくれたんだよって望月さんに言われたんだけど。なんで由紀が気ぃ遣う必要があんの」

“望月さん”か…。

「…………」

言えない。言えるわけがない。俺は望月さんと桜、どちらも傷つける選択をしてしまったんだ。そのことに今さら気づくなんて……遅すぎる。俯いて黙りこくっていると、溜息が聞こえた。

「…わかった、もういいよ」

「えっ」

顔をあげると、すでに背を向けた桜が学校に向かって歩き始めていた。

呆れられた…?

視界が歪んで、桜の姿がぼやける。鼻がじんわりと痛くなって、熱い何かが頬を伝った。唇を噛んで必死に止めようとするが止まらない。息が乱れて顔が熱くなる。いつからこんなに弱くなった?最近泣いてばかりじゃないか。…でも、これが俺の選んだ道なんだ。俺には桜を引き止める資格なんて、ないんだ。


「王子くん!聞いて聞いて!」

音楽室でピアノを弾いていると、望月さんが勢いよく飛び込んできた。

「今日高草木くんに話しかけられちゃった!昨日は失礼な態度取ってごめん、これからよろしくって!これどういう意味かな?仲良くしてくれようとしてるのかな?」

今朝覚悟はしていなきゃいけなかったのに、喉の辺りに大きいものが支えたみたいに声が出ない。

「だったら嬉しいな~王子くんはどう思う?…あれ、王子くん?」

「あ、ああ…そうだね」

「だよね?やったー!」

なんとか声を絞り出して会話を続ける。

「用はそれだけ?」

「違う違う!相談したかったんだー結局出来てなかったでしょ?高草木くんのこと、いろいろ教えて!好きなこと好きな食べ物なーんでも!」

望月さんは楽しそうな笑顔で問いかけてくる。今さら協力したくないなんてとてもじゃないけれど言える雰囲気ではない。

「…俺もそんなに詳しくないけど、好きなことはやっぱりバレーかな…?好きな食べ物は……この前はハンバーグを…」

言いながら思い出す。あの時の桜の顔、声、言葉を…。やっと桜の壁を壊せた…そんな感じがして嬉しかったのに。あの日のことを思い出していたら、じわりと視界が歪んだ。

「王子くん?」

「な、なに?」

ハッとして急いで涙を引っ込めようとするが、そう簡単にいかないので望月さんに背中を向ける。

「えっ、どうしたの?」

「それより!望月さんは、なんでそんなに桜が好きなの?」

不思議に思われることを覚悟の上で、あからさまに話題を変える。

「え?うーん…王子くんには言ってもいいか…。あれは1年生の4月のことでした…。先生に頼まれてクラス全員の提出物を集めなきゃいけなかったんだけど、まだ友達もいなくて何て声かけていいかわかんなくて教卓のところで困ってたんだ。そのとき遊びに来てた高草木くんが、違うクラスなのにどうかした?って聞いてきてくれて…話したら高草木くんからクラスの人たちに大きな声で言ってくれたんだ…。たったそれだけ?って思うかもしれないけど…優しくてかっこいい人だなって思ったの。それで気づいたら大好きになってたっていうか」

「………」

この人は他の人とは違う。桜の外面だけじゃなく、ちゃんと内面を見て好きになっているんだ。しかも女子だし、俺よりよっぽど桜を好きになる資格がある。

「ちょっとぉ!恥ずかしいから何か言ってよぉ~!」

黙っていると、真っ赤な顔の望月さんが俺の肩を掴んで前後に揺らしてくる。

「あ、ごめん……」

「私ね…高草木くんが幸せになってくれれば、そこに私がいなくてもいいと思ってた。でも今は…できれば、高草木くんと一緒に幸せになりたい」

そう言う望月さんの横顔は恋する女子そのもので、キラキラと輝いて見えた。

「あっそうだ!今度の土曜日、うちの体育館で他の学校と練習試合があるんだってね!よかったら見に来てって言ってくれたんだ」

「え…」

そんな話は初耳だ。俺じゃなく望月さんを呼ぶのか…。そりゃそうだよな…俺が桜の立場だったらそうする。それなのに、頭ではわかっているのに、悔しくて辛くて堪らない。どうして俺じゃないんだろう?と自分勝手で惨めな思いが溢れてくる。

「王子くんも高草木くんから聞いたでしょ?一緒に行こうね!」

「いや、俺は…」

何も聞いてない。

「あっ何か予定あるの?残念~」

俺が桜に嫌われたことは考えもついていないのだろう。望月さんは勝手に解釈したようだった。

「はちみつレモン用意しようかな~高草木くん苦手じゃないよね!?」

「…たぶん」

「ありがと~!王子くんに相談相手になってもらえてよかった」

「いや、俺何も言えてないけど」

「そんなことないよ!話聞いてもらえるだけでもすっごく助かってるんだから!」

俺がどんな気持ちか知らずに、望月さんは何の疑いもない笑顔で俺を苦しめてくる。…いや、望月さんは何も悪くない。ただ真剣に、恋をしているだけだ。望月さんを憎むのは筋違い。…でも、俺はどうすればよかったんだろう?何を言えばよかったんだろう?今さら考えても答えの出ない問いを、考えていた。


土曜日…。俺は学校に来てしまっていた。桜の人気なのか女子が結構いて、早くも居心地が悪い。

「王子?」

試合開始までまだ時間があるので、音楽室で時間を潰そうかと思った時、聞き覚えのある声がした。

「やっぱり王子だ!来てくれたんだな~」

「納地…おまえもそのあだ名使うのか…」

体育館の方からユニフォーム姿の納地が手を降って走ってきた。

「あっ!つい!不快ならもう言わない」

「いや、別にいいよ何でも」

“ゆき”以外なら…。

「そっか…ならよかった。あ、桜呼んでこようか?」

納地は体育館に向かって歩き出す。だが今桜に会っても、どんな顔でどんな声でどんな言葉を紡げばいいのかわからない。

「やめろ!」

頭の中でグルグル考えてもまとまらず、気づいたら納地の腕を両手で力強く掴んでいた。

「え…何かあったのか?」

「あ…ごめん、いきなり怒鳴って掴んで……納地は親切で言ってくれたのに…」

手を離して俯くと、笑い声が聞こえてきた。

「なんか変わったよな、瀬乃」

顔を上げると、優しい顔をした納地が俺を見ていた。

「前はもっととげとげしい雰囲気でさ…誰も近づけなかったのに、今じゃ素直に謝れるし」

「バカにしてるのか…?」

「ははっ違う違う」

まあ思い返してみると、納地はそんな俺にも他の人と変わらず接してくれた。席が隣になった時によろしくとか、毎朝おはようとか、簡単な挨拶だけど、他の誰もしてくれなかったことだ。

「俺が変われたのは、桜のおかげ…だと思う」

俺が言うと、納地は特に驚いた様子もなく口角を上げた。

「高草木くん!今日はがんばってね!いっぱい応援するから!はちみつレモン持ってきたけど今食べる?あとでにする?」

聞き覚えのある声がした方を見てみると、桜と望月さんが一緒にいた。傍から見ると、彼氏と彼女にしか見えない…。

「あーあのさ…何があったか知らないけど、俺にできることがあれば何でも言ってくれよな。桜のスパイぐらいやるからさ」

納地は人差し指を唇に当てながら、悪戯を企む子どもみたいな笑顔でそう言った。俺もつられて笑って頷く。と同時に、体育館からそろそろ試合を開始すると声がかかる。納地と別れて、試合がはじまってから体育館に入る。女子に囲まれながら試合をする桜と納地の姿が見えて、桜が点を決めると女子たちが一斉に黄色い声を上げた。でもなぜだろう…桜が怒っているように感じるのは?

それから試合が終わり、「おめでとう!かっこよかった!」と笑顔の望月さんが桜に駆け寄るのが見えて、そのまま俺は誰とも話さず学校を出た。


「あっ王子……瀬乃!」

廊下で呼び止められ振り返ると、納地が怪訝な顔をして立っていた。

「おまえ、いいのかよ?最近桜のやつ、あの女子と一緒にいるみたいだぞ?」

噂には聞いていた。桜は格好良くて目立つから、そういう情報はあちこちで女子たちが話している。彼女ができたらしい、と。相手は5組の望月さんらしい、と。

「そうみたいだね。付き合ってるの?」

「いや、俺もそこまでは…。なんとなく聞きづらいし……ていうか瀬乃は、なんとも思わないの?」

「…別に、幸せになってくれればいいと思うよ」

「ふーん?…てことは桜は片思いだったってことか…?いやでも……」

納地は眉根を寄せて考え込んでいるようだった。

「え?」

「あいや!なんでもないよ、こっちの話。ほんじゃな」

「あ!」

自分の教室に入っていってしまった。まさか違うクラスの教室まで行って呼び戻すこともできず、モヤモヤしたまま俺も自分の教室へ向かった。

もちろん授業に集中できるわけもなく、放課後ピアノを弾いていても気持ちは落ち着くことがなかった。こんなことは初めてだった。どんなときでもピアノを弾けば嫌なこと苦しいこと、全部忘れられた。なのに………

「あ!王子くん、お久しぶり~」

声がした方を見ると、音楽室の扉から桜の腕に自分の腕を絡めた望月さんが、空いている方の手を振っていた。望月さんは幸せそうな笑顔だった。

「うっ…」

瞬間、眩暈がして倒れこむ。最後に見たのは……俺の名前を呼びながら駆け寄ってくる桜だった。


「…ん……」

「大丈夫かっ、由紀!?」

目を開くとすぐに桜の声がした。ゆっくり見ると、心配そうな顔をした桜がすぐそばにいる。どうやら保健室のベッドに寝かされているようだ。

「先生さっきまでいたんだけど、急用で今ちょっと出てるよ。なんか大きい怪我した人がいるらしくて」

桜に背中を支えられながらゆっくり起き上がると、ボトッと手の甲に何かが落ちる感触がした。途端、桜が慌てる。

「えっえっ!?どうしたんだよ?」

言っている意味がよくわからず手の甲を見ると、さらにボタボタとこぼれる…自分の涙だった。

「え…?なんで俺、泣いてるの…?」

「いやこっちが聞きたいわ!」

桜が不安そうな顔のまましっかりツッコんでくる。そんな姿に思わず笑ってしまうが、桜は泣きながら笑い始めた俺を見て複雑な顔をした。

「……ごめん…たぶん、久しぶりに話したから……ちょっとホッとしたんだと思う…」

少し支えながらも素直な気持ちを言葉にした。自然と笑顔になる。そうか…俺はピアノよりもホッとする場所を見つけてしまったのか…。

「………るな」

「え?」

「ふざけるなよ!なんなんだよそれ!」

桜が凄い形相で叫ぶ。驚いて一瞬、息が止まる。

「意味わかんねぇよ…俺、おまえの気持ちが全然わかんねぇ!望月さんをあてがって俺のこと突き放したくせに、なんだよその涙!なんだよホッとしたって!」

叫びながら桜も涙を流し始める。俺の言動でこんなに桜を苦しめていたのか…桜にこんな顔をさせてしまったのか…。

「俺の気持ち知ってんだろ!?…………おまえって…残酷な奴だ…」

そう言うと桜は保健室を飛び出して行ってしまった。とても自分の気持ちは言えないし、声をかける資格すらない。ただ背中を眺めることしか、俺にはできない。

『いいのかよ?』

頭の中に納地の声が響く。

「いいわけない」

素直に頭の中の納地に答えると、涙は勢いを増した。

「いいわけないけど…もうどうしたらいいか……わかんねぇ…」

このまま桜と望月さんを応援し続ければ桜を傷つけることになるが、桜に自分の気持ちを伝えたら望月さんを傷つけることになる。

「どうしたらいいんだよ…!?」

答えなんてないのはわかってる。それでも声に出さずにいられなかった。声に出すことで少しでも楽になりたかった。

静まり返った保健室に、俺の鼻をすする音だけが響いた。

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