第6話 合唱祭ー由紀sideー
「次は伴奏者を決めたいんだが…経験者いるか?」
担任が指揮者を決めたあとでそう言った。その目には明らかに俺が映っている。
『俺、指揮者に立候補する。そしたら課題曲一緒に練習できるだろ?』
桜の言葉が繰り返し頭に浮かんでくるし、担任も見つめてくるし、他に立候補するやつもいないし…。俺は覚悟を決めた。
「え!由紀、伴奏者になったの!?俺も指揮者になれたよ~」
放課後。クラスでの歌練が終わり、部活も終わった時間。音楽室にやってきた桜に告げると嬉しそうな顔で俺を見てきた。いやいや、ここで指揮者にならなかったと言われたらぶん殴るところだったぞ。
「やった~!一緒に練習できるな!あ、もう練習してんの?つか、音楽室には来てんだね」
「ああ、練習はしてる。まあ家に帰ってもすることないし、ピアノは癖…みたいなもんだから。合唱祭終わってもここには来ると思う」
素直にそう言うと、桜はニヤニヤした顔を向けてきた。
「いや~俺ぁ由紀にはピアノが本当に似合うと思うんだ。ニコイチってやつよ」
ウザいテンションの桜を無視して、課題曲の練習をはじめる。
「あー!一緒に練習しようって言ってんのに!」
仕方なく手を止めて、目だけで指揮をはじめるように促す。桜は少し緊張した面持ちで、指揮すんのはじめてだから、と前置きしてから両腕をあげた。
途端、空気が変わる。
俺自身、指揮のある演奏はほとんどしたことがない…ということを差し置いてもこの感じは……。
「うわ~なんだこれ…すっげえ興奮した……。あ!いや、変な意味じゃなくて…」
桜の声で我に返り、そこではじめて演奏が終わっていることに気づいた。手にまだピリピリとした痺れが残っていて、顔が熱い。鼓動も走ったあとの様に速い。
「……俺も」
「え?」
「俺も…興奮、した」
「………っ!」
桜は俺の言葉をすぐには理解できなかったのか、少ししてから顔を赤くした。
「て…照れるな、なんか……」
頭を掻きながら視線を泳がせる桜。好きだと告げる時でさえ顔を赤くしない桜が顔を赤く染めているのは新鮮で、つい顔が綻びる。
「笑うなよ…」
「ふっ…ごめん…」
「もー!笑うなって!」
そのあと何度か課題曲を練習してみても、やっぱりいつの間に終わっているような疾走感や興奮は続いた。
「そういや由紀のお母さん、伴奏者やるのよく許してくれたよな」
「は?なんで母さん?」
「あー…実はこの前、由紀が風邪引いてた時、お母さんと会ってちょっと話してさ…厳しそうな人だったから」
「そうだったんだ……まあ、言ってないけど…」
練習が終わって、日が短くなり肌寒くなってきた11月初めの夜道を、二人で並んで歩く。
「え!?大丈夫なのかよ?」
桜は一度歩みを止めて俺の顔を覗き込んでくる。
「別に……ピアノやめることもまだ認めてもらえてないし…」
「余計ダメじゃん!」
桜の目を見ずに下を向いて小さくつぶやき、早足で前を行く。すると後ろから桜の呆れたような声がする。…仕方ないじゃないか。俺が父さんのことを言ってしまったあの日から、母さんとはなんとなくギスギスしてしまって上手く話せないでいる。
「俺ん家……」
「ん?」
走って追いついてきた桜は、俺の小さなつぶやきに反応してくれる。
「俺ん家、父さんがいないんだ。病気で……あ、しんみりとかしなくていいからな!もう10年前の話だし…それから母親は俺に厳しくするようになって、こんな風にすぐ顔が赤くなんのも、昔母親に怒られたのが原因で…」
俺は10年前のピアノの発表会を思い出す。前から本番に弱いタイプだった俺が、練習の時より何倍も上手く演奏することができ、聴いた人は口々に賞賛の声を浴びせてきた。しかし、母さんだけは違った。人がたくさんいる前で、冷たい瞳と冷たい声で、俺を罵倒した。当然褒められると思っていた俺は、恥ずかしさやら悔しさやらで顔が熱くなった。元々引っ込み思案で人と関わるのが苦手だった俺はそれ以来、褒められたり注目を浴びたり失敗したりすると特にひどく赤面するようになった。
今思い出しただけでもカッと熱くなるのを感じる。
「そっか………きっとお母さんも必死だったのかもな…女手一つで育てるのに甘やかしちゃいけないと思って…………んじゃ、見返そうぜ!」
「え…?」
見返す?どういう意味かと聞く前に桜が走り出した。
「ちょ!?なんで走るんだよ!」
「なんとなく!そんな気分!」
訳のわからないことを言いながら、桜はどんどん離れて行く。俺も必死になって走って追いかける。時々振り返る満面の笑みの桜は、民家から漏れる淡いオレンジ色の明かりに照らされて、輝いて見えた。
風呂から上がり、タオルで髪の毛を乾かしながら部屋に入る。ちょうど開きっ放しになっていた窓から秋らしい涼しい風が入ってきていて、俺の火照った身体を冷やしてくれるようだった。
「もう秋だな…」
ベッドに座って窓から外を覗いてみる。閑静な住宅街で何も見るものはないのだけど。
「うわ」
コツコツとハイヒールの音を響かせながら、母親が歩いてくる姿が見えた。俺はなんとなく気まずくて、急いで部屋の電気を消して寝ている風を装った。チラリとこちらを見た気がしたが、気のせいか?
「あら?貴方…」
母親が家の前で止まる。家の前に誰かいるのだろうか…もう12時になるというのに。顔を見られないように注意しながら窓の下、玄関を見てみる。
「は……なんで…?」
そこにいたのは桜だった。いつからいたんだ…?何のために?次々と疑問が浮かんでくるが、じっくり見て母親にバレるのも嫌なので、すぐに引っ込む。
「夜分遅くにすみません。どうしても直接お話したいことがありまして…」
「なにかしら?由紀の風邪は治った筈だけど」
俺が戸惑っていることも知らずに、二人は会話を始めている。閑静な住宅街であることと、窓が開いていることもあり、二人の会話は俺の耳に届いてきた。
「もうすぐうちの高校で合唱祭があるのはご存知でしょうか?」
桜の声で聞き慣れない敬語が聞こえてくる。桜も使い慣れていないのか、どこかぎこちない。
「へぇ、そうなの。それで?」
「そこで、由紀はクラスの伴奏者を担当しています。それを…由紀がクラスのために弾くピアノを、聴いてほしいんです。ぜひ、来てほしいんです」
桜は少し苦しげな声を出した。母親の声はしない。驚いているのか、それとも呆れているのか…。窓から顔を出すわけにもいかないので、表情がわからない。なんで桜がこんなことを言ったのかもわからない。頼んでない。いつまでも続きそうな長い沈黙を破ったのは、母親だった。
「……わかったわ」
驚くほど素直に返事をする。意味を理解するのに少し時間がかかる。
「……………え……ほ、本当ですか!」
やっと理解したとき、同じタイミングで理解したのか桜が口を開く。
「ええ、わかったから大きな声出さないでちょうだい。それにもう夜も遅いから早く帰りなさい」
母親の声が途絶えたかと思うとガチャガチャと玄関の鍵を開ける音が聞こえる。窓からそっと覗いてみると、背を向けた母親に頭を下げる桜の姿が見えた。なんで桜はあんなことを言ったのか……なんで母さんはわかったと言ったのか…?俺は一人では到底答えの出そうにない問いをぐるぐる頭で考えていたら、いつのまにか眠っていた。
あっという間に合唱祭の当日が訪れた。あの日聞いたことについて桜にも、母親にも聞いていない。そして二人からも話そうとはしてこなかった。
「いよいよだな!」
会場に着いてから、クラスが違うにも関わらず、桜が駆け寄ってきてそう告げた。学校の体育館だと狭いため、わざわざ市民会館を使っての合唱祭である。
「そうだな」
「緊張してどうしようもなくなったら、俺を見ろよ。あと、伴奏者賞獲れよな!」
声は冗談めかしてるのに、顔は真剣だった。
「…そっちこそ、指揮者賞獲れよ」
お互いに健闘を祈りつつ、クラスでの練習をするために別れた。
しばらくして合唱祭がはじまり1年生から順に歌っていく。緊張していると、他のクラスの合唱なんてちっとも耳に入ってこない。自分のクラスの番が刻刻と近づいてくる。その時、隣の席の女子がキャッと声を上げた。
「高草木くんだ…」
「かっこいいね~」
桜が客席にお辞儀をした後、背を向けて手を上げる。桜の合図でクラスの全員が一斉に足幅を広げ、桜の合図で流れ出したピアノの旋律に歌が乗る。…確かに、かっこいい。
「……くん?…瀬乃くん!」
肩を揺らされ、やっと自分が呼ばれていることに気がつく。
「3組の発表終わったからリハーサル行くよ!」
くじ引きで決まった順番で、俺のクラスである2組は3組の次の次だ。もう本番か…。
「…ごめん、今行く」
膝の上に乗せていた楽譜を握りしめて立ち上がった。
リハーサル室に入ると、ちょうど前の1組が慌ただしく出て行った。2組の人たちも慌てて正位置につく。1秒でも長く練習をして安心したいのだろう。俺もピアノの前に座り、何回も練習してほとんど覚えている楽譜を広げる。指揮者の手に合わせてピアノを弾く。
「2組さんリハーサル終わりです!舞台裏にスタンバイお願いします!」
案内役の教師が、時計を見ながら大声を上げる。クラス全体が今までで一番良い出来だったことに歓喜しつつ、舞台裏へと急ぐ。
「さっきのめっちゃよかったよね。でも本番はもっといい演奏しようね」
指揮者の女子が小声でクラス全員に伝え、士気を高める。誰かがしようと言い始める前に、自然と円陣が作られた。
「絶対優勝するよ」
「おー」
舞台裏なので小声だけれど…それぞれ顔を見合わせ、笑顔を浮かべる。大丈夫。きっと大丈夫。一人で固い表情をしていると、クラスの中心的な男子が肩を叩いて、小声で頑張ろうなと言った。俺は自然と笑って頷く。
その時、観客席から大きな拍手が沸き起こる。前の1組の合唱が終わったようだ。続いて俺たちがステージに上がる。みんな少し表情が固い。しかし、指揮者が台に上がってにっこり笑ってみせると、他の全員の表情も笑顔に変わる。俺も落ち着いた気持ちで鍵盤に手を乗せ……ようとしたところで気づいてしまった。…母親だ。客席に母親がいた。見間違えるはずがない。なんで…。発表がなかなか始まらないので客席がざわつき始めた。そこでハッとして顔を上げると、指揮者やクラスのほとんどが心配そうな顔で俺を見ていた。俺はごめんという気持ちを込めて小さく頭を下げ、はじめてどうぞと手振りする。それを見て少し口角を上げた指揮者が手を上げた。はじまった指揮に合わせてピアノを弾く。大丈夫。リハーサルの演奏だってあんなに上手くいったんだ。大丈夫。
「…あ」
声が思わず飛び出る。周りの誰にも聞こえないような声だったが、言ったときにはもう遅い。サビに向かう大事なところで………俺は音を外した。サビに入った時の歌声が微かにズレる。俺のせいだ…!早く伴奏をはじめなきゃと思うのに、手が震えて動かない。どうしよう。そう思っている間にもどんどん歌は進んでいく。
『緊張してどうしようもなくなったら、俺を見ろよ』
ハッとして座席の方をを向くと、桜が立ち上がって俺を見ていた。じっと見ていると、桜の口が「大丈夫」と動いた。不思議とすぐに落ち着いた。桜はいつも俺を落ち着かせてくれる。伴奏を再開させる。
「なに、さっきの演奏は?」
クラスの人にそう言われると思っていたのに、みんなは笑顔で「よかったよ」と言ってくれた。火照った顔に外の空気を浴びせたくてホールを飛び出すと、ロビーのソファーに座った母親が足と腕を組んで俺を睨んだ。
「なんでいるの」
「こっちの質問にまず答えなさい。なんだったのよ、さっきの演奏は?恥ずかしくないの?」
10年前のあの日がフラッシュバックして、カッと顔が熱くなる。見られたくなくて下を向いたまま黙っていると、母親の大きなため息が聞こえてきた。
「やめるって言い出してからまだそれほど経っていないのに、こんなに腕が落ちたの?今まで応援してくださった方々に顔向けできないわ」
悔しいが言い返す言葉がない。あんなに練習したのに、あんなに頑張ったのに、足りなかったのか…。結果が伴わなきゃ何の意味もないのに、ずっとピアノをやってきたのに、いろんな舞台に立ってきたのに…。
「由紀を悪く言わないでください!」
怒った声を出したのは、いつの間に後ろにいた桜だった。
「由紀は……たっくさん練習してた…間違えることなんて誰にでもありますし…」
「経過なんて関係ないわ。結果が全てよ」
桜の言葉を遮り、ソファーに踏ん反り返ったまま、母親は桜を睨んだ。…出た。母親の口癖だ。10年前口答えしたときも全く同じことを言われたし、それからも舞台で失敗する度に言われ続けてきた。
「それに家族のことですから。貴方に何がわかるっていうの?」
「………お言葉ですが…俺は今の由紀のこと、貴女よりわかっていると思います」
「はぁ?」
「由紀が今までどれだけ練習してきたか、どれだけピアノが好きか……それなのにどうしてピアノをやめると言い出したのか…。ちゃんと考えたことがありますか?」
「…………」
母親は黙っている。
「もしかしたら由紀自身もわかってないのかもしれないけど、俺にはわかる。おまえはピアノが嫌いになったわけじゃないんだよな。それならなんでやめるのかって話だけど…前に理由を聞いた時、おまえは俺だけに弾きたいって言ったけど…それは違う」
ひとつはその通りだった。俺は確かにピアノを弾くのが嫌になったわけじゃない。やめたと言っても全くピアノに触れなくなるということじゃなく、コンクールなどにはもう出ないということだ。何故かと桜に言われたときに、桜のためだけに弾きたくなったと答えたのは忘れていない。もちろんそれは本心だ。なのに、それ以外の答えなんてあるわけがない。
「由紀…おまえは、お母さんに認めてほしかった。それだけなんだよ」
驚いて声が出なかった。予想だにしていなかった桜の言葉に、きょとんとしているのは母親も同じみたいだ。桜はしばらく口を噤んで反応を待っていたようだが、不意に言葉を続けた。
「由紀はあんまり自分のことを話したがらないんだけど、この前教えてくれました。お父さんが亡くなったことと、その直後にお母さんが厳しくなったこと。たぶん…甘やかしちゃいけないと思うあまり、由紀のやることなすこと褒めないようにしたんじゃないですか?」
母親は不機嫌そうに桜を睨みながらも、じっと話を聞いている。
「由紀はそんなお母さんに褒めてもらえるようにピアノをずっと頑張ってきた。でも、実らない。その妥協案として、褒めていた俺にだけ聴かせたいと思うようになったのかな」
そんな馬鹿な。まるで子どもじゃないか。そう思うのに、何故か涙が次から次へと溢れて止まらない。
「下手なんだから褒められるわけないじゃない!」
桜が、泣いている俺のそばにきて背中を摩ってくれていると、母親が突然大きな声を出した。
「貴女ね…」
桜が鋭い眼光で母親を見たとき、後ろで声がした。
「そんなことありません!瀬乃くんの演奏はとっても上手でした」
「瀬乃が上手いから、俺らも必死になって練習したんだぜ」
「そうそう!相乗効果でどんどん上手くなっていったよね」
「瀬乃くんって次の日になると前の日と全然違うくらい上手になってるんだもん。ついてくの大変だったよー!」
いつの間にか後ろには2組のみんながいた。俺の涙はまだ止まらない。
「瀬乃くん、発表の前に出てっちゃうんだもん。ほら」
指揮者の女子が俺に近づいてきてなにやら紙を差し出してきた。「審査員特別賞」と書かれている。
「2年生で賞獲れるなんて本当に凄いよ!瀬乃くんのおかげ。ありがとう」
それをきっかけにして、クラスの人が口々にお礼を言ってくる。俺は泣いているせいや褒められたこと、賞を獲れた嬉しさやら驚きやらで顔が熱くなって、涙も流れ続けたまま俯いた。涙がポタポタ床に落ちる。ちらりと桜を見ると、母親と二人で何か話している。クラスの人たちの声で会話は聞こえない。俺はただ涙を流し続けることしかできなかった。
「おはよう」
合唱祭も終わってまた日常が戻ってきた。教室に向かうため廊下を歩いていると声をかけられ、振り返ると、珍しい人物がそこにいた。
「お、はよ…納地」
「久しぶりだな、話すのは」
周りを見てみたが桜の姿は見当たらない。
「そう、だな…何か用か?」
「いや…用ってわけでもないんだが頼まれて…」
納地は言いにくそうに顔をしかめる。じっと言葉を待っていると、やがて口を開いた。
「その後お母さんとどうだ?…って桜が」
「えっ?なんで…直接聞きに来ないんだよ」
驚きのあとにすぐ怒りがくる。大事なことなのに納地に伝言なんか頼みやがって…!
「いや!あいつにも事情があんのよ!ちょっと、責任みたいな?感じてるみたい…。頼まれてもないのに瀬乃のお母さん呼んだりしてさ。瀬乃の家族の問題に首を突っ込みすぎたって」
「………」
なんとなく、察する。確かに桜は納地以外とはそれほど深い関係にならない、というのを感じていた。それに、クラスの人が噂していたのも聞いた。そんな桜が俺と…仲良くしようとしてくれているんだろうか?告白も…されてしまったわけだしな……。
「………電話する」
「!…助かるぜ」
納地は少し驚いた表情を見せたが、すぐにホッと安心したような笑顔になった。
プルルルル…
連絡先に入ったばかりの桜の番号を押す。発信音がなってから心臓がバクバク言い出して、ああ、柄にもなく大胆なことをしてしまったと思った。
「もしもし…?」
2コールほど鳴ったあとに桜が出る。合唱祭以来会っていなかったので、久しぶりの桜の声に緊張してしまう。そして、俺は何を言うか忘れてしまった。
「あ」
口からつい言葉が漏れ、どうしたらいいかわからなくなり勢いで通話を切ってしまう。何をやってんだと思いながら顔がボッと熱くなる。納地は不思議そうに俺を見るし、廊下を歩く人たちも、みんな俺を見ている気がする。
「わ!」
手の中の携帯電話がブルブルと震えている。すぐに桜の方から電話をかけてきたんだとわかった。
「…もしもし」
「なんで切るんだよ」
恐る恐る出ると桜の声が受話器より先に後ろから聞こえてくる。バッと振り返ると、桜がスマホを耳に当てながら立っていた。
「なんで…」
「実はずっと隠れて、納地との会話も聞いてた…ごめん」
桜は気まずそうに頭を掻いて下を向く。だったら最初から出てこいよ…と思いつつ口には出さなかった。
「それより、その後…どう?」
「あ!俺消えるな!」
納地は本題に入りそうなところで気を遣って走り去ってしまった。別にいいのに…。
俺は納地から視線を桜に戻し、口を開いた。
「あれから、あんまりうるさく言われなくなったよ。ピアノやめることとか…好きにしろって感じで」
「そっか……それっていいこと?なのか?」
「いいことなんじゃないの?とりあえずは。すぐ仲良くなんてなれないし、これからゆっくり時間かけて、俺も母さんも…変わっていくんだと思うよ」
終始申し訳なさそうな顔をしていた桜の顔色が、俺の言葉を聞いて少し明るくなったように感じた。
「桜のおかげだよ。ありがとう」
無意識に微笑みながら素直にお礼を言うと、桜は驚いたように目と口を大きく開いた。それからぶんぶん首を横に振って由紀が頑張ったからだよ!と言って抱きしめようとしてきたので、俺は慌てて教室に逃げ込んだ。登校してきた人がいっぱいいる廊下で、何を考えてんだよ!?
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